クライシス

 故郷から離れて五日ほど経った。ヒキャクの荷物はひどく持ち重りがした。今は、不注意でチャックの開いていたリュックからこぼれて地面に落ちたチョコレートをひとつずつ拾っているところ。空はまだ青かったが、まばたきを何回もしているうちにだんだんくすんでいった。
 ここから百五十キロ先の小さな美しい村に荷物を届けることが、ヒキャクに任された仕事だ。
 それは彼が生まれて初めてする仕事だった。青いトラックが道を横切った。ウインドブレーカーの赤い点滅が消えた。徐々に加速していった。野原ばかりが広がっている。草は先端が少し焦げている。さっきトラックが通った道は一本道、どこまでもつづいていくみたいに野原の真ん中を走っている。
 ビル、鉄塔、ガソリンスタンドが建つだだっ広い野原。あれが街だ、とヒキャクは思う。そうしてヒキャクは歩いていく。くぐもった空の色、片手に持つ地図も雲の暗がりの影のせいでよく見えないが、周りの景色と写真を照らし合わせながら。タワー、タワー、どこだ?
「ない」
 ヒキャクはおもわず口に出してしまった。たしかに、今目にしているこのビルはこの街にあるもので、その隣には天高く聳え立つタワーがあるはずなのに、どこにもない。銀色の鉄橋だってあるのに、肝心のタワーが見当たらない。
 ヒキャクはその周囲をぐるぐると徘徊してみたが、一向にそれは見つからなかった。そのうち、実は他の建物も消失していることに気づく。もっと建物が密集した場所かと思っていたのに、ぽつりぽつりとしかビルは建っていなくて、その代わり、灰色の荒野がそこかしこに拓けていた。大きな影を帯びた街は歯抜けのように隙間が開いている。その街の光景はヒキャクがそれまで抱いていたそれのイメージとはずいぶんかけ離れたものだった。実際の都会なんてこんなものなのかな、と思い込もうとするが、それにしても閑散としすぎている。ビルとビルの間、校舎とグラウンドの間、家とコンビニエンスストアの間。遠くには低い禿山がふたつ覗いている。
 地図さえ頼りにならなかったからヒキャクは頭を抱えてしまった。ビルの最上階から赤く明滅するランプの光。車はもう三十分も道を通らない。ここは本当に、あの隆盛を極めた超大国の首都なのだろうか。
 人影のないC区に着き、そこにぽつんと佇むひとつの民家をたずねた。チャイムを押したが出ないので二回、三回と押してみた。足音とうなり声が聞こえ、やがて寝癖のついた細い目の不機嫌そうな若い男が出てきた。ヒキャクは事情を説明した。地図に記してある道路や建物がどこにも見えない、道を間違えているのかもしれない、X村につづくトンネルまでの道を教えて欲しい、と。 
 男は髪をばりばりとかき上げた。ふうっと息をひとつ、それから、んーそれは難しいな、けっこう遠くだから、と言った。あと、お前はたぶん道を間違えたりはしてないよ、この街が最近おかしくなってんだ。
 ヒキャクは顔を赤らめた。百五十キロ先のトンネルのことをこの街の人が知っていると思い込んでいたからだ。S区はどこにあるか知ってる? と男はたずねた。ヒキャクは首を振った。男はつづけて、たぶんそこ行けばわかると思うよ、そのトンネルと隣接してるのはたぶんそこだから。
「お前、いくつ?」
 十歳です、とヒキャクは答えた。
「へー、ひとりで来たんでしょ」
「はい」
「何で」
「仕事です」
 男にはS区までの道程をおおざっぱに教えてもらった。今は彼と別れ、B区の横断歩道を渡っているところ。誰もいない、人の息づく音さえしない。この街で人に会ったのは現在まででたったの二人、青いトラックの運転手と民家にいた若い男だけだった。若い男は別れ際に教えてくれた。車ひとつも通れないほど隙間なくビルが密集していたこの街から建物が消えた理由。
「飛んでいっちゃうんだよ、空に」
「何がですか?」
「だからー、ビルよ、ビル。あ、ビルに限らずいろんな建物ね。こないだいちばん近くのコンビニが飛んでっちゃってさ、しかも自転車の修理屋さんも飛んでっちゃったから、自転車直せなくて、いつも歩いて隣の区まで食料買いにいってんの。お前、ひょっとしてパンク直せたりする?」
「できないです、すいません」
 少し肩をすくめてみせた。すると男は、
「あ、別にいいよそんな落ち込まなくて」
「ビルが飛ぶってどういうことですか」
「だって実際飛んでっちゃうんだから、しょうがないじゃん。見ればわかるよ」
 原因とかあるんですか、とヒキャクは質問を続ける。
「わかんねー。まあ、ここを歩いていくんならそのうち見れるよ。飛んでいくっていうか、空にこう、昇っていくんだ、エレベーターみたいに。……わかんないよね? ま、見ればいいって話だよ」
 ヒキャクは歩きながら昼ご飯代わりのチョコレートを噛んでいる。左の奥歯は小さな穴が開いていて甘い物あるいはアルミホイルがさわるとひどく痛むから、右の奥歯を使って噛んでいる。時折、小さな竜巻のようなものが砂をまきあげていくのが見える。どこかの事務所の一階の窓を割ったりもしていた。
 ヒキャクはこの街に来てから一度も人恋しいと思ったことがない。故郷を発ったその瞬間からそうだったのかもしれない。親は笑っていたのかもしれない。小さな弟たちは憎んでいたのかもしれない。友達はどうだか知らないが、ヒキャクはその人たちすべてがどうでもよかった。だけど、この静かな街で起こることは、もっとどうでもいいことのように感じる。ママになんて言おうか、と思う。この街は田舎者のヒキャクや両親にとってはテレビの中でしか見たことのない大都会であり、あこがれだった。だけど、テレビやラジオで見聞きした街の姿と、ヒキャクが今見ている街の姿はずいぶんとかけ離れていた。交差点に来た。ニュースでは歩行者が雪崩のように押し寄せる場所だと言っていたのに、その真ん中に立ってさえ誰に押されもしなかった。足をひきずっているシェパードが一匹、灰のような目でこっちを見ていた。二百メートルほど離れていたがヒキャクには今はっきりとわかった。それは故郷で見る山の風景よりも生々しく、胸がしぼんでいくような感覚さえ抱いた。
 シェパードはこちらに駆け寄ってくる。ヒキャクは冷や汗を流し、慌てて走って転んでしまった。リュックのチャックからチョコレートがばら撒けてそこら中に散乱した。ヒキャクはそのひとつをむしり取ると歯を食いしばって駆け出したが、体は重かった。野原の中をジグザグに走った。シェパードは追ってこない。振り返ると、ヒキャクが交差点の真ん中でばら撒いたチョコレートを漁っていた。ヒキャクは息をつぎはぎして、なお走る。仕事のことが頭にこびりついて離れない、道を逸れていることもわかっているのに、ヒキャクは依然として知らぬ方向を走りつづけていた。階段を上がった先の喫茶店に隠れようとしたが大小の壊れた瓦礫が積まれていて歩く場所を塞いでいた。辺りを見回した。白いガードレールが熱に溶けてよじれ曲がった状態のまま車道に垂れていて、車がそれにぶつかってくるくる回転してヒキャクの間近までブレーキの音を立てながら迫り横転した。ヒキャクは中を覗いた。誰も中にいなかった。声は聞こえたのに誰の陰もない。
 水の音?
 ヒキャクが振り返ると、口をひしゃげたホースで飛沫をまき散らしながら、四、五人の子供が群れてはしゃぎあっている光景が見えた。今にも崩れそうな半壊状態のアパートの玄関先で、嬌声をあげて彼らは転びまわっていた。細い二つの手でホースを握りしめているのは小さな男の子。瓦礫に足がもつれたのか、足元もおぼつかないでいるのは他のみんな。バスケットボールがまばゆい光に跳ねて、それをぶつけ合ったりもして、あんまり力が強すぎたので誰かが泣いた。女の子だった。
 ヒキャクだってまだ子供だ。だけど、そんな遊び方はもうとうに忘れてしまっているものだと最近はいつも自分に言い聞かせていた。だから知らぬふりで通りすぎようとした。すると、彼らの中の誰か一人がヒキャクの本当の名前を呼んだ。
 もう一度呼んだ。
 ――    っ。――    っ。……早くこっちに来なよっ。
 だがヒキャクは振り返ろうとしなかった。幻影だと思っていた。
 そのうちに彼らの体は虹色に透き通って見えなくなり、そのうち声もなくなった。ホースもボールも携帯ゲーム機もみんな空に消えていった。建物の残骸だけが残っていたが、ヒキャクには見憶えのある景色だった。あとは彼らが笑ってくれたら、その景色はヒキャクのすべてになるはずだった。
 ヒキャクは再び歩きだそうとして前を向く。すると、遠くの街から波のように大きな音が聞こえてきた。そっちに目をこらした。そこはR区だろうか、大きな青いガラス張りのビルが空に昇っていく。粉塵や瓦礫さえ、その上昇していくビルに波長を合わすみたいに地面から剥がされてゆっくりと浮かんでいった。ヒキャクはずっと眺めていた。ビルはそのまま横に動くでもなく、壊れるでもなく、ただ自分の形を保ったまま薄暗い高い空へ昇る。決まりごとみたいだ、だれの力でもない。ひとりでに動くのでもない。上の方の階にあったガラスが一枚下に落ちていく。その動きはたしかに重力に従っていた。ヒキャクがほっとするまもなく、ガラスは均衡が破られる寸前の位置でいったん停止し、数秒後にビルと同じ速度で音も立てずに上昇していった。
 あそこが目印だ、とヒキャクは思う。
 瓦礫は光をあつめながら輪のように空にかかり、その上を飛んでいるのはちぎれた雲の切れ端。太陽を隠して山を隠して、一面を漂うのは、信じられない数の鉄骨。磁石のようにくっついてくじらのように大きく重くなっていく。ジェット機も、ヘリコプターでさえ、その大きな鉄の塊にぶつかり砕け炎上した。炎は一瞬で黒く濁り鉄クズの塊に吸い込まれた。それから数時間ののち、空は闇に変わった。光がなくなったわけではなかった。うすくてかぼそい、黄色い帯のような光だったから、疑いすぎて開きにくくなったヒキャクの目にも幾分クリアに映った。
 街のあかりだった。
 みんな小さな針の穴のよう、手をつなぐこともない。だけどそれで十分だったように見える。星のようだとヒキャクは思う。あれを自由に並べてみることができるのなら、とヒキャクは思う。ヒキャクは、自分がこの街に一人でたたずんでいることを知った。
 ビルがまたひとつ浮き上がった。一等大きな河川に架かるブリッジもそれにつづいた。いちばんまばゆいあかりが空へ消えた。ヒキャクは自分の目をこする。ちゃんと見ようとしたからだ。ペンキの剥げた歩道橋も昇っていく。車もバスも昇っていく。ハイウェイを走っていた何十台もの車は、宙に浮いたあと空中で一台一台配列され、いびつで大きなハートマークを空に描いた。ヒキャクはたまらない嫌悪感をおぼえておもわず歯軋りしたが、それでも空から目を逸らさない。街が壊され、景色が闇に吸い込まれる。時間と自分の仕事を忘れ街の変化をできるだけ目に焼きつけようとしていたヒキャクの現在地点、Y区。有名なラジオ局があった街。
 立っている道路の真ん中に突然亀裂が走った。ヒキャクが息を吐くまもなく、道路は地面から引き剥がされた。ヒキャクの視界は土とコンクリートのクズで真っ暗になり、何か重い物ばかりが背中や頭に降ってきた。恐怖のあまりわっと叫んで逃げようとした、離れようとした。自分もこのまま空に飛んでいってしまうのかもしれない、それはいやだ。瓦礫に挟まれても砂埃で目をつぶされても、無我夢中で手足をばたつかせた。
 押しつぶされたのは錯覚だったのか、本物の記憶だったのか、わからないけれど、いつだかヒキャクはそこにへたり込んでいた。まだ夜は明けていなかった。遠くの岸辺の灯台が光を放ち、崩壊寸前の街をやさしくまるく照らした。まだ音は何度となく響いてくる。建造物が空へ昇る時のあの音だ。
 ヒキャクは身を縮めた。Y区には氷みたいな風がずっと吹いていて、ヒキャクが目を覚ました今の方が一層勢いも強まっていた。辺りを見渡してみても、まともな建物はひとつもない。車もない。人もいない。
 地図を広げたが、あかりがないからどれだけ目を細めても、こらしても、太い文字さえ見えなかった。ヒキャクはその役立たずな地図をちぎって捨てた。ようやく歩きだす気になり、なんとなく靴ひもを固くむすんでみたが、指にかけた途端不自然にぷつりとちぎれた。不思議な気配を感じて振り向くと、直径六十センチほどの鉄球がそこでヒキャクを待っていた。地面から少し浮いている。歩くと、一定の距離を保ちながら犬のようについてきた。その鉄球は動くたび空気の振動みたいな音を内部から響かせては、ヒキャクを執拗に追いかけまわした。
 H区はかつて住宅街があふれていた場所。高いマンションはまだぽつりぽつりと建っていたが、そのほとんどが錆色に腐敗していた。横倒しになっているのもあった。ヒキャクがあてもなくH区内を歩いている間も、奇妙な鉄球はまだついてきていた。ヒキャクは何分かに一度振り向いてみるのだが、いつも同じ距離感を保ったまま何をするでもないのでますます困惑した。触ってみようと思い近づこうとしても磁石の同極同士のようにさっと離れてしまう。ヒキャクとの距離をあらかじめプログラミングでもされているのかもしれない。
 次におとずれたのはJ区。最高級の豚肉からあやしい昆虫の脚の骨まで、様々な国の料理が楽しめるJ区が世界に誇る市場もやはりとっくに空へ消えてしまっていて、わずかな品が残骸として地面にひしゃげていた。数匹の犬猫がそれをむさぼる。隣のT区に抜けるまでに、建物が五棟ほど空に昇っていくのを見た。
「君はどうして僕についてくるんだ!」
 ヒキャクはとうとうしびれを切らした。O区でのことだった。ヒキャクに初めて話しかけられた鉄球は、しばらくじっと黙っていたが、数秒後にゆっくりと自分から動きだした。ヒキャクの前を通りすぎ、人が歩くくらいのスピードで静かに道路上を進んでいった。とまどいながらそのあとをついていくヒキャク。
「……僕はX村に行きたいんだ。ねぇ、もしよかったら村につづくトンネルまで案内してくれる?」
 そう語りかけると鉄球はぴたりと静止し、地球の自転のように二度ほど回転したあと進路を変え、今度はひとりでに進みだした。理解してくれたのかもしれない、と淡い期待を抱くが、まだ信用はしていない。それでもついていくしかなかった。そうやって鉄球を追跡していくうちに踏み込んだのがK区の敷地だった。
 K区には建物がひとつもなかった。草木の一本も見当たらない、本当は地面や空さえなかったのかもしれない。C区にいた若い男の話をまたひとつ思い出したが、それはもはや遠い昔に聞かされた子守唄のような感覚でしかなかった。
「K区にはもうひとつの建物も、人も残されてないんだ。街も人も川もコンクリートも、残さず全部空に消えてった。唯一、空間だけが残されてるっていうよくわかんない噂もあるしね。お前K区は通るんだろ?」
 ヒキャクはうなずいた。K区を通過しないとトンネルに行くことはできない。 
「あそこは歩けないよ」
 そう言いつつ、男は携帯をいじっている。
 ヒキャクは「歩けないってどういうことですか?」とたずねた。すると男は、お前疑問文ばっか、と言ってにやにや笑った。
「行ってみればわかるって。光がないからびっくりするよ。まあいずれどの区も、どの世界も、K区みたいになるってことだな。そういう意味ではね、今の時点で開発がいちばん進んでる街だと思うよ」
 K区には本当に一粒の光も存在しなかった。決定的なのは空間がなかったことだ。K区に入った瞬間、足元がなくなり、音もなくなり、視界は暗闇に包まれ、自分の身体のあらゆるパーツがどこか別の場所に抜けた。
 口をぱくぱくさせようとも、肝心の口がないからどうしようもない。
 何かが際限なくねじれ、転がっていた。大きな太いもののような、あるいは華奢で柔らかなもののような。そして、上下左右どこへでも限りなく広がっていた。真っ暗闇の中、ヒキャクに関わりのないはるか遠い地点で無機質な何かが動いていたが、一旦耳をすませば、それはもうほんの手元にあるような気がした。
「僕の手に何かがある。重くも軽くもなく、色もなく、感情もない均質的な何かだ」
 声が自分の意思とは関係なく勝手に排出されたことにヒキャクは驚いた。耳も口も取られたのにどうしてなのか。誰も聞いていない言葉のはずなのに、あらためて感じる自分の声はとても細くて新鮮で、禍々しい。
「よし、この手元にあるものをコントロールしてみよう。脳の神経をちょっと動かせば簡単にできるだろう」
 無意識のうちにそう言って、その色のない闇色の球体を動かしてみる。感触はあった。それはヒキャクの神経をすりつぶし、強引にねじ上げ回した。不思議と痛みはなかった。球体はヒキャクの体中を駆け巡り、鈍い音を立てながら徐々に大きくなった。
「まだまだコントロールできるぞ」
 ヒキャクの体を回る球体に命令をすると、球体は怖気づいたようにさっとヒキャクから身を離し、二メートル先の右斜め前方に向け緩慢に転がっていった。カーテンのような泥のような柔らかい物質が垂れ流れてきて、ヒキャクと球体を離れ離れに遮った。ヒキャクはそれが自分の体に流し込まれるのを、肌でもなく味でもない部分で感じ取った。この体は体ではない、と思った。何にでも溶け込み、何にでもなれる。つまり、僕は世界で最も進化した人間になったんだ。最新鋭の景色を手に入れることができるのは世界でただ一人、僕だけだ。
 ヒキャクが呼び込めば何でも来るはずだった。球体はヒキャクの心の中だけではすでに数百個が稼動して、内臓や血液の中までを満たした。時間もない無の世界を漂うことで、ヒキャクの胸は徐々にからっぽになり、そのうち何の思考も持てなくなった。
 意識が闇に浸され、とろとろに溶けて、広大なK区の空間へ川のように流れた。
 ヒキャクはやがて球体そのものになった。大きさを自分で決めようとしたがそこまで頭が回らなかった。たぶんヒキャクの体より二倍ほど大きいはずだ。
 ヒキャクは転がった。無の景色におきざりにした自意識はもう取り戻すことはできなかった。ヒキャクは自分が誰ともわからず、何の欲も持たず、何の命令もされず、ましてや風に吹かれるでもなく、ただ単に確率の問題だけで動いた。動いて、止まった。下の空間に記憶がひとかけら落ちていた。ヒキャクの形をした球体はそれをすすり、自分の栄養にした。それは誰か見知らぬ他人の記憶だった。解読をした。つまらなかったから赤い色素と一緒にその記憶を吐き出した。そのあともいろんな記憶を拾っては捨て、捨てては拾った。言葉も思考も忘れ果てていた。それでもこの物体がヒキャクであるという証拠がどこにあるのだろう。
 K区入場口前にある看板には長い注意書きが記されていた。

  はじめに
 この先はK区ファーストエリアに指定された、D都環境保護哲学特例法施行区「K区」の敷地内となります。ここから先のどの場所に入っても、0.00003秒内(上限)にすべての概念が抽出されランダムにK区の敷地内に配分されますのでご注意ください(ごくまれに敷地外にまで飛んでしまうこともあります)。また、自意識が堅牢ではない方、神経が過敏な方、精神に何らかの不調をきたしている方、および十二歳以下の方は意識の分裂に過剰なショックを受け場合によっては心停止・精神崩壊等危険な状態になるおそれがありますので十分に気をつけてください。本領域内で起こったすべてのトラブルに対してK区は責任を取ることができませんのでご了承ください。
  概念の抽出、および敷地内への配分についての簡単な説明
 人間に限らず、動物や建築物、自然など一般に形の存在しているものは、それ自体がひとつの物質のみで構成されていることはごくまれなケースで、ほとんどは物質を複合して組み合わされ作られたものです。概念の抽出とは、対象となる物体(例:人間、馬、ペン、チューリップ等)が持っている多量の物質を、できる限り最小の単位にまで細かく分解する、つまり物質同士の結合を意図的に分離・剥離し、更に不要な物質の廃棄をする作業のことをいいます。物体の有限的な分解がステップ1、その過程でばらばらになったひとつひとつの物質の取捨選択(その権利はすべてK区が独自で開発した人工知能が保有することになります)がステップ2と考えるとわかりやすいでしょう。
 そのようにしてできる限り細かく分解され、更に取捨選択の過程を通過しK区内に残った物質は、ほとんどがK区の領域内にランダムに飛散、それぞれの空間に配置されます。これが最終ステップと考えてください。この際でも、移動中の物質は外的な要因のない限りほぼ完全に元の性質を保ったままなのでご安心ください。
  記憶について
 おおまかにわけて物質は可視/不可視で大別できますが、そのどちらにも属さないのが個々人の記憶です。現時点での研究では、俗に〈記憶〉と呼ばれるものがどういった形状・形式で空間上に存在しているのか、また記憶の元である個々の生命体を離れても自律的に存在することが可能なのか、など様々な疑問が解決されずに残っています。しかし、K区のスーパーコンピューターはどんな要素も自在にリマスタリングできるため、独自に記憶の概念設定を行い、可視性の物質として取り扱うことが実現できました。K区に入った時点で記憶はすべて、ナノレベルといえる大きさの結晶に作り変えられ、更にそれらは前述の通りひとつひとつの物質としてK区内にランダムに飛散します。この結晶は回りがとても鋭敏な針で作られていて、その記憶を持つ当人以外が記憶を吸収しようとすると、たちまち体に拒否反応が起こり場合によっては心停止・精神崩壊等危険な状態に陥るおそれがあります(つまり、当人が記憶を吸収する場合、細胞に開けられた枠にその結晶がぴたりと収まるので痛みなどは感じないということです)。ただし、K区で概念を作り変えられた人間だけはその限りでなく、細胞の枠自体がとても大きな空洞となるので、人間の知能レベルで認識できる程度の記憶ならほぼ無限に吸収することができます。

 フラッシュバックのようなひとすじの閃光を感じた直後、ヒキャクは意識を取り戻した。どの地区にいるのかわからなかった。K区内のシステムによって心も体もからっぽになってしまっていたヒキャクは、最終的な自己の断裂が起きる前になぜかK区を抜けることができた。ここはおそらくどこか別の地区だが、場所も名前もわからなかったし、足をもがれたヒキャクがどうやってそこに辿り着いたのか自分自身でもわからなかった。
 何かあたたかなスープのようなものの中を漂っていた。そこには待ち望んでいた光があった。きっと暖色が辺りを包んでいたのだろう。
 ヒキャクは声を聞いた。呻き声にも似ていたが定かではない。
 K区を出たのだ、とヒキャクは思う。しかしいまだに体は戻っていない。目も見えない耳も聞こえない舌の感覚もない。もうずっとこのまま、意識すらおぼつかない状態のままで生きていくのだろうか。
 その時、何かが共鳴した。血生臭くてあたたかいスープの中に、やさしい声が響いた。
 ヒキャクは泳いでみた。イメージしたよりずっと楽に泳げた。とても居心地がよかった。
 ヒキャクは言葉を発しようとしたができなかった。自分の体なのかもしれない場所のへその裏側辺りに長い緒がついていた。それはスープに浸されたままずっと遠くまでつながっていた。誰かとつながっているようにも感じた。誰だ、とヒキャクは言おうとしたがまた声が出ない。
 すると、さっきの共鳴がようやく声になって聞こえた。だいじょうぶ、すぐに話せるようになるから。あとちょっとの辛抱よ。
 この海はひょっとすると、とてもやわらかいのかもしれない。血の筋が見えるから、このあたたかさは体温なのかもしれない。僕は守られている、ヒキャクはようやく気がついた。
 ヒキャクは思う存分泳いだ。深く潜り、時には浮いたりもした。そのうちに動きを止めて、ヒキャクは彼女の呼吸すべてに身を任せた。
「僕は生まれたくない。ずっとこのままでいい」
 ヒキャクは自分を包んでいる彼女に訴えた。その声がスープを伝って反響したあと、残酷なくらいあっけらかんとした答えが返ってきた。
「ダメよ、わがままなんて」
 不機嫌そうにまるまったヒキャクの体に、もっとずっとあたたかいスープをほどこした。涙を流したヒキャク、ようやく決心をした。母さん、僕……。
 微笑みまでここに響いたよ。
 スープが急激に引いていった。流されるまま流れた。涙も唾液も血も海も、混ざり合ってしまった。ヒキャクは手足をもがき、開かない目で必死に見ようとした。
 美しい村につながるトンネルがそこに現れた。
 トンネルの中からは様々な雑音、騒音、声、音楽。ああ、やっぱりそっちの世界は嫌だ、とヒキャクは思う。悲しいくらいに思う。怖いんだ、そう思うのはいけないことなのか。
 僕には未来が見える。トンネルの外からはたしかにすべてが見通せる。中に入ってしまえばすぐに忘れてしまうこの記憶は、そんなに価値のないものだろうか。
 二時間経つと耳が開き、大人たちのあわただしい声が徐々に近づいてきた。
 もうじき、あかりのもとにでていく。


初出:神谷京介短編集Ⅱ 星屑タロット (2010年3月)