山に積もった雪が大方溶け、梅の花はその夜のうちに咲いた。
小川を縁取るように咲く梅の花だ。
だれも知らないその川のほとりでは、老いた女が手をすすいでいる。袖を上げると、朝の光がこぼれて雫を照らした。
その光を拾って、ポータブルラジオから音楽が鳴った。
それにつられ、ゲーム機やテレビ、ラジカセ、エアコン、みんな川辺に打ち捨てられていたのに、紫と赤の血をにじませ、動かずに音を立てている。
そのときテレビがついて、彼女は見ている、記憶の中にいたあの子どもたちの映像だ。ぼんやりした色と輪郭、あのころ流行ったメイクやファッション。
長い夜がようやく終わり、雪の下に眠っていた芽はきっと顔を出すだろう。その想像で、時間などとっくに過ぎ去ってしまったのだ。
「おばあちゃんに持ってきたものがあるの」
旅の宿の娘がどこからかやってきて、手のひらいっぱいの花びらを老いた女に見せた。老いた女がそれを手に取った瞬間、彼女たちの身体もまたたくまに梅の花びらに変わり、散ってしまった。
その花びらは小川を流れたり、あるいは風に乗って遠くの、べつの旅の宿まで運ばれた。
そこでは少年が一人、ウグイスの鳴き声を真似しておどけていた。かやぶきの宿の外だ。
だれよりも律儀な彼は、夜が明けたことを村じゅうのみんなに知らせていたのだ。
襟には風に乗って飛んできた花びらが積もっている。首を振って払う、そのとき、たくさんの花びらは色を変えた。
様々な色だ。赤、青、オレンジ、緑、桃色、紫、それらが種をつけ、時間をかけて色とりどりの梅の花になったのだ。
光が当たるたびに色を変える、不思議な梅の花だった。
霞が散らばっているその村で、一人の少女が昨日、旅立っていった。
その少女は空中に巨大な光のレールを残していった。それは今でも警告音を発しながら、赤と白に明滅している。
昨日はこんな夜だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「レイ、支度は終わった?」
母親はふすまの向こうの少女に呼びかける。かまどのそばで、最後のごはんの支度をしているのだ。
「もうちょっと待ってってば、って、さっきも言ったじゃん」
レイと呼ばれた少女は笑いながら答える。その手にはスマートフォンが握られている。イッセイからのお土産のひとつ、興味深くてずっと触ってしまっていたのだ。
レイは畳の上にスマートフォンを落とす。すると落とした瞬間、泉のように波紋が広がり消えていった。
そしてトランプくらいの大きさのカードの束が、紫色の光に縁取られ畳一面に並べられていった。
レイの自室は真っ暗にしていたけれど、その灯りで照らされて手元もはっきりと見えた。そのカードのひとつひとつが明日からの旅先での記憶だった。彼女はその記憶ひとつひとつと、今まで通り対話を始めた。
もしもし世界のみんな、今日は空が赤いの?
風船のような飛行機が飛んでることに気づかないでいるの?
尻尾から丸い箱が落ちてくるよ、そのせいで空が赤くなるのに気づかないの?
もしもし世界のみんな、今日は注射がこわいの?
すぐにおさまる痛みだし、替えの針はいくらでもあるの
看護師さんが笑ってるよ?
もしもし世界のみんな、今日は雨に濡れてるの?
二人の身体がちょうど入るおおきな傘がないの?
泣けばいいよ、そのぶん傘は膨らんで、青と黒の模様になって雨を吸い取ってくれるんだよ
その雨は、さかさまの世界でも黒く塗り直されて降り続けるの?
幾千ものカードが少女との対話を求めている。レイは透明なちいさい球形のスピーカーを部屋中に浮かせ、それを自分の頭と細い光のワイヤーで接続している。だからたくさんの対話を同時にできる。
カードの中の世界のひとつひとつ、その世界の中で彼女は身体のある少女として、名まえをもって暮らしている。
◆
同じころ、二人の少年は川べりに出て、停まっている小舟の上で星空を眺めていた。
星は不思議だ、二人の少年には星のひとつひとつが記憶に見える。
雨の日の記憶、家で留守番をしていた記憶、はじめてあの車に乗った日の記憶、どれも自分じゃなく、だけど自分でもあり、砂がこぼれるようにまた忘れられていく。
星はビーズと糸で作った首飾りだ。
子どもたちが作った、あの机にばらばらに並べられたのを、真剣な顔して作って、最後には笑った。
「やっとみんなが迎えにきてくれたんだ」
「そうだね、長い時間だった」
「明日にはイッセイが帰ってくるね」
「仲間が一人増えるね」
「タイシ、ぼくたちの言葉は彼に通じるだろうか」
「きっと大丈夫だよ、彼の時代はインターネットが普及してたらしくてさ、昔の出来事もある程度は知れるようになったんだってさ」
「春、なんて言葉もわかるのかな」
「ショウ、その言葉はずっと昔からあるんだよ、季節の言葉は古い歌にもたくさんあるんだ」
ショウとタイシは鉛筆くらい細いライトで向こう岸を照らす。その光は夜の闇を裂き、どこまでも伸びていく。何重もの波紋が付き従い、眠っていた枝葉にはカラーフィルムが織り込まれる。
その光は羽のついた虫たちと見分けがつかなくなり、山の中、黄色い光が曲線を描き、線は血管の束のようにいくつも重なり合い、集まっていく。
それはやがて長い時間をかけて、夜の間に月に変わった。
月は遠くの空に昇った。
そしていつしか、雲の合間に隠れたのだ。
◆
レイはその作られた月を見上げた。
この村にいるあいだ、休むことなくわたしは世界との通信を続けていた。
それは勉強であったり、時には世界の歪みを矯正するための作業であったりもした。
わたしはあの作られた月の向こうへ、世界へ旅立っていくけれど、あちらはとても冷たく、貧しい世界だと聞いている。
わたしたちは絶え間ない想像の力と、あの春を慈しむこころを、いつまでも、その世界に持っていられるだろうか。
わたしはひとつだけこの家から持っていくとするならば、手鏡を持っていく。わたしは、わたしたちは、いつであれ、自分のこころと対話し、人のこころを想像しながら、ただそこにある景色をたしかめていたい。
「もしもし」
スマートフォンの着信。レイの電話の相手はいつものデジタルカードに収められたデータではない。
「うん、うん」
それは血の通ったあなたとの通話だ。
「うん、改札前で待ってる、じゃーね」
電話を切ると、スマートフォンは粒子のように細かく砕け散ってしまい、天井へ煙をくゆらせ消えていった。
それから母と最後の食事をして、母と隣り合って並べた布団にもぐった。
深夜になり、銀色の雲が剥がれ落ちるころ、レイは起き上がり、ゆっくりと旅支度を始めた。それから外に出て、井戸水で手と口をすすいで、月を見上げた。
レイが手をおおきく振ると、銀色の砂が地面からたくさん浮き上がり、それはあの作られた月までまっすぐに伸びていった。
光に色がつき、羽のようにばらばらになったあと、また夜風でもとにもどり、記憶を集積した巨大な光のレールになった。
レイはこのあいだショウにもらったローラースケートを履き、そのレールに飛び乗った。
季節が巡るくらいの速さで駆けていく。
レールとローラーが擦れて火花が散り、記憶がいくつもこぼれてしまった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌朝、残された村の者たちは、イッセイが帰ってきたのと、レイを送ったことを祝い、ささやかな祭りを催した。
すでに菜の花は咲き広がり、色とりどりの梅が山や川辺を染めていた。蝶がいくつか舞い、雲は形もなく、惑いながら漂っていた。
大人たちは梅の花のもとでたくさんの歌を詠み、微笑みながら酒盃を傾けている。
子どもたちは遠くの山に登り、見下ろせる場所で、この村の一日限りの春をカメラに記録している。
ずっと前に壊れて動かなくなった電波塔の前にショウとタイシは上がっていった。見上げると、ジジジ、と音がしているのが聴こえた。ショウはそこに落ちていたカセットテープにしるしをつける。
電波塔の先端は砂になって剥がれかけている。
二人はそれから、日が暮れるまで電波塔の管制室の中でカセットテープを読み込んだり、スイッチを入れ直したりして、メッセージの用意を続けた。
こうして村の春はだれにも知られず移り変わっていく。記録係のショウは、帰ってきたイッセイにその役目を譲ろうと思う。
どんな話を聞かせてくれるのかな。
ショウは楽しみに、それを待っているのだ。
初出:note 2019年5月頃