兄からもらったこの部屋は、真夜中になってようやくそれらしくなる。本来の姿のようで生き生きとしてくるという意味だ。と、いきなり観念的なことを言ってもよくわかんないだろうし、とりあえず適当に読み進めてほしい。
わたしはこの春から兄がいなくなったのをきっかけに、彼の部屋を丸ごともらった。部屋だけでなく、部屋に詰め込まれたすべてのものだ。
それ以来わたしは、夜だけこの部屋で過ごすようにしている。大体は机の前に座って音楽を聴いたり、ゲームしたり、SNSを巡回したり、時には寝落ちもする。
部屋の照明は兄に倣って消している。
PCの画面だけがぼうっと青白く光り、わたしの顔や、周辺を照らす、その光はおもわず涙が出てきそうなほどまぶしい。わたしは目をつむり、椅子にもたれかかかる。
「琴、琴、こーとー!」床に落としたままのスマホから、わたしを呼ぶ声。「ねー聴こえてる?」
「聴こえない」
「聴こえてんじゃん」
古いスマホだからなのか、スピーカー越しのファズの声はいつも割れたガラスのようだ。
「ごめん、なんとなく聴いてた、てか聴いてなかった」
わたしは手元を見ないままガサガサ漁って、コンビニで買ったストロベリーヨーグルトをひっつかむ。あ、あいつスプーン入れ忘れてる、これで3回目。もう習性でフタ剥いじゃったのに。
「ねーねーファズ」
「なにー?」
「スプーンないんだけど、どーすればいいと思う?」
「なに? なんて?」
「スプーン」
「なに食べんの?」
「ヨーグルト」
そう言うとファズは、子どもみたい、と笑った。
それから、ファズの言うとおりテレビをつけると、わたしがちっちゃいころからやってる音楽番組の中で、彼女の大好きな男性アイドルグループが新曲を歌ってた。
わたしは目の前のPCモニターに流れるYouTubeの音を消して、テレビの画面を注視した。この人たちの名まえはわからないけれど、ファズが好きというものを一通り見てみるのがわたしは好き。
スマホからはファズのはしゃぐ声が聴こえてくる。
次、テレビも終わり手持ち無沙汰になったから、ゲーム用のタブレットを起動する。これだって兄が残したものだ。
「ねーねー、琴、ねーねー」
またスマホのスピーカーから、ファズの声。
「なに?」
「そのパンパンって音、なに」
「ゲーム。この音はSCARっていうアサルトライフルの音」
「学校で琴がやってたやつ?」
「そう」集中してるからあんまり聴いてないけど。「あ、今連続3キルしたよ、ニュータイプみがすごい、あたし」
「動画にして送ってー、あたしよくわかんないけど、琴がやってるとこ見てんの好き」
「今は録画してないよ」
「次からでいい」
「これ終わったらね、あ……」
「終わった?」
「しんだ」
「やっぱり」
わたしはほっと息をついて、椅子にもたれかかる。PCの冷却ファンの音がふいに耳に入る。攻略動画はいつのまにか終わってて、全然興味ない動画が勝手に再生されてた。
「わーエモ! エモ散らかしてんじゃん! これ琴美ちゃんの部屋?」
スマホに収めた写真を見て、まだそこまで仲良くなかったころのファズは感嘆したように息をついた。
「あたしのお兄ちゃんの部屋」
冷静に考えると、兄がいないときに勝手に部屋の写真を撮る妹はどうなのかと思うけど。
「なんか要塞みたい。男の人ってやっぱさこーいうの好きなの? 趣味に溺れたいの?」
「わかんない、あたしは好きだからよくここで一緒にいるけど」
ファズはその言葉を聞くと目を丸くして、
「え、部屋に? 兄貴だよ?」
「うん、でもあたしと14個も離れてるから、なんか、べつにって感じ」
机の上には大きなモニターが2つ並び、足元にPCの本体がある。そばにはゲーム用のヘッドセットとコントローラーと今は接続してないPS4。その隣にはPCオーディオの機器が積まれてあるラックとSENNHEISERのヘッドフォン、専用のノートPC。真後ろのCDラックには何百枚ものCDがたぶん兄なりの順序で並べてある。その隣のラックにはミニカーやフィギュアがずらり。それでいて、窓のそばにはもう相当おおきくなったパキラの鉢があって、隣には金魚が3匹泳ぐ水槽があって。壁には好きなミュージシャンのポスターだとか映画のポスターがいくつも貼ってあって。
作為なんてなにもなく、たぶん好きなものを詰め込んだだけ。なのに意外過ぎるくらいに広く感じる。
わたしは中学を過ぎた辺りからこの部屋の居心地の良さはなんだろうと不思議に思っていた。気がつけば自分の部屋より多くの時間を過ごすようになった。
兄は無口な人だった。
わたしと彼は同じ空間にいるのに違うことをして、ほとんど話さなかった。兄はヘッドセットをつけて当時流行ってたFPSゲームをしている。わたしは適当にCDラックから気になったのを手に取り、兄がどこかから引きずり出してくれたチープなお皿のようなポータブルCDプレイヤーで聴いていた。兄の机にあるPCオーディオセットは見るからに複雑そうで、なんでもさわっていいと言われていたのに、ふれる気にはなれなかった。
あぁそうだ、兄の吸うタバコの匂いと、窓際に置かれた花瓶くらいおおきなリードディフューザーが放つ甘ったるい匂いが混じるのが好きだった。
「でさ、ファズ」
「なーに」
「ヨーグルト食べたいの、スプーンないのどうすればいい?」
「まだそれ?」ファズはくっくっと笑う。「琴ってさ、ほんとロボットみたい、かわいい」
「あたしdisられてる?」
「いやかわいいって言ってんじゃん」
わたしは机の上に置いてある手のひらサイズの知恵の輪を無造作にいじる、これも兄が持っていたものだ。
「ねーファズ、なんか欲しいのある?」
「なに急に」
「誕生日、なにプレゼントすればいい?」
「え、琴ってそんなこと考えてくれてんの?」
「そーだよ、悪い?」
「ううん、びっくりしただけ、あたしたちヤバくない? 友だちみたい、尊いわー」
「友だちじゃないの?」
「ううん友だちだよ、違うの、ちゃんとさ、わかりきってることをさ、言葉に出してみたかっただけ……だからさ、ちょっと……琴、テレビガイド取って……ちょうど、あと5センチ、いや3センチ、手、届かないの、」
「どこにあるの?」
「あたしんちの、今、目の前、ソファから出たくないもんあたし」
「じゃあ先あたしんちにスプーン持ってきて」
「じゃあ先に動画送って」
「先スプーン」
「じゃあ明日のバイトかわって」
「じゃあバイト代ちょうだい」
「やだ逆に金くれ」
「こっちが金くれ」
「やだ卍ー」
明日は学校の終わりにファズと買い物に行く約束をしている。
天気予報ではおおむね曇りで降水確率も微妙だけれど、雨は降らないだろうか。
雑貨屋とか、駅前のフランフランとか見て回って、リードディフューザーも買いたい。
兄が残した窓際の花瓶みたいなあれは、とっくに切れていたから。
ファズってあだ名はわたしがつけた。というより、わたしが一方的に、いつのまにか呼んでた。
それで思い出すのはあのファズ・オルガンの音だ。
兄のCDラックの4段目は相当怪しげなオールド・ブリティッシュ・ロックの宝庫で、帯にはたいてい幻の名盤とか幽玄のなんちゃらとか書いてる。いつも怖いもの聴きたさでおそるおそる手に取っていたのを思い出す。
わたしを琴って呼んでくれるのはファズだけだ。
少し前まで琴美ちゃん呼びだったけど最近短縮された。「琴もあたしのことファって呼んでいいよ」とこないだ言われたけど、別に最後のズを発声するのはそれほど苦じゃない。
「琴ー宿題おわったー?」
「おわってない」
「あたしもー」
「あきらめよー」
「琴ーテレビガイドー」
「やだー」
「けちー」
ふいにブチっという潰れたような音がして、通話は途切れた。
見るとスマホの電源が落ちていた。そういえば充電すら忘れてた。
PCでツイッターを開き、充電切れた、とツイートする。
すぐファズからリプライ。「ばぶー」という3文字だけ。たぶん深い意味はないだろう。やっぱりこの子はわたしの憧れだ。
そういえばいまだにPCオーディオの使い方がわからないからそろそろ雑誌でも買って勉強しようと思っている。そうでないと、このピカピカの機材たちが浮かばれないような気もするし。
そうだ、明日ファズと買い物に行くとき本屋にも寄ろう。
そう思いつつ、PCに直挿ししたSOL REPUBLICのヘッドフォンをかけてYoutubeを開く。最近よく聴いてるLO-FI HIPHOPチャンネルのライブストリーミング配信。
目を閉じる。
寝フォンはだめだって言うけれど一度はじめたらもう辞められない。一日のうち、いちばん気持ちいい時間だ。
夢と音楽が混じってく。
わたしに唯一許された、あの景色に会いに行ける時間だ。
たった一人で。
◆
「こと」また声がする。「琴! 聴こえる?」
「聴こえない」
「聴こえてんじゃん、琴、外見て」
スマホで時間を確認するとまだ真夜中だった、一時間も眠ってない。
まだ目が慣れなくて、眼前の景色はうつろにゆれている。
「ん、ファズなんか言った?」
「だから外見てってば」
「外?」
わたしはグレーの分厚いカーテンのほうを見る。外の景色はおろか、光の一本も届いてない。
「琴、琴、こわいよ、早く外見て」
「なに? どうかした?」
「この色見てわからない? あたしこわいの」
「色?」
「空の色」
わたしはその言葉を遠いどこかで聴いたような、たとえるなら夢がフラッシュバックしたような感覚で、せっかく開けようとしたカーテンから手を離した。身体のふるえが止まらなくなった。
たぶんわたしはファズと同じ恐怖を味わうだろうと思った。このカーテンを開けて、空を見てしまえば。
「ファズ、その空ってさ、もしかしてさ、飛行機がいっぱい飛んでる?」
「飛んでる、ヤバい、こわい、カラスみたいな動く飛行機」
「わかる、知ってる、たぶんあたし知ってるから」
「じゃあ琴も見て、お願いだから」
「その飛行機からたまごみたいなのがいっぱい落ちてくる」
「そう」
「灰色の空が熱で溶けてゆがんでく、窓ガラスがその熱でくもる」
「わかってんだったら早く見て、あたしもう無理、一人じゃ無理だよ助けて琴」
「見たくない」
「ケチ! ばか! 見てって言ってんじゃん! あたし一人にしないでよ!」
わたしは耳を塞ぐ。それ以上、ファズの声を聴けなかった。
スマホからガリガリとなにかが削れるような音がする。
反射的に通話終了ボタンをタップした。
ファズの甲高い声はぱたりと聴こえなくなった。
部屋の中は一瞬で静かになった。
まるで最初からなんにもなかったみたいだ。
パソコンの冷却ファンの音だけが、また静かに耳を刺し始める。
床に落ちたスマホを手に取る。ふるえてしまい、すぐに落としてしまった。
わたしはファズを見殺しにしたのだ。
そのことに気づくと、一瞬で身体全体の血が抜け落ちるような、ぞっとする感覚が沸き起こった。ファズはあの熱に溶けていった、その音だったのだ。
なにか、そうだ、イメージだ。あの熱に焼かれ、溶けていくファズ、もう会えないとわかってるのに、わたしの名まえを呼びながら溶けていくファズ。
鮮明に浮かんで、わたしはその数秒のイメージで、悲鳴を上げた。
床にへたり込んだ。
身体が異常に重たく、頭の先からつまさきまで、水分が蒸発していくみたいに感じた。
「ファ……ズ」
わたしはきっともう、なくなってるだろうあの子の名まえを呼ぶ。おもいがけず、ちいさなうめくような声になる。きっとだれにも届かない声だ。
わたしもカーテンを開けよう、あの子にしたように、わたしも一人であの熱に溶けてしまわなきゃ。
足を引きずりながら窓際まで歩き、ようやくのこと、わたしはカーテンを開けた。
◆
「あ、起きた、おはよー」
目を細めて笑ってる。
困ったような、わめく子どもを見るような。
彼女のそんな表情は見たことがなかった。
「ファズ」
膨張した日射しがこの部屋に射し込む。
どうやら朝になっていたらしい。
ファズはこうしていつもこの部屋まで迎えに来てくれるのだ。
「つけっぱだよ」
そう言ってファズはわたしがかけていたヘッドフォンを外し、ゆっくり机の上に置く。
「ファズ、ファズ、あたしさ、変な夢見てた」
「うん、あたしも一緒、変な夢見ちゃった、琴が出てくる夢だよ」
わたしは椅子に座ったまま、そばに立っているファズの華奢な身体に飛びついて、両腕を回す。いつもの石鹸の匂いを感じる。
「ファズ、じゃあ知ってるでしょ、あたし、ファズのことさ」
「大丈夫、琴」わたしの頭をなでてくれる。「ぜーんぜん、大丈夫」
「こわかった」
「そっか」
「ファズ」
「んー?」
「ごめんなさい」
「なんで?」
「だって」
「はいおしまい……遅刻するよ、あ、遅刻してる。すごいよね琴んちのママ、ゆっくりしてってねって、いつも言うけどさ、もう9時だよ」
数分くらいそのまま、ファズは立ったまま、わたしはファズの身体を抱いたまま、じっとしていた。
涙をふいてー、とか変な鼻歌をファズは歌ってたけど、あれたぶん即興で作ったな。
この子はやっぱり底抜けのなにかを持ってる。
だからわたしはいつか彼女の底になりたい。
これは変な言い方だろうか。
朝日なのか、昼の光なのかもうよくわからないけれど、わたしたちは家を出る。最寄り駅まで歩いて5分。同じ制服を着た人が二人しかいない町は、なんだかわたしたちを特別扱いしてくれてるような気がする。
「琴ー……手、つないで」
「え」
「いや、だから」
「どっちの手? 左・右」
「知らんし」ファズはけらけらと笑って「いいですーもーはずいー」
わたしは手を差し出す。
するとファズは顔をほころばせて、なんにも言わずに、わたしの手に自分の手を絡ませる。
わたしたちしか立ち止まらない、ちいさな横断歩道で。
初めてそうして歩く道はなんだかぎこちなかったけれど、もう少しだ、もう少しでこの景色もいつもと同じ退屈なものになる。
昨夜見た夢、未来を映したあの夢まであと何年かかるだろう。
わたしたちはそれまで、だれにもすり潰されずに、生きていられるだろうか。
初出:note 2019年6月頃