対岸のしらたき、うしろの少年おまえ誰?

 どうもこの部屋にいると視界が何重にもかすむようでそこらへんとても困っているがじゃああんたいっそのこと外へ出て自分で「白菜」なり「小松菜」なり「白滝」なり採ってこんかいと言われればいやそれは無理、としかいえないのです。外界は危険がいっぱいだからです。
 私がこの四角四面の狭苦しい部屋に閉じこもりだしてから早七ヶ月くらいは経ちましたが、やはり外界に出る気概は一向に起こりません。マミーもパピーもごめんなさい。僕に外界は向いていません。外界は危険がいっぱいです。
 今まさに外界の音がしました。あれは二週間に一度だけゲームセンターでドラマニをやりにくる怪鳥ゲーバックが羽ばたく音です。羽根と羽根のあいだにスティックを差し込んでゲタゲタと羽ばたいてドラムを叩くのです。
 まあこういう風に外界というのは種々雑多な危険に満ち溢れているのですが、いくら私が外界の危険性及び異臭及び空気の濁りについて言葉で説明してもあなたにはわからないでしょうからいっそのことあなた自身で体験してみてください。あなたの外界と私の外界、どちらがより危険なのか、あなた自身で確かめてみてください。地図を挿んでありますからそれを参考に私の外界を心行くまで探検してみればいいじゃないすか。どうせ暇なんでしょ?

あなたの友人より

 一週間前にこの手紙が来たときから僕はあまり乗り気ではなかった。彼の外界はまあ確かに彼自身にとっては危険なんだろうけれども、僕からしてみたらあれは出来損ないのおもちゃ箱みたいなものだ。だが本人を目の前にしてそんな辛らつな言葉をかけるわけにもいかないので、やはりそれなりのリアクションを嘘でもいいからとってこなくちゃいけない。面倒だが、僕はお人よしなので彼の児戯にも付き合ってあげねばならないのだ。
 僕は今彼の外界にいる。小さな川を橋伝いに渡り、それから、焼け焦げた木が六角形に折り重なっているこの茂みにきた。非常に狭くて彼の部屋と密度もそう変わらないくらいに思う。
 だが彼にとっては何か目に見えない大きな違いでもあるんだろう。
 僕は草木を手でかきわけながら進んでいく。時折極彩色の蚊が弧を描いて僕のふくらはぎのあたりを飛行する。蚊の飛ぶ音がやしきたかじんよりも嫌いな僕は、いっそ殺してしまおうと思い立つ。何もこの飛翔物体が蚊だからといって、掌で叩いて潰す必要もなければ、殺虫スプレーで窒息死させる必要もない。彼の外界に住む生物はみな、この一言があれば霧のように一瞬で蒸発してしまうのだ。「おまえの真実が正しいわけないだろっ」
 しゅうっ、と極彩色の蚊は姿を消した。はっ、こんなもんなんだよ、おまえの設定事項なんて。
 しかし、大きな声を出したお陰でちょっとした脱水症状を起こし、僕はその場に伏せ倒れてしまった。僕はそれから二時間ばかり動かずにじっとしていた。あるいは、あのババアが助けにこなかったら僕は一生この世界に閉じ込められたままだったのかもしれないが、助けられたってこと、これはとりあえず絶対的な予定調和なのだ。先っちょの未来もどん詰まりの過去も要するにそういうことだ。
「ミックスジュースやったらあるで。バナナと林檎を混ぜたやつや、おいしいでえ」うちの孫も毎朝飲んどったわ、ババアはそんなことをいいながら僕のもとにやってきて、傍に植えられていた真っ赤なガーネットの花弁に腰掛けた。ババアはそのフクロウみたく無機質な目を僕に向けながら、合わせた両掌にのせた黄色い液体を差し出した。黄色く濁ったミックスジュースは木々の隙間から射す陽光をかすかに浴びて光っていた。僕は鶏みたく首だけのお礼をして、それからババアの掌に注がれたミックスジュースを啜った。ババアの肌に唇も何も触れないよう、慎重に啜った。全部啜り終わったあともババアは掌を僕に突き出したままだった。早くその手を引っ込めろと思って、僕が「ありがとうございました」というと、ババアは満足げに手を引っ込め、そのあと自分の掌を思う存分舌で舐めはじめた。こんなのに構っている時間も勿体無いので、僕はふっと立ち上がり早足でババアを置いて先へ進んだ。
 去り際にババアが呟く。「恥ずかしがらんでええよぉ」

 そこから暫くは音のない道が続いた。草木の音も自分の声も風のざわめきもまったく聴こえない腐った道だ。まるで自分が無音の空気に加圧されてぺしゃんこに潰されそうな気分になった。彼のいうところの「スポイル」の似像がこの音のない道なのだろう。
 南東の方角にはひどい馬面のセイレーンがいる。彼女はいつもあの岸辺から一昔前のポップソングを歌っているが、本人はその歌が今巷で一番流行っている歌だと信じ込んでいる。岸辺に届くオリコン速報は常に二、三年ほど昔のものだから仕方ないといえばそうなる。ただ、どのみち音が聴こえないのでどんな歌を歌おうが誰にも何の影響もない。
 僕は遠くからセイレーンの姿を見つける。紙のような真っ白いドレス、腰まで垂れ下がった長い長いブロンドの髪、ななふしのように細く不健康的な腕、限りなく六角形に近い輝く瞳。僕は彼女に手を振る。彼女は僕を見咎めて目を丸くしてから、歌うのを途中でやめた。
「探しているものがあるんだ」
 僕は大声で叫ぶが、当然僕の声はどこにも聴こえはしない。遥か遠くの岩礁に浮いた彼女は少しだけ微笑した。
「ねえ、どこにいけばあるのかなぁ? 探してるものがあるんだ」
 彼女はようやく返事をした。何を探しているの? と、僕の鼓膜のデリケートなところに音ではない概念で直接伝えてきた。
 何を探しているの? 口にしないとわからないよ。
 僕はまた大声で叫んだ。
「――白滝! 白滝を探しているんだ!……うん、そう、糸こんにゃくのことだよ、うん、白滝。この世界のどこにあるのかなぁ?」
 彼女はくすりと笑い、それから静かに首を振った。
 空に宝石のような斑点が滲み出した頃、セイレーンはまた歌い出した。何も聴こえなかったけれど、その歌が幸福なラブソングであればいいな、と僕は思う。セイレーンの華奢な体はその二分後にはどろどろに溶けてしまい、最後に残った舌を水面で不気味に動かしながら海の水に還っていった。

 ぼろぼろの衣服を着たたくさんの人間が、狭い路地で押し合いへし合いしていた。
「街路市だよ、いつもこんな風に出店がずらっとね、並んでるんだ、どうすごいでしょ?」 
 そういっておじさんは手に持っていたレジ袋を僕に渡した。中には生臭い鯖の鮨があった。
「大丈夫です、あ、の」
「いいよいいよ、とっとけって」
 結局おじさんは鮨を押し付けたまま人ごみの中に消えていった。
 たこ焼き、ちりめんじゃこ、盆栽、色水、野菜、果物、金魚、など様々な出店が路地を占拠していた。雑多な食物の混じり合った臭いは朝起きたての口臭に似てひどく不愉快だ。僕は立ち止まって
「芋天いかがっすかぁ」
 真横から野太い声が当たったのでおもわず肩をびくつかせた。それを見た店主はにやりとほくそ笑んで「兄ちゃん、芋天買うかい?」といった。
「いや、僕お金持ってないんで……」
「いやいや、そんなん大丈夫、この出店は毎日やってるから、明日にでも返してくれれば、ほら、ひとつ食ってみな」そういって黄色い芋のてんぷらを差し出す。
 僕が食べたいのはそんなもんじゃない、無意識に呟いた。
「ん? ん?」何かいったか? といった様子で店主は耳をこっちに向けた。
「あのー、白滝ってあるじゃないですかぁ」
「白滝?」
「はい、白滝。それってぇ、どこにあるんすか? 探してるんですけど見つからなくて」
 店主は考え込むような仕草をした。別の客が横から来て、芋天ふたつくださいという。店主は姿勢を変えないがそのかわりに店主の妻らしいおばちゃんが客の相手をした。
「兄ちゃん」店主が口を開いた。「あんた、この世界の人間じゃないね」
 僕は頭を掻きながら、はいそうなんですという具合に小刻みに頷いた。
「白滝はこの街にはないんだよなぁ、一個、湾を越えなきゃ」
「湾」
「そうそう、白滝は対岸にあるんだよ、確か」
 めんどくさいことになったなあ、と思いながら僕はまた頭を掻く。
「遠いっすか?」僕は店主に訊ねる。
「そんなに遠くはないけど、道がわかりにくいし、ちょっと危ないかな? 兄ちゃんみたいに別のとこから入ってきた人には」
「はあ」
 大丈夫だって、おじさんは僕の肩をばんばん叩いた。「道案内つけてやるから。そのかわり芋天買えよ?」

 そんな風にして僕は今、店主の娘に先導されてこの砂漠を歩いている。三六〇度すべてが砂の塊だ。確かに、もしも案内がなかったらと僕は道に迷ったあげく死んでしまっただろう。
 対岸までは、歩くとなるとまだ二時間ほどはかかるのだという。案内の娘は僕と同じくらいの年齢に見えるが、なにしろこいつ、まったく喋らない。最初に僕が「よろしくお願いします……」と頭を下げたときも、「……っす、……です」とぼそぼそ呟いただけで、あとは満足な会話をしたためしがない。僕だって喋るほうではないが、この人の人見知り具合もなかなかのものだな、と思う。彼女は歩いている間も終始俯いていて、髪はだらしなく垂れ下がっている。ちょっと怖いくらいだ。
「あの」と僕はいった。「トイレ行きたくなってきたんだけど……どっか、この辺って、あの、街はまだかなぁ? それか、パーキングエリアみたいなとことか、どこでもいいんだけど……」
 彼女はふっと僕のほうを見て、「トイレ?」と呟いた。
「そう」
 彼女はまた歩き出しながら、「五分くらいで辺境の街に着きます」と言った。風の音で幾分声が聞き取りにくかった。
「ああそう、ありがとう」

 そうしてついた辺境の村は案外人がぽつぽつ歩いていて、たまに挨拶もしてくれた。しかし彼らが何語を話しているのかがよくわからない。おそらく日本語だろうが、僕が脳内でバリケードを張っているためだろう、村人たちの使う日本語はまったく日本語に聞こえないのだ。僕はコンビニでトイレをすませ、外で待っている店主の娘のもとへ急いだ。店主の娘は村の案内図の前で、俯いたまま静かに突っ立っていた。
「ごめんなさい、面倒かけて。行きましょう」と僕は声をかけた。いつのまにか娘に敬語で接するようになっている。僕は癖で、ふと気がつくと同い年の友人やクラスメイトにも敬語を使ってしまうことがある。大抵は面白がられるのだが、僕はそのたびに少し悩む。絶対に入ってはなりませんよ、僕の内側にこないでくださいよ、僕の無意識が、意識的にそんな具合の警報を鳴らしているような気がする。そしてそれは「気がする」のではなくて純然たる事実なのだろう。なんだか言い方が村上春樹っぽくなってきたけれど。
 僕たちはろくに見物もせずに村をあとにしようと歩き出した。その時だった。僕たちの後方で男たちの歌声のようなものが響いてきた。生臭そうな気味の悪い声だった。なんだろう、寒中水泳とか裸祭りとかそんな系の、汗臭い鬨の声だった。
「何ですかね、あの騒ぎ」
 娘は暫く停止したのち、「宇宙人です」といった。「宇宙人から身を守るためにああやって大声で叫んでいるんです」
「はあ、はあ? 宇宙人、ですか」
「はい。キャトルミューティレーションはご存知ですか?」
「……ああ……牛の血が抜き取られたりする、あれのことですよね」
「……ここでは人間がそんなことをされるんです」
 店主の娘はやる気のない朗読のように、淡々と語った。
「最初は牛や羊だけが被害にあっていました。彼らにとって牛や羊はあなたの住む世界ほど重宝されていませんでした。この村の人間にとって牛や羊は家畜ではなくむしろ草やヒッポリテスを食べる害獣だったのです」そこまでいうと彼女は言葉を切って、「すいません、ヒッポリテスはご存知ですか?」
「いや? 知らない、です」
「ヒッポリテスというのは、ええと、あなたの世界でいうファストフードのようなものですね。生きたままいつでも食べることができる多毛類の一種です。ゴカイやイソメに似ていますが、なんというか、端的にいうともっとグロテスクです。この村の人はそのヒッポリテスを花壇に植えて飼育しています。必要な時に必要な分だけもぎとって粗食することができます。そのヒッポリテスを野生の牛や羊がしばしば食べてしまいます。だから彼らは宇宙人が害獣たる牛や羊、アルパカなどを駆逐してくれる宇宙人をありがたがっていました。牛や羊の死骸はそのまま村に残るので、それらを処理する死骸焼却士と呼ばれる職業が新たに生まれました。そういう風にしてこの村は宇宙人のお陰で安穏なローテーションを築き、より村は繁栄しました。特にヒッポリテスの生産量では全国一を誇るようになりました。ヒッポリテスのもつ独特な生殖方法を利用して(ヒッポリテスは、約十万五千個もある自らの毛穴から卵を産むのです)、更に多くの卵を産ませるために、ヒッポリテスの体を節ごとに切断するロータリー状の機械を発明しました。これは作った当初から今まで世界中の受注を受けています。この村が生んだ偉大なる発明です。
 ヒッポリテス産業はこの村を大いに潤しました。だけど、そんな風に村が幸福になっていくことが宇宙人には気にくわなかったのでしょう。その後まもなく、牛や羊に対するキャトルミューティレーションは起こらなくなりました。村人たちは少し残念がりましたが、もう既にヒッポリテス産業はゆるぎのないものとして定着していたので、これ以上に村が困ることはなさそうでした。あ、死骸焼却士の方たちは死骸がなくなることにより職を失いましたが、村長が特別な措置を講じてくれたお陰で、ロータリー機械の管理人などの職に新たに就くことができました。
 村はまだ安穏なローテーションが続くかと誰もが思っていました。キャトルミューティレーションが行われなくなった一ヵ月後、事件が起こりました。一人の村人が、三十代の男ですが、小山の麓で死体になって発見されました。男は全身の血液も、目玉も内臓も骨も抜き取られていて、ただ皮と髪の毛と洋服だけになって発見されたそうです。宇宙人たちはとうとう人間の駆除に手を付け出したのです。その後、二、三日から一週間ごとに一人ずつ、村人がこのようなキャトルミューティレーションの被害に遭うようになりました。当然、村人たちはひどく恐れ、村から出て行く人もあとをたたないようになりました。しかし、村を逃げた人たちは一人残らず宇宙人によって殺害されました。村人たちはここから逃げてはいけないということを学びました。そして最後に学んだことがこの祭りです。通称は屈服祭りといいます。宇宙人がこの祭りをしろと指示したのです」
 娘が、少し前までとは別人のように饒舌になっていたが、どうせ外界なんてこんなくだらない世界なのだから、とほっておいて勝手に喋らせることにした。娘の舌足らずな言葉を聞くともなく聞いているうちに、対岸の白滝も、友人Aのことも、もう全部どうでもよくなってきた。こいつの話を最後まで聞いたら、またあの極彩色の蚊を消した時みたいに、何とかかんとかっ、って叫んで、この世界をすべて消してしまおう。
 そう考えた直後、僕が蚊を消した時のあの魔法の言葉を忘れてしまっていることに気づく。
 娘はまだ話し続けている。
「彼らが祭りの時に発するあの独特の掛け声は宇宙語なんです。宇宙語で、あなたたち、とはこれは宇宙人のことですね、に、屈従します、私たちはあなたの裁量しだいで死んだり喜んだりするくらいに矮小な存在です、というニュアンスの言葉を叫んでいるんです。私はあなたたちに対する何の武器も持っていません、あなたたちが指示すれば私たちは牛や羊の糞でも笑顔で食べるでしょう、私たちは何の武器も持っていません、ただあなたたちに指示されてこんな風に裸で、滑稽な陳腐な踊りを踊っているしか能のない役立たずの集まりです、私たちはあなたたちに屈従します、あなたたちが指示すれば私たちは肛門を突き出して笑顔で村を歩くことでしょう、私はあなたに屈従します、私は何の役にも立たないクズなんです、って、そんな言葉をずっと繰り返し繰り返し叫んでいるんです。彼らにはそんなことしかできないのです。そこまでして生を求めることが恥ずかしいとは思わないのか、そういう人はこの村にはいませんでした。この村の人たちは皆、家族なり恋人なり、大切なものを持っていました、それなりのね。だから死ぬわけにはいかないのです、まあそれも一種の弁明なのかもしれませんが、そのようにして彼らは集団で踊り続けました。何も宇宙人は皆で集まってやれとは一言もいっていません、彼らが進んで集団で行っているのです、彼らはマジョリティの強さを知っているんです、あなたの世界で『赤信号を皆で渡れば怖くない』とかいう類の金言があるそうですが、ここ「外界」では、象徴的な意味ではなく実際に、こういうことが行われているのです。馬鹿にしますか? あなたは彼らをクズだと罵りますか? あなたがこの村の人だったら、あなたはどんな行動をとったでしょうね? あなたに彼らを馬鹿にする権利はありますか?」


初出:note 2024年8月 神谷京介公式サイト(仮)
制作・脱稿:2009年6月頃?