夜の海が広がっていた。
海と空以外はなにもなく、群青色、さざなみが伸びる、僕は浜辺に立ち尽くす、海の先には、映画館のスクリーンのようにおおきな、空、オレンジとグリーンの発光がちらつく、どこにでもあるけれど、音はひとつもしない。
だれもいない。
しばらくそのスクリーンを見ていたら、部屋の外から母の声が聴こえた。
それは声や言葉じゃなく、だから僕も声ひとつ出さずに返事をして、振り返ると浜辺にはぽと扉があり、それは扉や部屋じゃなく、だから僕はるようそぶりをした。
記憶は途切れ、僕たちはキャラバンに乗っていた。幼いころ、父に連れられ、山を越えて遠くまで走ったあのキャラバンだ。
僕は後部座席の右側に乗っている。左側にはあの人がいた。
運転席と助手席にはそれぞれ男が乗っている。
キャラバンは夜の空の下、夜の道を走っていた。緩慢な速度で、あの星と比べれば亀みたいだ、だったよね、僕はあの人にそう語り掛けることができない。
前の席の男二人はずっと喋っていて、その会話が途切れることはない。
日が昇るまえにここにいる僕たちは償わなきゃならない、から、怖くて喋るのをやめられない。僕も窓の外を見ることができない。
車内は薄暗くだれの顔もはっきり見ることができない。
そうして長いあいだ僕たちは道なりに進んでいく。
道はどこにも分かれていなく、僕たちは迷うことがない。
ここ知ってるよね、助手席の男が僕に顔を向けて言った。
昔通っていた小学校の通学路、夜のこの道を見るのは初めてのような気もする。
僕たち以外にはだれもいなく、家もなく、人が息をひそめている気配もない。
飴が暑さで溶けるみたいに、ゆっくりとなくなっていくだけだ。
透明な水になっていく。
ゆるやかなカーブ、エンジンの音。
そうだ、一度だけ夜のこの道を歩いた記憶がある、なぜだろう、理由も思い出せないのに。
こわくはなかったから、おそらくだれかと一緒にいた。
声を出さずに僕がそう言うと、運転席の男はおおきく頷いた。
俺もだよ、と言い、疲れたようにうなだれる。
信号がないから、キャラバンは休むことなく走り続ける。
僕は、音楽、のかけらがいくつも聴こえてくるような気がして、子どものころから、そういう歌のワンフレーズとか、記憶だけはよかったから、いくつもいくつも、聴こえてくるような気がしていた。この空には星はないけれど、そのかわりに音楽が数限りなく生まれてくるようで、そう、だけど音はしない。
だれが聴いているわけでもなく、音、は、来てくれない。
キャラバンは更に速度を緩めた。
遊園地のなかに入った。そこは僕が子どものころ、家族でよく訪れた古いちいさな遊園地で、観覧車だとか、メリーゴーランドだとか、乗り物がいっぱいあるのに、あのころのような広さは感じない。この目にすべて収まるくらい、歩けばすぐに一周できるくらい。
ジェットコースターのレールは錆びていてなにも走ってない。
僕が子どものころからずっと、点検中の札がかかっている。
どう? と助手席の男が言った。なにかさ、思い出せそう?
僕は首を振り否定する。
僕はなにも思い出せない。
だからようやく空が色づきはじめた。日が昇る、もうすぐ、そうだ。
遊園地を通り過ぎたあと、狭い道を通って、僕たちはちいさな湾に着いた。
家から歩いてすぐ、子どものころ海と呼んでいた、市内の陸地を裂くように広がっていて、ほんとうの海はその先のずっと奥にある。
僕たちは初めてキャラバンを降りた。まだぼんやりと薄い色を空はしているけれど、日は昇りつつあった。
ほんの少しの風に僕たちの身体はさらされ、なにもない僕たちのことも、責めたりはしなかった。あの人はしゃがんで、目線の低くなった静かな緑色の海を眺めていた。
僕はそのそばに行けない。罪を償わなきゃ、でもなく、それはみんな同じだし、あっというまに白くなる空にも許してくれない。
僕は海の表面を見ていた。遠くで見ると深い緑色をしているのに、近くで見ると思いがけず、透明で、とてもきれいだと思った。
沖合にはいくつもの街、あそこにあるおおきな橋を越えてしまえば海へ続く。
その手前にふたつの小島が浮かんでいて、僕たちはそこにたどり着けない。
僕たちはふたたび車に乗り込む。
時間がない、運転席の男はつぶやく。
僕たちもきっとそうだと思うけれど、声には出さない。
僕とあの人が、違う、僕はあの人にわかってもらうことができなくて、短かった時間の中で暗闇が溶けていくのを感じた、あの人はそれを知らなかった。僕もあの人の暗闇を知らなかった。
季節も忘れたけれどきっと、手が触れそうになって僕はだからそこで溶けてくと思った。自分のためにあの人を、自分の暗闇のためにあの夜、になろうとしてた時間、あの人は僕を拒んだ。なぜだろうずっと今まで生きてきたのが終わって、それだけが記憶にある。
もう会わないと決めたあの日から、あの人にも僕のことを、おそらくとっくに忘れているんだろうけど、塵にもなれないくらい忘れてほしくて、それくらいごめんって思ってた、あの人の大事な時間を奪ってしまったことを。なのになぜ、今、僕の隣にいるのはあの人なのかな?
僕は違うんだ、名まえを一度も呼んだことのないきみなのに、なぜだろう?
もう間に合わないかも
え? うそ
こっちから行こう、近いから
やめとけよ、僕たちの知らない道だろ
だれの記憶にもない道、ほら
峠道、真っ暗だ。さっきの朝の光はとうになくなっている。
きついカーブと上り下り、ひび割れた路面、ヘッドライトが切れて僕たちは二度目の死を覚悟する
なんで、言われたとおりに生きてきてさ、罪だとか償いとかさ
それはほんとうに俺たちのせいなの?
俺たちを裁くあいつらはなにもわかっちゃいない
あいつらも共犯なんだ、同じ世界の共犯者だろ
運転席の男と助手席の男は僕自身だ。
僕はそうしていくつもの、違う同じ、はじまりとおわりを語り合った。ブレーキの効かなくなったキャラバンのハンドルを右左に動かし、汗を流しながら、僕たちは狭く暗い峠道を必死に走っていった、それが、僕たちのもうおわってしまった短い旅を語り合うこと。
僕たちは、ほんとうはいつまでも語り合っていたかった。
スピードを上げようと運転席の男は言った。
助手席の男はやめろと叫んだ。
こわくなんかないだろ、運転席の男は自分に言い聞かせるみたくつぶやく、アクセルを踏んだ。ヘッドライトが照らすほんの少し先以外、景色は真っ暗でなにも見えなかった。
車内はおおきくゆれる。カーブがきつくなったからだ。
もう間に合わないかもしれない。
ブレーキの効かなくなった僕たちのキャラバンはこれ以上、僕たちを守れない。僕たちもキャラバンと僕たちと、きみを守れない。ごめんよ、こんなとこに連れてきて、その上、僕は、きみを守れない。
声が聴こえる。
ガードレールが眼前に見える。ハンドルをおおきく切る。
車体が削られる音がする。キャラバンは傾き、横転する。
狭い車路からキャラバンは投げ出される。
これが僕たちへの裁き、二度目の死を僕たちみんなが悟る。
その一瞬、だれも喋らない。
僕は隣にいるきみを見るまえに、なんにも考えず、きみのその身体を抱き寄せた。僕の胸の中にきみの身体をかくまった。きみは僕に腕を回して、ふるえていた。
キャラバンは落ちていった。
薄目を開けると狭い部屋の天井が見えた。
布団の中は暖かく、仰向けになった僕の身体は動こうとしない。
首を振ることもできなくて、でもわかったんだ、きみが隣にいる、隣できみも寝ている。
だから起きて、新しいはじまりにもどろう。
そう思っても、やっぱりそう、こわくて、はじまりとおわりは裏返しで、いつひっくり返るかわからない。
どっちだろう?
僕たちは同じタイミングで、身体を起こした。
その瞬間鎖が解けて、感覚が呼び覚まされた。
顔を見合わせた。
はじめて、きみと目を合わせた。
きみはぜんぶわかってた、だからそんな風に笑えるんだ。
笑ってもいいよ、そう言っているみたいに。
すべての記憶は巻き戻り、僕たちは一生分、それ以上、一緒に過ごした時間を感じた。ほんの一瞬で、すべての時間を、今までのことを埋め合わせるみたく、感じ合った。
すべてを分かち合うと、それがおわると、僕ときみはまた笑い合った。
さっきの時間がまた巻き戻っていた。
外に出るための車を持ってない、キャラバンの記憶は失われ、今はもうずっとない。
初出:note 2019年5月頃
脱稿:2013年~2018年頃?