「きみってなんか水みたいだよ、なに考えてるかわかんない」
休憩時間のバックヤードで二人きりのとき、先輩社員の佐田さんに言われた。
汚いくらいに不意打ちの言葉。
わたしが唖然として口を開けてると、追い打ちをかけるみたいに、
「好きな人は好きなんだろうけど、俺はきみみたいなの、よくわかんないな」
と。
「いえ、なにも考えてないんですよ」
わたしは言い返したつもり。少し薄笑いを浮かべて、ちょっと余裕ぶったりして。
すると彼は勝ち誇ったように軽く鼻を鳴らして、だろーな、って。
その瞬間。
景色が歪んで見えた。
歪んだ声が反響して聴こえた。
「きみってなんか水みたいだよ、きみってなんか」
???
「なんかみずみたい きみってなんか なにかんがえてるか」
佐田さんはなぜかさっきと同じことを何度も繰り返して言う。
違う。
時間が繰り返されてるんだ。
自分の不思議な体質(?)を自覚したのも、これがきっかけ。
日常生活のいくつかの場面で時間の経過がおかしくなる。まるで自分と世界がリモコンで操作されてるみたいに、少しだけ巻き戻ってまた再生されたり、あるいはリピートが続いたりする。
そのときの自分のこころは、ぐにゃぐにゃで、なんにも感じない。
ただ流れてく景色に身を任せるだけ。
◆
休憩を終えて、勤務に戻る。
まずやることは個室ブースの清掃。
深夜帯の清掃作業は、さながら汚物処理と同義のようなものだ。
ゴミ箱に捨てられた使用済みティッシュをはじめとして、ペットボトルに出してわざわざ蓋まで閉められた小便、椅子に乗せられた大便……部屋中がローションと謎の体液のようなものにまみれていたこともある。
濡らした雑巾とティッシュとファブリーズだけで、担当者の裁量で、それらをできるかぎりきれいにする。
洗剤くらい支給してよって思うけど。
ネットカフェのバイトをはじめてから1年。
実は生まれてはじめて経験する「仕事」だった。きっと普通の人よりははるかに遅いのだろうと思う。
そうして23才になったばかりのわたしは、率直に言えば、よりいっそうアホになってきたような気がする。
学校に行かず、家の自室の中で上達しない絵を何年も描いてたあのころ(と、言うほど遠い記憶でもないけど)。焦燥感と自殺願望で頭の中はずっと忙しかった。
世界は、時間は、とんでもなくゆっくり進んでいた。
この部屋の中が、真っ暗でなにも聞こえない5億年ボタンみたいな空間と大して違わないなんて思ってた。追い詰められ、考え、もがいていた。
今は違う。
働いて誰かの役に立てばお金がもらえる。
それはたぶんわたしにとって救いだった。十数年の日々を無駄に過ごしてきたんだってことも忘れるくらいに。
◆
「佐田さん」
帰り際の彼を呼び止めた。
「さっきの休憩時間、あたしに言った言葉、もう一度繰り返してみてください」
「え? あぁ……なんで今更?」
じっと睨みつけているわたしを不気味に思ったのか、それ以上は深く聞かれず、彼は淡々と覚えている言葉を繰り返した。
「だからさ……なに考えてるかわかんないねって。そしたらきみ、なにも考えてないですって答えたじゃん、なんでそれ、今、蒸し返すわけ?」
馬鹿にしたように、また鼻で笑われた。
覚えてなかったわけじゃない。
もう一度、自分の感情が鈍くなってて、なんにも動かない、なんにも考えてないんだってことを確かめたかっただけだった。
景色がぐにゃぐにゃになって繰り返される、あれが起きてないタイミングで、ちゃんと、聞きたかったから。
◆
あの心地よさ。……ようやく世界の一員になれたようなあの感覚って、ただ自分がアホになってく過程なだけだったんだ。
それはいつしか確信に変わった。
あの仕事を続けてアホになってしまった代償は大きく、わたしは考えたいのに考えられない、なにが自分を襲ってきているのかすらよくわからなくなっていた。
言葉にもイメージにもできない、漠然としたおおきいもの。
ぶつかればいいだけじゃない、曖昧でもやもやしたもの。
家に帰り、自分の部屋にこもる。
昔、母に頼み込んで買ってもらった画材はぜんぶあの押し入れにしまっている。ここ数日、そっちへ視線が向いてしまうけれど取り出すことはない。
あのころのみじめな気持ちに戻りたくはない。世界からはじかれてしまった、デコピンで飛ばされた虫になったようなあの気持ち。
「なんできみは夢を持ってないの? だから今、苦しいんじゃないの?」
佐田さんにはこんなことも言われた。そしてそのあと、俺がいろいろ教えてあげるよ、大丈夫だったらこのあと家に来て、と。
なにが大丈夫なのかわからなかったけど、なんにも答えなかったらいつのまにか、彼の家に連れ込まれていた。
食べ終わったいくつものカップラーメンの容器、尋常じゃない数のタバコの吸い殻、エレキギターと散乱したCD、体臭とまんま一緒だった部屋の匂い、そんな中で、湿気た布団の上で、わたしは天井を仰いで泣いていた。
初体験だった。
涙が流れ続けるわたしの頬を、大丈夫だよ、と彼は猫をあやすようになでる。行為が終わるとその取り繕った優しさもなくなった。
この重たい身体がうとましい。
イメージするのなら、それは広がった羽、いつかの夢や感情を乗せた羽。
その羽をくしゃくしゃに丸めて、丸め続けて、最後には泥だんごみたいなのしか残らない。
わたしはその未来に耐えられない。
自分のこころの中だけで唱えた 泥だんご という言葉がまたぐにゃーっと曲がって、どろだんご・どろだんごと繰り返される。
◆
「行こうよ」
佐田さんはそんなどうしようもない言葉で、勤務終わり、今日もわたしを家へ連れていく。
あの最低な部屋の中で、ほかでもなく、そう言った当人の手で。
わたしはなにも考えない女にさせられてしまう。
「そんなたっかい金額支払えるわけないでしょ! ふざけんな!」
たまにいるのが未払い客。
後払い式だからこういう問題も出てくる。できるだけがんばって対応してみるけれど、開き直られるとこっちもどうしていいのかわからず、店長や社員を呼んで対応してもらう。
たぶんわたしと同じくらい。でもきっと実年齢より大人びて見られるんだろうなって気がする、女性だった。初めて見る顔だ。
結局、彼女の財布の中身も確認して、本当に手持ちがないことがわかった。お決まりの誓約書を書かせた上、後日支払いとして帰ってもらった。
支払えるわけないでしょってセリフ、すごいな、と思う。
あそこまで堂々と生きていけるのは、すごくうらやましい。
◆
午前0時で退勤。一目散に、逃げるように、ここから歩いて10分の自宅へと。
従業員通用口を抜けてすぐの道路で、さっきの女性客を見つけた。
彼女も同時に気がついて、あ、さっきの女の子、とつぶやいた。そしてなぜか安堵したような笑みを浮かべた。
店ではとんでもなく不機嫌で、笑顔なんて一切見せなかったのに。
「ねーあたしのこと嫌いでしょ」
彼女は笑いながら言う。
そりゃそうだろ、と思ったけど口には出せないで固まっていると、今度はいつもより激しく、目の前がぐにゃーっと歪んだ。
この歪み方でわかる。ちょっと先の未来が見えるパターンだ。
彼女が唐突に車道へ飛び出し、タクシーに轢かれる光景。
その未来の光景のすさまじさに、驚いて、わたしは無意識に彼女の腕をつかんでいた。
「えっ……なに、ちょっと離してって」
わたしはそう言われて反射的に、本当に離してしまった。
けれど、すぐまた、ぐにゃっと時間が曲がった。
同じように、次に来る車へ轢かれてる未来の光景が見えた。
だから、わたしは両手で彼女の腕をつかんだ。
「なんで? なんで?」
彼女は困惑したように、大声で。
「落ち着いてください、てか、人間、車に轢かれても死なないことだってあるんですから」
「やーだー!」
「やだとかじゃなくて! 1か月以内に支払いに来るって言ったじゃないですか!」
「今言う? それ」
「言います! だって怒られるのあたしじゃん!」
しばらくの押し問答のあと、お互いに疲れ果てて、路上に座り込んでしまった。
さっきのなりふり構わない対応で頭がぐらぐらになって、わたしは立ち上がる気力もなくしていた。
「ねぇ」息が上がったまま、彼女は言う。「なんかわかんないけどさ、店員さん優しいね、ありがとう。でもお金ないのはガチだから」
わたしとは反対に、腹立つほど、けろっとしてる。
「あ、はい……」
こっちも息が上がったまま、そんな投げやりな返答しかできなくて。
「ん、なんか店員さん、別人みたい、さっきと」
「え?」
「名まえ、なんて言うの?」
「え」
「名まえ! 下だけでいいから」
「えっと、香月、です」
「か?」
「かづき」
「あー、やっとわかった……あたし? 真琴」
「まことさん」
「うん」
「香月ちゃんさ、あたしと一緒だね 見えるんでしょ、少し先の未来とかさ」
◆
真琴さんは、その体質なのか霊感なのかよくわからないものを 雲 と表現した。
まるで雲になったみたく、自分がもやもやになって消えてくような気がするから、そう言って。
真琴さんの場合、わたしみたいに数秒のレベルじゃなく、時には何時間も過去や未来の世界におきざりにされたまま、いつ終わるのかもわからず、じっと耐えることしかできないときもあるらしい。
だから実は、わたしに会うこともわかってた って。
「ほんとはさ、試したかったの。嘘じゃないって……ねー最低だと思う? 香月ちゃんが助けてくれなかったらさ、他でもない香月ちゃんの目の前でさ、血ダルマになって死んでたかも」
「……ううん、最低とか、あたしはそんなこと、思いません……」
なぜだか、そんな単純な言葉しか出なくて。
「あ、そう……ありがと」
真琴さんは手のひらをわたしの額に当てる。
温かい。
まだコートが必要な春のはじめの夜、その手はわたしを懐かしい気持ちにさせた。
あれだ、母の手だ、って。ほとんど20年ぶりくらいに思い出す。
「あーわかった、香月ちゃんのこと、いろいろわかった……ちょっと話そうよ、ここじゃプライバシーないよ? あたし、すごいんだから」
「え? えっと、話す……?」
「お礼なんてぜんぜん足りないじゃん……だからさ、香月ちゃんが今苦しんでること、ちょっと聞いたげるよ。ちょっとここ車うるさいしさ、ね、ほら聴こえないじゃん? うるさくないとこ行こ」
「ど、どこ行くんですか?」
「この上は? リバティの屋上。香月ちゃん店員さんなんだからさ、こっそり入れるでしょ」
そう言って指差したのは、さっきわたしたちがいた、駅前で一番おおきな複合ビル。ネットカフェもその中のたくさんある店舗の一つで。
「夜景が見たいの」
真琴さんはそう言って、わたしを引き連れ、強引に搬入口から従業員用エレベーターへ突入した。そのまま最上階のボタンを押して、出たとこで適当に真っ暗な通路を歩いてたら、本当に階段から屋上に出れた。
ほらね、と真琴さんは嬉しそうに笑っていた。
◆
屋上から見る街の景色は、わたしの予想より遥かにきれいだった。
やわらかなオレンジの光が暗闇を点々と照らす。
電車やモノレールの駅、大通りの街灯、少し遠くの山。
空は思ったよりも広く、狭苦しい見知ったこの街とは別物みたいだった。
真琴さんはふいに口を開く。
「えっと、香月ちゃんは今、泥だんごになっちゃうかもとか思ってます」
「!!」
「ねーほら、あたしすごいでしょ? 図々しい? 最低?」
「そ、そんなことない、ですけど……真琴さんそういうのわかる人なんですね」
「うん、見えるの、好きな人だけね。やだったらごめんね、ってもう遅いか」
そうして真琴さんは、ふいに、持っていたおおきなカバンからスケッチブックを取り出した。
鉛筆で、真下の光景をやわらかく写生していく。
「こんなことしなくても、ちゃんと記憶してるんだけどさ、でも描きたいって思う気持ちってさ、ただ人間らしくいたいからって、それだけなの」
しばらくわたしたちは無言で、時間が過ぎるのに任せていた。
真琴さんはずっと描き続けていた。風は冷たく、でも二人で隣り合ってると不思議に暖かくて。
「苦しいときってあるじゃん、でもそれがなくなったらさ、人間じゃなくなるって思うときない?」
「ん、なんだろ……人間じゃないっていうか、アホになっちゃうって思いました」
わたしがそう答えると、真琴さんはかすかに笑って、
「エモい言い方ー! めっちゃ好きなんだけど……あ、ごめんね」
「いえ、ぜんぜん」
わたしはいろんなことを話した。
子どものころのこと、学校に行かず家で過ごした十数年のこと、今の仕事のこと、自分にはまだ羽があるかもっていつまでも思ってしまうこと。
真琴さんは、自分の素性が明らかになるような話は一切しなかった。
わたしの話を聞いてくれてるだけ。
それでもなんとなく、少しはわたしと似たような人生を歩んできたんだろうなって、勘違いかもしれないけど、そう感じた。
かわりに、真琴さんは未来の話を聞かせてくれた。
(これは余談みたいなもので、べつに信じなくたっていい)
「ちょっとだけ教えたげる。いい? あたしたちみたいな変わった人ってさ、ほんとはたくさんいるけど、あたしみたいに親切な人ってマジでいないからね」
とても遠い、わたしからしたら遠い未来の話だ。
100年後、200年後とか言われても、全然ピンと来ない。
わたしはおとぎ話を聞くような気持ちで、真琴さんの話に耳を傾けていた。
いつだかわたしは自分の中の、カチコチに固まった泥だんごの気持ちを忘れそうになっていた。
あまりに生きてるスケールが違いすぎる人を見ると、あっけに取られてしまう。
そのおとぎ話はとてもよくできていた。あるときは悲劇的で、そして人間は、今のわたしたちが想像もできないような形で滅ぶんだって。死滅するとかそういう意味でなく、地上からはいなくなる、だって。
「ほら見て、きれい。あっちが都心かな? ……遠いとこにいるなー、あたし……じゃない、あたしたち」
ずっとずっと、その夜の街を見ていた。
その景色はもはや、ぐにゃりと曲がることもなかった。
わたしが昔から知っている、安心できるリアル。
翌日、多摩リバティの屋上から女性が飛び降り自殺したというニュースが流れていた。
真琴さんかどうかはわからない。
そんなのとは関係なく、彼女にはきっと、もう一生会えないって気はしていた。
「え、なんで戸篠が払うの?」
店長はいぶかしげな表情を浮かべる。
わたしは支払い滞納者リストから彼女の名まえを消したいという単純な思いだけで、昨日の真琴さんの未払い料金を肩代わりした。知り合いだったんで、とか適当な理由をつけて。
真琴さんはあのカバンを屋上に置き忘れていた。今はわたしが自宅で預かっている。
その中にはスケッチブックが何冊も入っていて、彼女があの日語った通りの未来が、いくつも描かれていた。
真琴さんが残した絵を見てる瞬間だけ、たしかに自分が生きてるって感じがした。
誰かに必要とされることなんかじゃなく、自分の身体をなくして、ただ目の前の絵に没入することが本当の喜びなんだってことを知った。
そう思うとなんだかあの十数年間、部屋にこもって誰にも見せない絵を描いていたあの時期を少し、ほんの少しだけ肯定できるような気にもなって。
わたしは自分の身体をなくせるものを探してたんだ。
それは自分の力じゃなんにも足りなくて、こうして誰かの作ったもので癒されてる。
悔しさとか嫉妬はない。
真琴さんはきっと間違えちゃったんだろう、わたしなんかを救ってしまって。
きっと今ごろ、もっと深い孤独を抱えた人がどこかで泣いてるはずだ。
今思えば、彼女は神様の遣いかなにかだったのかもしれない。
◆
家と職場の往復はそれからもずっと続いた。
その狭い人間関係の中、色んなことで傷ついたりもしたけれど、だんだんアホになっていくわたしは、もう絵を眺めるなんてこともできなくなってた。
わたしは困ってしまった。
だからその日、布団の中に潜り込んで、真琴さんを呼びかけた。
返事があった。
そういうとこ、彼女はとても律儀で。
わたしの中の真琴さんは白馬の王子様。
一生懸命描いてくれた絵すら見なくなってしまった、どうしようもなく底辺の女であるわたしにさえ、手を差し伸べてくれる。
わたしだけに、手を差し伸べてくれる。
気づけばそんな妄想を数年続けていた。
傍から見たら、これほど退屈な人生はないんだろうな。
「あたし? あたしでいいなら聞いたげるけど、もうあの時のあたしよりさ、香月ちゃんのほうが年上じゃん」
とか、
「あたしの絵、見てくれてんだよね? あのページに描いてたこと、現実になったでしょ、ほら」
とか。
◆
わたしは、真琴さんと妄想の中で会話ができる布団の中がとても好きになっていた。
どこにも逃げ場がなかったあのころと、逃げ場をひとつだけ作って徐々に死んでいく今、果たしてどっちが正解なんだろう。
「もう限界……あたし真琴さんと一緒にさ、リバティの屋上から飛び降りたい」
「なんで? 香月ちゃんいつもがんばってるじゃん」
「身体なくして、真琴さんと一緒になりたい」
「そっか、うん、わかるよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ、あたしを誰だと思ってんの」
「真琴さんと一緒になりたい」
「そう」
「ね?」
「……香月ちゃん、当ててあげよーか」
「うん」
「なにも見たくないって思ってる、あたしと一緒なら、なにも考えない泥だんごにだってなれるって、思ってる」
「うん」
「ね、苦しいよね」
「……真琴さん」
「はいはい」
「もしかしてさ、あたし今、真琴さんを困らせてる?」
「んなわけないじゃんね、大丈夫だって」
わたしはいつしか真琴さんより、よくしゃべるようになったのかもしれない。
こわくて、先にしゃべってしまうのかもしれない。
寝落ちして朝が来て、毛布のぬくもりの中で、また一人になってる。
そのときの絶望感を、よく覚えておいて。
わたしはそれを、今夜、彼女に会うためにとっておくんだ。
初出:note 2019年5月頃