ココの家族

わたしは一般的に青春だとか呼ばれる十代のほぼすべての時間を、自室の布団の上で過ごした。毎日はとても長く、季節の移り変わりもよくわからないまま、時間が流れているという感覚すらもなく、人とおんなじ時計がただ重たく身体に乗っかっているだけだった。

14才の春のある日、わたしの部屋の窓をだれかがコンコンと叩く音がした。悪い夢かなにかだと思って布団に丸まっていたら、その音は数分間ずっと続いた。
おそるおそる振り返ると、カーテンの向こうにはちいさな人影。近づいて、そーっとカーテンを開けた。
そこにはわたしの半分くらいの背丈の、ちいさな女の子が立っていた。

「うそ、ここ2階なんだけど。どうやって上がってきたの」

窓を開けると、驚くほどぬるく静かな風が頬に当たった。
冬が終わったことさえわたしは知らなかった。

「このはしご、使ったの」

と、女の子は言った。

「うわぁ、これあたしが子どものころから庭に捨ててあるやつじゃん、錆びてて危ないよ」

「うそ」女の子はいたずらっぽく笑いかけ、「あたし、ほら、向かいの家に住んでるの、屋根からつたって、こっち降りてきた」

「なに、もっと危ないじゃん」

庭を挟んで向かい側の家、2階の窓が開いている。あそこの子、らしいけれど。

「お姉ちゃんと遊びたくてこっち来たの」

「うん、え? うん、なんかわかんない……あたしはそうは思わないけど、なに、帰ってくれる?」

「やーだ」

わたしは窓を閉めるふりをする。
すると女の子はすぐ涙ぐんでしまい、普段子どもどころかほとんど人と接したことのないわたしを戸惑わせた。
そのまま数分が流れた。
どうしようもなくなったわたしは、すっかり拗ねてベランダに座り込んだ彼女のそばに立った。そうして、二人で庭のさくらんぼの木を眺めた。

「あたしも学校行ってないの、お姉ちゃんと一緒」

「マジ? いいことないよ? 行かなきゃ」

「だって、こうやってお外の風に当たってるのが好きなんだもん」

「え、そーいう理由?」

「学校の中は嫌い。じめじめしてるし、暗いし。お姉ちゃんはそうじゃないの?」

「え、えっと……うーん」

わたしはうまく答えることができない。

「はじめましての、お礼。お姉ちゃんにあげる」

そう言って渡されたのは、ピンク色のキラキラ光るコンパクト。
わたしがずっと昔に持っていたおもちゃだ。

「お庭に落ちてたよ? 大事にしてあげなきゃ。あたし、ずっと持ってあげてたんだから」

「うそ、なんで」

「あたしお姉ちゃんのことずっと前から知ってる、どーしてかわかる?」

「??」

彼女は立ち上がると、ベランダの手すりに手をかけて、真下の庭を見つめる。

「このお庭も知ってる」

「まー隣だからね」

「このさくらんぼの木の横にある、おっきなマンホールってさ、どこにつながってるか、お姉ちゃん知ってる?」

「え、知らない」

「あたし知ってるんだ、教えてほしい?」

女の子の身体は、ベランダの柵のわずかな隙間をしゅっとすり抜けた。そのまま、人形のように下に落ちていった。
わたしは自分の目を疑った。腕も通せないくらい細い隙間だ。

ベランダから身を乗り出して地面を見下ろしたけど彼女はいない。
その直後、こっち、と声がして視線を上げると、向かいの家の2階に彼女の姿はあった。窓から顔を出して笑っている。

「今さ、落っこちなかった? こっから」

わたしはベランダの柵を指差す。彼女は首をかしげ、なに言ってるの? とまた笑う。

「ねー、名まえ教えてくれる!?」

わたしは少し声をおおきくして女の子に問いかける。

「名まえ?」

「うん」

「ココ」

「ここ? ココちゃん?」

「うん」

「お姉ちゃんの名まえは?」

「あたし? あたしは」

そこまで言ったとき、なにも言葉が出て来なかった。
自分の名まえなんて長い間声に出したことがなくて、忘れていた。

「あ……」

わたしが顔を赤くしてうつむいていると、ココは、お姉ちゃん、と声を発した。

「なに?」

と、わたしは赤くなった頬を隠せないまま、顔を上げる。

「いつか教えてね、また来るから」

「遊ぼー」

「えぇ、また?」

それから数日経ったのち、ココはふたたびベランダに現れた。
なにも持たず、べつにこの部屋に上がろうともしない。ただわたしと二人でベランダに座り込み、彼女がこの数日であった出来事の話をする。わたしがそれを聞いている。

ココは学校には行かないけれど友だちは何人かいるそうだ。
夕方は学校から帰ってきた近所の友だちと遊ぶ、その中でも一番仲のいい男の子がいて、ココいわく、自分のことが好きなのだそうで。

「向こうの神社でいつも遊んでる、ケイドロとか、ぬまかわでおもちゃ買って遊んだりとか」

「ぬまかわでなに買うの」

「変なおもちゃいっぱいあるじゃない、なんかさ、水につけるとおっきくなるゴムみたいな恐竜とか」

「水ってどこで持ってくるの」

「川のはしっこにひたす」

「なにそれ」

「ぶよぶよになって、ちぎれて流れてったけど。あとで見たらザリガニが食べてた、あれ、おいしいのかなー」

「へー」

ココの話はよどみなく、それでいてなんだか生ぬるい感触がする。たとえばそれは間延びした退屈な春みたいで。

「それでその男の子、なんだっけ」

「しのぶくん」

「そうそう、しのぶくんはどうしてココのこと好きってわかるの」

「告白されたもん」

「うそ。え? それで? 付き合ってんの?」

「うん」

「ひゃあー」わたしは変な声を出してしまう。

「ほんとだもん、だからずっと一緒にいるの、しのぶくんが学校いるとき以外はずっと。座るとこがあったら隣同士で座るし、ぬまかわでジュースとかガム買ったらわけっこしてるもん」

しのぶくんとのことを話すとき、ココの声は少し上ずっているようにも感じて。
今どきの子はませてるなー、なんて。
でもなんだか嬉しかった。

わたしは相変わらず部屋の中で一日中過ごしている。ココと毎日会うこと以外、わたしの生活はなにも変わっていない。

一方のココは、わたしを置いてどんどん大人になっていった。というより、それが正しい表現かはわからないけれど、ココの成長は異様だった。

自分の時間感覚がずれていて、実は数年を数か月だと錯覚していたのかもしれない。そう思ってしまうほど、彼女は会うたび必ずちょっとずつ背が伸びていき、顔立ちも大人びていった。
彼女の周りの友だちもどうやら同じスピードの中にいるようだった。はじめて会ったころ、学校に通っているなら小学一年生の年齢だと教えてくれたはずなのに、夏が過ぎ秋が過ぎたころにはもう、同じ学年の友だちは小学校を卒業したのだと言った。

ココは中学生の年齢になっても学校に通わなかった。友だちとの遊びは昔とそう変わらないらしい。今でもぬまかわに通って、変なおもちゃとか駄菓子を数十円でつかまされることもある、その話はわたしに逐一教えてくれる。

「しのぶくんだよ? あれ、ココ? 覚えてるよね?」

「あー、もういないよ、先月引っ越しして、県外に行っちゃった」

「そうなんだ、じゃあ今は付き合ってる人いないの」

「いるよ、同い年の男の子」

「え、そーなんだ、カッコいいの?」

「ふつう」

「なに、そんな答え方するなんて、ココらしくないよ」

わたしがそう言うと、彼女は顔を赤くしてふくれてしまった。
ごめん、とわたしは謝り、彼女の長い髪をなでた。いつもどおり、さらさらで心地良い。

「まだしのぶくんのこと、好きなの?」

「違うもん」

冬になると、ココの身長はもうわたしを追い越してしまった。ちょっとずつメイクも覚えて、いつのまにか、どう見てもわたしより年上のきれいなお姉さんになってしまった。
それでも、わたしのうちのベランダに来るときは屋根からつたって来てるんだって、そう言い張って聞かない。
わたしはその姿を見たことがないけれど、よつんばいになって屋根から屋根をつたい歩きする女子高生のココがいたとするなら写真に撮りたいくらいだった。

それからさらに年月が経ち、わたしは両親の必死の働きかけで二、三度ほど高校に行ってみたけれどやっぱりうまくいかなかった。
ずっと前、あのちいさかったころのココが言ってたように、やっぱり学校は暗くてじめじめしているだけの場所だった。
わたしの席は教室のちょうど真ん中だった。寝たふりをするにもいろんな会話や雑音が入ってきて、ずっと心臓がどくどくして落ち着かなく、あえなく元の通り、自分の部屋で過ごすようになった。
せめて勉強はするようにと母によく言われていた。どこで買ってきたのかわからないドリルや参考書なんか適当に部屋に持ってくるけれど、小学校の勉強もまともに受けてないわたしが中学の数学なんかできるはずがないのに、そんなことも母はわからないのかなと呆れてしまう。

ある日ココが恋人を連れてきた。

「あたしたち、結婚するって約束してる」

相手の男の子は見る限りとても頼りなさそうで、わたしに目も合わせてくれない。
ってそう言ったところで、そもそもわたしがココのなんなんだって話だけど。

「いいじゃん」

とだけ、わたしは言った。
男の子も安心したようで、目の輝きを取り戻していった。

「あたしたちここを出てくの、就職してお金稼いで、子どもと一緒に暮らすために」

「え、もう子どもいるの」

「違う、生まれたときのためにってこと」

さくらんぼの木にはたくさんの実が成っていた。
花びらがどこからか飛んできて、このベランダにも落ちている。

「いつ?」

「明日」

「はや」

ココはまた、いつかみたいにふくれた顔をして、お姉ちゃん、それでいいの? と問いかける。

「だってココはいつだって自分で決めてきたじゃん、あたしなんか、ただ聞いてるだけだったじゃん。あたしはもうココより年下なんだし、背だってココのほうが高い、ほら」

わたしは彼女との付き合いの中で、時間の感覚もとうになくなっていた。
明日出ていくんなら、今日のうちに、今日の長い長い時間のうちに、めいっぱい、自分の部屋の布団の中で、彼女のことを思って泣けばいい。

この小説ではココのことばかり書いているけれど、実際、だれともしゃべらず布団の中にくるまっている時間のほうがわたしはずっと多いのだ。

「明日、来てくれる?」

「うん」

「ココ一人でね、あと、出会ったときみたいに、いつもみたいに、窓コンコンってしてね」

「うん」

「それだったら、あたしは、明日ちゃんとココとの別れを惜しんでいっぱい泣けると思う、泣いてあげられると思うから」

「うん」

「ごめんね、あたし自分がわかんないし、どうやって言えばいいのかもわかんないから、このあとさ、布団に入ってずっと考えてると思う」

「ううん、ぜんぜん、いいの、急にごめんね」

「いつだって急なの、あなたは。ぜんぜん、慣れてる」

いつしかココは天真爛漫な女の子ではなく、どこにでもいる普通の、素敵な女性になっていた。

次の日も、その次の日も、それどころか何年経ってもココは家に来てくれなかった。
それでもわたしはどうとも思わなかった。
彼女が生きてる姿を見ていたら、一日とか一年とか、人の決めたそんな尺度は無意味に思えた。時間に対する恐怖感のようなものを、彼女はわたしからほんの少しなくしてくれた。

19才のころ、ようやくわたしは家から出て働くようになった。
母親と一緒に毎日ハローワークに通い、仕事を見つけた。
家から自転車で通える距離の製麺工場で、わたしは朝から夕方まで袋詰め作業を繰り返して月末には給料をもらった。なんにも苦痛はなく、毎日が水のように流れていくだけだった。どこか拍子抜けしてしまったけれど、きっとそんなものなんだ。わたしは思い悩むこころとかもきっとなくしてしまったのだ。
ココが見たら悲しむかもしれない。あの子はいつだってなにかにおびえて、答えを探していたように見えたから。

ココと再会したのは20才の春の終わり、ある休みの日の午後だった。
窓をコンコンと叩く音がして、あわてて開けたら、そこに彼女はいた。いたんだけど、なぜか初めて出会ったときと同じ、わたしの半分の背丈くらいのちいさな女の子の姿に戻っていた。

「お姉ちゃん、遊ぼう」

あのころよく聴いた声、磨かれたガラスのような、涼しげな声。

「ココ、どうしたの」

「どうしたって、なに、ふつうでしょ。いいからあたしのお話聞いてよ、また、ぬまかわのばあちゃんに変なお菓子つかまされちゃったの」

6年前のあのころのように、再会したココの話をただわたしは聞いていた。
わたしはなんにも彼女の未来のことは話さなかった。
彼氏が累計で4人できるとか、彼氏と会う大事な時間の直前にぬまかわで舌が真っ黒になるガムをつかまされて大慌てしたとか、いろんな話をわたしは覚えてるのに、なんにも話さなかった。

大好きな人の時間が巻き戻ってくれたこと。
これ以上の幸福が人の生きるうえであるのだろうか、わたしはいまだにわからないでいる。
ココが少女のままでいてくれて、こうしてベランダに二人で座り込んで、夕暮れまでいろんな話をする。その時間が、何年も何十年も続くのであれば、それはまぼろしであったとしても。

仕事の休みの日、ココは必ずこの部屋に訪れてくれた。
数年前のようにどんどん大人になったりはせず、彼女は何年経っても、ちいさいままの姿だった。聞かせてくれる話も以前聞いたものが増えた。もしくは同じような話でも、出てくる人や話の流れが少し違ってたりもした。それ、昨日も聞いたよ、とは口が裂けても言わないし、言う意味もそこになかった。
同じようで違う、別々の世界のココが一人ずつ順番に遊びに来てくれてるように、わたしは思っていたから。

「ココ?」

「うん、なにお姉ちゃん」

「いつまで、あたしのとこにいてくれる?」

「いつまで?」

「うん」

「お姉ちゃん、もしかしてさ、今まで生きてきてさ、もしかしてさ、あたしと話してる時間がいちばん長いかもって思ってる?」

「うん、思ってる」

「大丈夫だよ、これからも一緒だから、あたしはもうすぐ、消える、けどさ、また回ってくだけ……あ、あっち」

振り返ってそこに見えた自分の部屋は、いつもとぜんぜん違っていた。

カーテンはきれいな真っ白いのに変わってるし、あの染みだらけのとても人に見せられないようなぼろっちい布団もない。かわりに、ベビーベッドやだれかわたし以外の人の洗濯物が干されてたりする。匂いだって違う、春と柔軟剤の匂い、日の光が目いっぱい入って、部屋を明るく輝かせてる。

部屋のなかのもう一人のわたしは、赤ちゃんを抱いてゆっくり、ぐるぐると歩きながらあやしてる。髪は今より長いけれどこんなぼさぼさじゃなく、つやつやしてて、ゆったりしたワンピースなんか着ちゃって、ほんの少し笑みを浮かべたりして、まるで別人みたいだ。
たぶん別人なんだろう、あれは別の世界の、正しい道を選んだわたしなんだろう。

この部屋の中に、そうすると、わたしは二人もいらない。
この部屋の中にいるべきなのは、正しい方の、ココの母であるわたしと、ココだけなのだ。
こんなにもやわらかい春の風を、自分の身体でふさいではいけない。

わたしはベランダから飛び降りようとして、庭を見下ろした。
庭の真ん中にあるおおきなマンホールは蓋が開けられ、真っ白い底が覗いていた。

わたしは片腕も通らないくらいの幅の狭いベランダの柵から身体が抜けてしまい、そのまま、頭を下に向けて、落ちていく。
音のない、冷たい風を感じてる。

白く光るマンホールの中に入っていった。
そこはいろんな記憶がチカチカ光って消えるだけの場所だった。わたしは白い景色の中を泳いでいった。
いくつもの別の世界で、いくつもの未来や過去に分かれたわたしがそこにはいた。
ココはその光が灯った瞬間だけ、わたしの手を引いて、あの庭のさくらんぼの木の景色を、雲のようにかすれていく。

その景色のほうへ、帰っていこうとした。

わたしは庭で座り込んでいる。記憶がすべて消えた子どもにもどって、さくらんぼの木の前でしゃがみ込んでいる。

母が窓を開けてわたしを呼ぶ。
わたしは母のほうを向いて手を振る。バイバイじゃないでしょ、と母がわたしのあまのじゃくを笑う。

庭にはほかにもきれいな花をいくつか植えていて、わたしは首をかしげながらその花を見下ろしている。目の前の道路は車がたまに通る。

なんとなくそのスピードで時間は流れていき、わたしはまた小学校の半ばから不登校になった。中学、高校もほとんど通わず、大人になり、働いたりもして、25才のとき同じ職場の四つ年上の男の人と結婚して、女の子を産んだ。

今でもわたしは自分がどこにいるのかわからなくなる。いのちがたったひとつなのだとすれば、わたしは何百回とそれを繰り返しているような気さえする。

だからわたしは永遠なんて言葉を一切信じていないけれど、今でもたまに遊びに来る女の子、わたしと同じように、糸でつながれて何百回も繰り返してる、わたしと違う形で繰り返しているあの女の子だけは、あの子を言葉にすればそれは、永遠、に近いんじゃないかな、と思う。

「しのぶくんの好きなとこ言ってみてよ」

「え、あたしが?」

「うん」

「そしたらさ、今度連れてきてあげる、しのぶくんから言ってもらうもん」

「ココの好きなとこ?」

「うん、百個言えるって言ってたもん」

「ほんと」

「ほんとだって」

ココの手には見たことのないような駄菓子が握られてる。
わたしは、それ、またぬまかわでつかまされたの? と問いかける。

「そう、当たりが入ってるの見たことないよっておばちゃんに言ったらさ、これが当たりだよ、もう最後の一個しかないんだからって、言われて」

ココは眉をひそめながらそれを口に含む。

「……超すっぱい、なにこれ……しかも、はずれだったしさ」

わたしは、ざんねんだったね、と言う。

「いいの、お母さんに言ってお金もらってくる、もっかい買って、あたりでもはずれでも、今度はお姉ちゃんと一緒に食べるから」

わたしは、いいよ、と苦笑いしながら答える。
その味も知ってる。前の前くらいの記憶で、食べたことあったから。

すっぱくて硬いベーコンみたいな、変な味だ。

さくらんぼの木には実がいくつも成っている。
あれを家族で食べよう、糸でつながってるみんなで、一緒に。


初出:note 2019年6月頃