夢を見るのが好きで、隙さえあれば寝てばかりいる。僕は昔から現実にあまりなじまないたちだったので、部屋の隅で畳を引っかいてばかりいたらいつのまにか三十を過ぎてしまった。両親は年を取り、小学二年生くらいのイメージだった姪っ子はいつのまにか成人式を迎え、Facebookで見る同級生のプロフィール写真が続々と子どもの写真に変わる。次々と、さまざまなものが収まっていく様子はどこか不気味で、しかしそうしなければ人は生きていけないのかもしれないとも思う。僕は浮遊する塵雲のようなものだと思いながら生きるのもいいけれど、そう言葉にした時点で彼は塵雲という型枠に収まる。やだなあ、と思いながら、爪と髪が伸びて、しわが増えるだけなのに、今日も昼寝をする。
 夢日記をつけるのは、やばいらしい。ネットで見たことがある。つづけると発狂するぞ、ってやつだ。夢と現実の境がわからなくなり、しまいには飛び降りたという真偽不明の話。でも、その話を聞いてなお夢日記をつけてみようと思うほどの覚悟はない。たまに見た美しい夢なら文章にしてみようかな、悲しいけれど、収めてしまおうかな、という程度だ。こうして現実に収まってしまう準備を進めていくのが、やっぱり満ち足りた人生のかけらになっていって、しまいにはなんだかいろんなことを思い出して泣けてくるかな。なつかしい、と思うことが泣けてきて、また寝転がりたくなる。僕はやっぱり、収まらないほんとうの(イデアとしての)塵雲になりたい。
 空を見るとこころが休まる。畳を引っかいていても現実に引っ張られるだけで、外の景色を感じたほうが、ほんとうはいい。夢の中の僕は、そんな風によく晴れた空の下に立っていて、土には巨大な穴が開いていた。とてもきれいな半球の形をした、なだらかな穴で、底の深さもそんなにない。きちんと固められているので、どこからでも歩けるし、底まで行ってもふつうに歩いて地上にもどれる。
 この穴がある場所はとある小学校の校舎の裏で、夢の中の僕はその小学校の用務員だった。用務員の仕事は平日の朝から夕方までで、仕事内容はよくわからない。夢の中では、実際に手を動かして仕事をしている場面はほとんどおぼえていない。もっぱらおぼえているのは、昼休憩のわずかな時間、この穴のふちに座って、晴れた空の下にいたことだった。それは日課になっていた。四季が何度巡っても僕はこの穴に毎日、同じ時間、座っていた。数十分もすれば一日の大半である勤務時間がやってくる。
 自分でいうのもなんだけど、けっこうまじめに仕事をしていたのだと思う。教員や生徒と直接かかわることはほとんどないけれど、いつもちいさな脚立を持って校舎中をうろうろしているので、顔はおぼえてもらっているかもしれない。
 僕がこの学校に就職したばかりのころ、この校舎裏には穴はまだなくて、わずかばかり、土に適当な白線が敷かれた来客用の駐車場があるだけだった。でも駐車場は校庭の前にもあるし、校舎裏はほとんど人が立ち入る用事もない場所だった。
 もともとの話からすると、校舎を含んだこの敷地全体は、戦前、それなりの規模の軍需工場だったそうだ。特二式内火艇という水陸両用戦車を製造していたらしい。戦時中、徴兵された男性以外の若者は、男女問わずたいていこの工場で製造作業のどれかの工程に携わっていた。しかしこの工場は空襲で壊されてしまった。白昼のことだったのでそこにいた人も大勢死んだ。その後、戦後十年ほど手つかずのまま全壊状態で残置されていたこの工場は、ようやく時が動いた。瓦礫は撤去され、真新しい校舎に生まれ変わり、この町唯一の小学校が開校した。つまりこの校舎自体もかなりの年月が立っている古い建物なのだ。
 開校したばかりのころ、校舎裏の大半のスペースは、軍需工場時代の特別高圧受電施設がほぼそのまま残っていた。ここだけは空襲による損壊がほとんどなく、瓦礫にもならなかった。それなのでかえって撤去には費用がかかり、当時の市の財政では捻出が困難だったらしく、幹線だけ切り離し安全にしてしまえば、柵もそのまま残っているし、図面上では校舎裏になるのだし、いいのではないか。そのまま放置してしまえとなっていたようだ。
 こうして数十年が過ぎ、僕がこの学校に着任してすぐのころ、この校舎裏の特別高圧受電施設(専門的には特高と略したりするのだけど、もう書かないのでそのまま)は二週間くらいかけて取り壊された。市の予算が余ったからとか、そういう理由らしい。
 住み慣れた部屋を引っ越していくとき、狭い部屋だと思っていたのに、すべて荷物がなくなってみれば意外と広く感じることがあるけれど、そんな具合で、それがなくなった校舎裏は驚くほど広く、風の通りもよくなって、晴れた空が高く見えた。
 なにもなくなった校舎裏に、その後、穴ができた。穴があっても、まだ校舎裏のスペースは広く余っていた。僕はこれまで、その穴からの景色をずっと見てきた。
 穴は四季によってちがう姿を見せた。春には雑草が生え始め、夏にはそれらが最盛を迎え、たくさんの花さえ咲かせた。秋にはいくつかが稲穂になり、冬になるとだんだん枯れていき花と実が地面に落ちた。そしてまた春となる。この穴は、穴という言葉から連想されるよりもよほど清らかな景色に見えた。特に、日の光を浴びて萌え出す草花で緑に覆われた初夏の穴はとてもきれいだった。
 いつしかこの穴の存在は人々に知れ渡っていった。放課後、穴の周りで遊ぶ子どもたちがちらほらと見え出したのがはじめだった。休み時間や放課後の遊び場として知られてからは、だんだんと近所の若者たちの姿も見えるようになった。穴のふちに座り込んでいるカップルや、僕みたいに一人、空と交互に見分けている人。僕しか知らなかったこの穴は、だんだんと人々の憩いの場になっていった。夏祭りの時節、校舎裏には露店がたくさん並んだ。さらには食堂や喫茶店なども出店した。校舎裏はこのように、かつての裏寂しさがうそみたいに有効活用されていった。その中心にあるのが、穴の存在だった。
 お店ができたとはいえ、もとよりちいさな町なので、常に人でごっちゃになっているなんてことはなく、祭りのとき以外はぽつりぽつりだ。でも逆にいえば、いつでもだれかが穴の周りにぽつりぽつりといて、なにか生活や人生のさまざまなことを語って、笑い合っている。僕はいつも対面(いちばん距離が離れるにはそうするしかなくて)のふちに座る。そうすると、盗み聞きしようにもできないけど、声は聴こえるくらいのなんともいえずちょうどの感じになる。僕はどこか、いつも一人でいるけれど、一人じゃないみたいだった。笑いかけてくれる人もいた。その人はそれ以上なにもなかった。ただ、この穴に一緒の時間いたことだけが共通点だった。 
 次の年の夏、夏祭りが開かれて、去年よりたくさんの露店が並んだ。夕方の少し涼しい時間だった。僕はいつもこの夏祭りのときだけ、どこかおぼつかない。人がたくさんいるから。穴にもたくさんの人が座り込んでいる。焼きそばやチョコバナナを食べたり、子どもが遊んだりしている。僕は立ったまま、きょろきょろと見回すだけで、落ち着かないような気もするけれど、でも少し誇らしい気持ちもあった。僕には、みなが幸せそうな顔をしているように見えた。そのときだけでも、そうであってくれたらいいなと思った。
「花火だ!」
 と、だれかが言った。みんなが一斉に少し遠くの空を見た。たくさんの花火が上がって、人々は穴の前でそれを眺めていた。
 その最中、穴のふちにちいさな靴がひとつ、落ちていたのに気がついた。子どもの靴で、どうも女の子の靴のようだった。どうも持ち主っぽい子どもは周りにいなくて、困って、どうしようかなと思って、しばらくその靴を持ったままうろうろしていた。するとまもなく、若い女性が僕に声をかけた。靴の持ち主の子の母親のようだった。
「ありがとうございます、探してたんです」
 僕は軽く会釈して靴を渡した。なんだか少し恥ずかしかった。その親子はたくさんの人にまぎれてあっというまに消えてしまった。でも、それから僕はその母親の兄と名乗る人に会った。お礼がしたいので一緒に飲みましょう、と彼は言った。ちょうどカフェの跡地にちいさな居酒屋ができたばかりで、僕たち二人はそこの端の席に座った(学校なのに居酒屋って思うかもしれないけど、夢だからしょうがないじゃん)。生ビールを頼んで乾杯をした。店内は一年に一度の繁盛でてんてこまいになっていて、人でごった返していた。
「いや、この場所もずいぶん変わりましたよね」
 彼はすぐにジョッキ一杯分飲み干して、おかわりを頼んでから、そう話した。
「僕はここが地元なんです、小学校もここでした。校舎裏は立ち入り禁止だったけど、ほら、昔ここって戦車作る工場だったとかっていうじゃないですか、空襲で焼けちゃって。だからそのことで、ちょっと怖いイメージがあって、いろんな噂もありました。肝試しみたいなことをしようとして、先生にばれて怒られて、結局行けなかったんですけど」
 そうなんですね、と僕は言った。
「今は、すごくいい場所ですよね」
 と彼は言った。僕はうなずいて、あまりお酒は強くはないのにちゃんとビールを飲んで、二人とも顔が赤くなった。いろんな話をしたはずなのに、やっぱり、あまりおぼえていない。僕はここが地元ではなかったので、自分の地元の話などをしたような気もする。でも、この町は好きなのだと、僕は彼に伝えた気がする。
「しかし、あの穴はどうやってできたんでしょう……?」と彼は言い、つづけた。「謎ですよね……自然にできたわけじゃないだろうし、すごくきれいですから。僕、建築設計の仕事をしてるんです、だからわかります、もしですよ、ちゃんと人が作ったのなら、すごく丁寧に、図面でも引いてからちゃんと作ったんだと思うんですよ」
 彼はそれから、自分ならどうやってあの穴を作るか、ということを、熱を込めて話し始めた。水平はどう取る、どうやって半球状に土をならして固める、など。僕もおもしろくなって、まず平面で墨出しして、円筒状に土を掘って、などと議論を重ね合った。そうすると、僕は、なにもない地面に穴を作り出したころのことをだんだん思い出してきて、そのころがとてもなつかしくて、お酒で頬がぼうっとなっていたついでだと思って、涙も少し出たりした。晴れた空の下、だれもいない校舎裏、シャベルで掘り出した土の匂い、暑い夏の日射し。
 彼は驚いたように僕の顔を見た。そして、
「もしかして、あの穴は、あなたが……」
 と、彼は唇をこころもちふるわせながら、そうつぶやいた。その目はわずかにうるんでいて、とてもきれいだった。
 僕はそれでも、そうだとはけして言わなかった。でも、ちがうとも言わなかった。まだお酒を飲んでいたかった。花火の打ち上がる音はまだつづいていた。


初出:神谷京介オフィシャルサイト(仮) 2024年6月

脱稿:2024年2月27日