透明な輪の中で

「ママ、おきて、おきて」

休日でも登園の時間に合わせてわたしを起こしてくれる律儀な息子。
無理やり目を閉じる。届いたためしはないけれど、もうちょっと寝かせてよって念を送る。

「ママ、きょうは、りゅうくんとでーとするの」

どこでそんな言葉覚えたんだろう、この子はいつもわたしを楽しませてくれる。

「なに、りゅうくん、ママとデートしてくれるの?」

重みを感じる場所に手を伸ばす、彼の身体がある。さすってあげると、いつものようにけらけらと笑って。

「りゅうくん」

お腹にあった重みがすっと消えた。不思議に思いながらようやく起き上がると、ベッドのそばには知らない男の子――中学生くらいだろうか、が立っていた。
状況がわからず目を丸くしていると、男の子は迷惑そうに顔をしかめ、なにママ、どうしたの、と。

「あれ? ……もしかして、きみって、りゅうくん?」

「そうじゃなかったらなんなんだって。ママ、ほら、デート行くよ」

「ええ? うそ、え、ほんとに?」

いいから、とおおきくなった柳はわたしの手を引く。

「え、待って待って」

わたしの声はなぜか上ずっていて。

着替えとメイクのあいだ、柳は廊下で待ってくれていて。支度が終わったわたしは、柳の横顔をまじまじと見つめて。

「きれいな顔してるね、さすがあたしとパパの子」

真っ白な肌、さらさらの髪、宝石のようなブラウンの瞳も、ちいさいころとおんなじ。

玄関の扉を開けると、そんなはずはないのに、目の前に一軒の白い壁の家があって。

「ママ、ここは覚えてる?」

「え、覚えてるもなにもあたしの実家じゃん。りゅうくんは初めて来るんじゃない?」

鍵は昔と同じようにかかってない。わたしと柳はおそるおそるその家に上がる。
台所ではエプロンをつけた母が料理をしている。カーテンは開け放たれ、夏のはじめの涼しい風が流れてくる。
小さな音量でつけっぱなしのテレビでは、あのころのわたしがよく見てた、母と父の結婚式のビデオが再生されている。母は平然とした顔で家事を続けている。ちいさな子どものわたしが、日に焼けた顔の子どものわたしが、床にぺたんと座ったままそれを見ている。

「ごはんできたよ」

子どものわたしは振り返る。そのとき、わたしと、子どものわたしは目が合いそうになる。

怖くなって目を閉じて、数秒後、ふたたび目を開く。
高速道路からの景色。
家族で出かけた県外の遊園地へと続く。ゆるやかなスピードで走る、風の音が窓の隙間からこぼれる。
次に一瞬目を閉じると、今度はまた違う街に来ていて。
わたしと柳は、だんだんと年を取っていく自分を追うように、いろんな街の、いろんな景色を見た。学校、親戚の家、友だちの家、深夜のファミレス。
忘れていた自分の姿と、忘れていた人たちの言葉。
感傷に浸る間もなく、柳は次々と手を引いていく。

そのうち、最後の景色にたどり着いた。

「って、どこだっけ、ここ」

「ん、ここはね、パパと昔住んでた東京の街。……ってことは、りゅうくんが生まれる少し前かな。ほら、商店街があるじゃん? いつもそこで買い物してた、あとさ、そこ入ってすぐのイタリアンのお店でバイトしてた」

柳はその街の景色に眺め入っている。
ちょうど、きみが生まれる前に引っ越してしまった街。

「恵美、渡るよ」

わたしの名まえを呼ぶ夫の声。
そうだ、六本木の美術館。ターナーの展覧会を見た帰り。
わたしはあわてて、あのころの夫が差し出した手に指を絡めて、横断歩道を歩き出す。

そこではっと気がつく。つないだ手を強く引っ張る。

「どうした?」

「違う、じゃん、わたるくん、ここで死んじゃうの、バイクに轢かれて。歩いちゃだめだよ、引き返そ?」

そのとき、街の景色は呼吸を止めたように静まって。
そうだね、もう恵美は帰んなきゃね、と夫は言う。

「あの日は恵美のいちばん辛い日だったからね、思い出させようとして、ごめん」

夫はわたしのうしろにいる柳に向かって、

「柳、こんなとこまで来てくれてありがとう、ママをもとに帰してあげて」

夫は柳のところに駆け寄り、その頭にぽんと手を乗せた。

「パパ嬉しかったよ、昔話は苦手だったけど、本当は柳に見てもらいたかったんだ」

そのとき、あぁもうこの夢は終わるんだな、とわたしは安心したような、さみしいような、不思議な気持ちでいて。

同じタイミング、だんだん、あの横断歩道と、最後に見た彼から、遠ざかっていく。

「わたるくん!」

わたしのその声には涙が混じっている。
柳はわたしの手を離さない。遠慮がちで、でもしなやかで、強くて。

その手のぬくもりが残り続けたまま、ぜんぶが透明になって、消えていった。

「あーはいはい、ちょっと待っててね、今コーンフレークにするからね」

「こんふれーくちがうの、とまとにするの」

「トマトは買わないとないの、コーンフレーク食べたらスーパーにお買い物行こうね、りゅうくん」

朝が来てもう何時間。わたしと柳のあわただしい一日がはじまる。
この子とともに、また日常が繰り返されていく。

「りゅうくん、ありがとうね」

耳元で言ったその言葉は、ちゃんと届いているだろうか。
柳はこっちを振り返り、ママ、とだけ言って、笑った。

「はいはい、ごはん食べれないからテレビ消そうね」

そうして一瞬だけ無音になる。時計の針の音が思い出したように、この部屋に響き始めた。

雨上がり。頼りなく細い日射しはおおきな晴れ間に変わった。
わたしは駅から出て、帰り道を歩き出す。

人の多い場所からは一刻も早く脱出したい。それはたぶんわたしの奇妙な体質のせいだ。

わたしの身体には、見えない透明な針がいくつ生えている。
針は自分の手が届く範囲でぐるっと身体を覆うように生えていて、ふれた人の記憶や感情を知ることができる。だからそばに人がいると、いろんな景色がノイズのように頭の中を回る。
それはひどく不快な感覚で。
大人になってからは、自分の意思で多少は抑えられるようになったけど。

信号が赤に変わり、短い横断歩道の前で立ち止まる。
男の人が一人、隣に立っている。
わたしの隠していた針はなぜだかその人へ、自然と伸びていった。

彼の記憶にはぽっかりと穴が開いていた。だからなのか、それ以外に彼からなにを感じ取ることもできない。
人って自分では気づかなくても思考や感情が一瞬も止まることなく動いてるもの。なのにこの人からはなにも感じない、なにも動いていない。

「もしかして俺がわかる?」

男の人はわたしに顔を向けないまま、突然、ぽつりとつぶやいた。

「わぁ! びっくりした!」

わたしは喉がひっくり返りそうになって。

「あ、ごめんなさい、何年ぶりかな、こっちこそびっくりした」

今日だけ人を待ってるんだ、彼はわたしに教えてくれた。
朝からずっとここにいるんだけど、急に雨降ってくるし、俺に気づいてくれる人が現れるし、なんか面白い日だなぁ、って。

「だけどそうやって針を立てすぎちゃいけない、きみは鈍感になるのがこわい?」

「ど、鈍感? うーん」

「あ、ごめん、言葉が単純すぎたね」

「いえ、なんとなくわかりますよ……傷つくなら先回りして傷つきたいって思うとき、あたし針立てちゃうんです。あんたの気持ちなんてぜんぶ読んでやるって。……この力、いらないなぁって思うんだけど、取り上げられちゃうとそれはそれで困るし」

信号は何度も何度も切り替わった。すっかり晴れている、ほのかな暑ささえ感じる、夏の少し前。

「あ、そうだ、さっきまであたし六本木にいました、彼氏と美術館行ってて」

「そうなんだ、俺と同じだね」

「ん? でも何年も前ですよね?」

「あぁ……」

彼はちょっとさみしそうな顔をした。そんなわかりやすい仕草をするなんて思ってなくて、わたしは固まってしまった。

わたしは今まで異性と付き合う経験がなかったから、彼氏とどう接すれば良いのかがわからない。針がふれてもなにも感じない、特別な人だった。
だけどなんか違ってて。
ただ硬くて分厚い殻を持ってるだけだった、それは最近になって気がついた。

って、こころの中で愚痴ってもしょうがないけど。

「いや、聴こえてるから」と、彼は笑う。

半ば聴こえるようにしたんだってことは、言わなかった。

「え、待ってくれるの? 来るまでずっと?」

彼は驚いたようにわたしを見つめる。

「はい、どんな人なのか見届けたくなったんです」

針を受け入れてくれる不思議な人の待ち人に、興味があった。わたしたちはそのあと何時間も横断歩道の前に立ち続けた。

同じ街に住んでるっていう共通点しかなさそうなわたしたちは、あのビルにカラオケがあるんですよね、とか、あたしあそこのイタリアンの隣の靴下屋さんで働いてるんです、とか、当たり障りのない会話をしていた。というか、ほとんどわたしが一方的に喋っていた。
会話はあっというまになくなり、それからはずっと黙っていたけれど。

「今、あたしのこと知ろうとしたでしょ?」

男の人の針がやっとわたしにふれそうになったのだ。
その理由はすぐに気がついた。

「きみのこと、たぶん知ってるよ、いつかまた会えると思う」

「あ……あっち、ほら、見て」

待ち人の二人はようやく現れた。

わたしと同い年くらいだろうか? 女の人と、はじめて父の姿を見る男の子。男の子は固く唇を結んで、涙を堪えているようにも見える。
わたしはしっかりと、その二人の顔を見ることができた。

男の人に別れの挨拶もせず、わたしはその場からそーっと退散した。もう家に帰ろう、日常にもどろう。

家族たちのこと。
照れ隠しに、くすくすと、よかったねって笑いながら。

柳くんという名まえだけを、入学当初から知っていた。隣のクラスで、しばらくはそれ以上のことがなにもわからなかった。
横顔がとてもきれいだった。肌が真っ白くて、瞳が少し茶色がかっていて、男の子なのにとてもやわらかそうな、さらさらした髪をしていて。
でも彼はいつも一人だった。その理由はわたしにはわからない。

すれ違うときに目を合わせてくれたことが一度だけあった。
休み時間、遅らせた宿題を職員室に持っていこうと歩いていたあの渡り廊下で、彼も一人、わたしも一人だった。
そのときに立てた針はとても長く伸びて、でもなにも感じなかった。
そういう人は、それからもう10年くらいあとにしか現れなかった。

「笹原さん、笹原さん」

わたしの名まえを呼んでいる。

「修学旅行、あたしたちの班に入らない? まだどこにも入ってないでしょ?」

「いいです、あたしその日は休むって決めてる」

わたしがそう言うと――あのことを、場が凍りつくって言うのかな。彼女たちは、そっか、ごめんね、とだけ言って、また机を囲んでひそひそ話をはじめた。

わたしはずっと長いあいだ、一人でいる。
彼も、柳くんも同じだといいなって、変な期待もして。

そのころのわたしは人生でいちばん針が伸びていて、自分で勝手にハリネズミとあだ名をつけていた(自分にというのが、やっぱり変な子だ)。
学校中の人たちの思考や記憶が歩くたび流れ込んできて、そしてその幼稚な感情の数々に失望していた。幼稚な欲望、幼稚な願望、幼稚な悪意、ときにはそのせいで嘔吐しそうになったり、実際そうなったりもした。

柳くんとは一度だけ一緒に帰ったことがある。
たしかわたしが彼の靴箱に手紙を書いたのだ。一緒に歩いてくださいって。
わたしは彼に針をちゃんと突き立てたかった。それだけできればもう終わってもいいと考えていた。
わたしは彼と二人、下り坂で自転車を押しながら歩いた。
秋口の、並木の葉が静かに揺れる放課後だった。
柳くんは透明なこころを持った、ちょっと変わった男の子だった。
彼からはなにも感じなかった。わたしが彼に針を刺したくなくて、必死に抑えているのだとわかった。

「じゃあ、ずっとお母さんと二人で暮らしてるの?」

「そうだよ」

「いいなー、あたしさ、親なんてどっちも嫌いだけど、父親は特に嫌い。なんにも言わないってことで何か言おうとしてるのとかさ、とっくに、こーんなちっちゃいころからお見通しなのにさ」

なぜかわたしは、聞いて良い気持ちのしないようなことまで、ほぼ初対面の彼に話してしまった。彼は、そんなどうしようもないわたしの話を、静かにうなずきながら聞いてくれていた。

わたしが針のことについて語るまでもなく、柳くんはなぜか知っていたようだった。その針は痛いだろうね、と、さみしそうに目を細めていた。

「じゃあ、またね」

分かれ道の踏切、わたしは今まで発したことのない、そんなせりふめいた言葉で。
柳くんは、あぁ、と気のない返事をした。

「またね、笹原さん」

「うん、またね、柳くん」

「……え?」

どさくさにまぎれて、初めて名まえを呼んだ。
最後だと思ったわたしはいっぱいに針を伸ばした。
突き立てた針は、夕暮れのさびれた街の空気に、時間を超えて、願いを届けて。

高校を卒業後、上京し、あまり土地勘もわからないまま、学生が住むにはそぐわないような街に住んだ。駅前のあの横断歩道ではいつか柳くんを見かけた。柳くんは母親を連れてきたかったのだ。
その景色を見て以来、わたしの針は徐々にぽろぽろと抜け落ち、とうとうなくなってしまった。

25才の夏にわたしは結婚し、その翌年に子どもが生まれた。
夫の家業のため、わたしたちは彼の田舎に移り住み、そこで遅れた結婚式を挙げた。
自分が透明になった気持ち、雲に浮かんだまま他人を見ているような、そんな気持ちだった。
やがて、わたしのことを妻として見る人、母として見る人しかいなくなってしまった。たくさんの針を立てていた、あの臆病な女の子はどこへ行ってしまったのだろう。

わたしの娘は変わった子だった。
家にいるときはわたしたちの結婚式のビデオをしょっちゅう見ていた。
わたしのなかであれほど透明な顔をしていた時間はないのに、どうしてか、興味深げにいつもそれを眺めている。なにを思ってるのか知らないけれど、あれはわたしじゃないよ、きっと。

「ほら、恵美、ごはんできたよ」

いつかあなたが母親になったとしても、べつにあなたがなくなるわけじゃない。わたしのようにならないで。
ともに日常を過ごせばいいだけ、一人の人間として。

わたしたちの子どもにもたぶん針はついている。
それはわたしのような硬い針じゃない、傷つける針じゃない。
どうかそれを、やさしい気持ちになれるために使ってほしい。

わたしもそっちへ、帰りたくなった。


初出:note 2019年5月頃