子どものころの話をします。
わたしは何回か死にかけたことがあって、そのときのショックで前後数年間の記憶が相当曖昧になっています。事実に比して多少の矛盾や齟齬があるかとは思いますが、どうか目をつむっていただきたいです。
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わたしは当時8才。父親と母親と、2才になる妹との4人で、とある地方都市の一軒家で暮らしていました。
当時はまだ中流家庭といった言葉が機能していたくらいの時代ではあり、わたしたち家族も分類するならばそのようでした。
父は公務員で、具体的にどんな仕事をしていたのかは知りません。スーツを着て出勤していたから役所勤務かなにかだったのでしょうか。母は近所のスーパーで働いていました。妹は保育園に通っていました。わたしは小学二年生で、この言葉も今は死語なのかもしれませんが、鍵っ子でした。
家に帰り着いてから両親と妹が帰ってくるまで2、3時間はあったと思います。そのあいだわたしは、家の中でいろんないたずらを試みていたような気がします。妹の洋服をはさみで切り刻んだりとか、布団にもぐってそのままおもらしをしたりとか、毎日なにかしら知恵をしぼって実行していたと記憶しています。
わたしの無軌道ないたずらを、両親は激しく叱ったりはしませんでした。
ただ呆れたように、そんなことしないでね、もうお姉ちゃんなんだから、とだけ母は言うのです。
わたしは何も聞こえないふりをして首をかしげていました。
さみしいとかそんなたいそうな理由でなく、ただ退屈だったのです。
わたしは部屋の中でみんなの帰りを待つあいだ、空の色がゆっくりゆっくり変わっていくのを必死で眺めていました。早く真っ暗になって、両親に帰ってきてほしかったのです。
だけど妹はべつに帰ってこなくてもいいやと思っていました。これは本心です。
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たしか風がなまぬるく膨らんだ春の日でした。春はいちばん退屈な季節だとわたしは思います。
いつものように学校に通い、そして帰宅し、その日のいたずらを思いついて実行しながら、家族の帰りを待ちます。
空が暗がりになりかけたころ、母が帰ってきました。だけどいつもは母に連れられて帰ってくるはずの妹の姿がありません。
なっこちゃんは? とわたしは母に訊ねました。
すると母は明らかに適当なごまかし方をしました。今、お外で待ってるんだよ、とかそんな返答だったと思います。それでもわたしは妹にさして興味がなかったので、ふーん、とか言ってその場は終わりにしてしまいました。
続いて一時間ほど経った後、こちらもいつもの時間通りに父が帰宅しました。彼はわたしと目を合わせることもなく、そそくさと母のいるリビングへ歩いていきました。それから数分が経ち、両親はなぜか玄関で靴を履き始めました。手ぶらで、どこに行くとかも話していなかったように思います。
「早弥子もこっちおいで」
母がこころもち笑みを浮かべて手招きします。わたしはその張りついたような笑顔が少し怖く感じたことを覚えています。
それでもわたしに拒否するという選択肢はありませんでした。子どもってそういうものじゃないでしょうか。
わたしは、とてとてと玄関まで歩いていき、自分の靴を履き、外に出ました。父は車の運転席に乗り込みわたしと母を待っていました。母は助手席に乗り込み、わたしは後部座席に乗り込み、車は発進しました。
車は夜の郊外の県道を進み続け、真っ暗な車内で誰もなにもしゃべりません。高速道路に入るのかと思ったらそういうわけでもありません。わたしが見たことのない道を進んでいきました。
一時間ほど経ったでしょうか。外灯もないような暗く狭い峠道が続いていました。
ふいに、がくんと車内がゆれて、山の中のような場所に入っていきました。道なき道をがたんがたんとおおきく車体をゆらして進んでいきます。わたしはシートベルトをしていなかったので、何度も前の座席に頭や鼻を打ちつけました。母はそのたび、ちらりとわたしを一瞥しましたが、言葉をかけてくれることはありませんでした。
山の中を進んでいる時間はとても長く感じました。
そのうち、車はおおきくブレーキを踏んで停まりました。
両親はつけていたシートベルトをゆっくりと外し、二人ほぼ同時に後部座席のわたしを振り返りました。ただ、見るだけです。なにも話してくれません。
「帰りたい」
と、わたしは言いました。精一杯の意思表示でした。そうしたら父も母も、ふふふ、と馬鹿にしたように、憐れむようにわたしを笑いました。そして前を向き直り、車はふたたび発進します。
シートベルトをつけなきゃ、と思いました。わたしは震える手で、暗がりの車内の中で、このちいさな身体を包むには多少長いシートベルトを、手探りで、何分もかけて、ようやくカチリと音がして装着しました。それと同時くらいに、車はとてつもなくおおきな音を立て、目の前の巨大な樹木に衝突しました。フロントガラスが一瞬で真っ白になり、硬い枝葉が運転席を突き破りました。わたしは思い切り前の座席にぶつかりましたが、奇跡的に、なのか、シートベルトをしていたから、なのか、ほぼ無傷で済みました。
わたしはシートベルトを外し、ドアを開けました。地面に足を下ろした瞬間、身体がとても重く感じました。それでもわたしはできるかぎり全力で逃げて、道もなにもない山の中を走っていきました。そのうちどうしようもないほどの下りの傾斜に行き当たったのですが、わたしはあわててそこを駆け下りました。角度が急すぎて足がもつれ、そのまま転がっていきました。落ち葉や木の枝が身体中を刺すようで痛かった。それでもなお、父の追いかけてくる足音が聴こえるような気がしていました。
わたしはその後、どうなったのでしょうか。
つづきは書かない約束なので、これで終わりです。
わたしは身体がなくてもお話が書けるので、つづきはいつか、どこかで書いてみようかな。
いつか会いましょうね。
初出:note 2019年5月頃