僕はそこで自転車を止めて、町の向こうに連なる山を眺めた。暗緑色の峰には鉄塔がぽつりぽつりと建っていて、糸のように架かる電線で順に繋がっていた。山肌に沿って点在する家々は、重たく茂る緑葉に埋もれている。暮れ方のうす青い空の色が稜線の影に重なり、時々は点のような烏が、音も立てずに飛んでいる。
そんなかよわい景色を今日だけ特別に見届けたいと思ったのは、もしも僕の一生がこのままとてもつまらないもので終わってしまう前に、せめてこの日の記憶くらいは、自分自身の目にちゃんと焼き付けておこうとそう考えたからだろうか。
景色に名前がないのは、それを見る誰でもが、自由に呼びかけられるようにするためなのかもしれない。
小さな老婆が家の門口で猫を追い払っている。ガードレールに擦り付けられた黒い油染みた傷跡。子供の声は良く響く。真っ黒いセダンが道を通って、僕は自分の自転車を少し左に寄せた。わずかずつエンジン音が遠くなっていき、やがてその影は斜めに曲がってトンネルの向こうに消えた。やがてまた一段と空が暗くなる。山影はぼんやりと大きく、徐々に黒に近い色へと変わる。光が灯った。街灯の真下の地面にはかすかな白い波紋。規則正しく道なりにつづいていく。僕はその道の途中、一人でじっと、たたずんでいる。
何か、歌のようなものを思い出しかけていた。誰がうたっていたのかも、どんな歌詞だったのかも忘れたけれど、ぼうっとした感触だけがひたすら胸に入ってきた。まだ肌寒い三月の風に当たりつつ、時が経つのも関係なくその記憶を引きずり出そうとした。
この間、学校の帰りに偶然出会った――愛美、どうしてか彼女の顔が頭に浮かんだ。もしかしたらその歌に関係があるのかもしれない。
もつれそうなほど長い話を、たしかにしていたのに、愛美は、学校をやめたことも、飲食店のアルバイトをしながら夜は定時制高校に通っていることも僕に教えてくれなかった。ふたつともあとから知ったことだった。彼女はそんなことおくびにも出さず、ただ、能天気そうに笑っていた。
闇が一面に町をおおい、山の形はすっかり見えなくなった。赤い光が山上の端々で明滅していて、それを頼りに見渡すと、かすかな稜線が満ちてかかっていた。空と同じ色をしている。そうして、夕刻はこの町の誰にも気づかれずに、そっと姿を消した。
自転車のスタンドを蹴って、サドルに腰を乗せた。ひんやりと冷たかった。この頃、夜は長い。
橙色の照明が灯る美術室、冴木と会沢、二人分の喋り声しか響いていなかった。僕は彼らと離れた場所でせっせと絵の具の筆を動かしていた。課題の提出に遅れて、放課後まで残って仕上げなければならないことになった三人だった。
「道瀬、お前もこっち来いよ」
冴木が僕を呼び止めた。僕は少し戸惑いながらも、笑って首を振った。そのあと、二人が小さく愛想笑いをしたようにも見えた。
「でもさ、道瀬君ってかなり謎だよね、私生活とかさ。いつも何考えてんのかわかんないし」
会沢は、冴木にだけ聞こえるように声をひそめた。「なんか、時々すっごい深刻そうな顔してる時ない? 休み時間の時とか」
僕は聞こえないふりをしつつも、彼女が意外と細かいところまで自分を見ていたことに驚いた。深刻な顔、たしかにしていたのかもしれないけれど。
「お前狙ってんだろ、密かに」
冴木は真顔で会沢に詰め寄っていた。
「何が」
「道瀬のこと」
「バカ、そんなんじゃないよ」
会沢は冴木の肩をわりかし強めに叩いた。僕はその様子を見てかすかに笑い、それからまたひとつ筆を動かした。
「ていうかさ、俺たちだけだよな、卒業間近になってまで学校来て、残した課題マジメに取り組んでる奴。安田ちゃんとかそこらへんのグループあいつら全員1になるよ? 大丈夫なのかな」
「そーだね、まぁ授業中に終わらせとけって話だけど。……てか、道瀬君さぁ、就職だったよね、広島? だったっけ? 愛知?」
愛知だよ、と僕は答える。トヨタっつったら愛知に決まってんだろ、冴木が咎めるように言う。すごーい、都会だぁ、そう言って笑う会沢は、たしか県内の大学に進学するはずだ。冴木は大阪の短大。
就職は僕を含めて四人ほどで、僕以外の三人は全員地元で働くようだ。
ようやくのこと冴木が黙り、絵に集中し始めた頃、会沢はこっちの席まで静かに寄ってきて、興味深げに僕の絵を覗き込んだ。
「絵、上手いじゃん。なんかセンスが違うよね、あそこにいるバカとは」
何か言ったか? と冴木の声。
「何でもないっ、あたしは道瀬君と喋ってんのっ。……ねぇ、これどこの景色? 自分で想像して描いたの?」
「いや……そんなんじゃなくて、何ていうか…………昔、小さかった頃によく遊んでた、友達の家」
「へぇー、そーなんだ。庭? だよね?」
「うん」
すぐ傍にいる会沢は少し香水くさかったけれど、不快にはならなかった。やがて冴木も寄ってきて、またその場で二人とも、他愛無い話を始めた。
「そっか、道瀬はもう働くのかぁ、もう大人なんだな」
「あんたは一生子供のまんまだけどね」と、会沢は冴木をからかう。僕は就職先の企業がどういう会社なのかを二人に話した。今度は冴木が短大の話を、会沢もこれから通うことになる大学のことや、試験の時のことなどを話して聞かせた。そんな話ばかりをしていると、ふいに自分が年を取ったような、おおげさだけど、何か責任を負わされたような気になってきた。冴木も会沢もその時同じように感じていたらしく、誰か一人が黙りこくると、倦怠にも放心にも似た沈黙がその場を包んだ。ついこないだまでガキだったのにな、冴木が言うと、だからあんたはまだガキなんだって、と会沢は目も合わせず呟いた。
「俺、帰りたくなったな、少年時代に」
冴木がそう言うと会沢は反射的に、だからまだ子供なんだって、とお決まりの台詞を返す。そう言うと思った、と僕が言うと、彼女は嬉しそうに僕に笑いかけた。
「道瀬君って結構話せるのね、あたし、もっと早くから仲良くなれてたら良かったのになぁ」
それから冴木が、もし過去に戻れるとしたら何歳の頃に戻りたいか、という話をひとりでに始めた。俺間違いなく中二だな、と彼は言う。
「めちゃくちゃ楽しかったもん、あれくらいの時が。先生も良い奴だったし、オッサンだったけど」
会沢は、小学二年生の頃が良いな、と呟く。当時近所の大学に通っていた親戚のお姉さんが居候していて、料理やあやとりなど、女の子らしいことを色々と教えてもらったのだという。
「道瀬は?」
そう訊かれて、咄嗟に、小一の時かなぁ、と答えた。嘘はついていないと思う、きっと。
すると、色んな記憶が一気に僕の中になだれ込んできて、気が付くとまたぼーっとしていた。それ以上何も語らない僕に、会沢は、いいじゃん、誰でも心に閉まっておきたい思い出なんてあるもんだしね、と優しく言ってくれた。何を示すでもなく、僕は小さく頷き、また筆を動かす。
「あ、ひとつ訊いていい?」会沢はあわてたように僕の肩をぽんぽんと叩いた。
振り返った僕に、その絵って、もしかしてさっき戻りたいって言ってた、小一の頃と関係あるの? と問う。
少し考えたあと、僕は頷いた。
「うん、そっか、ありがと」
そう言って、彼女はようやく自分の席に戻り、まだ下絵段階である課題に取り組み始めた。
僕はもう一度、自分の描いたちっぽけな庭の絵を眺めてみた。
目を瞑らなくたって、今絵に描いているこの景色が脳裏に浮かんでくるのはすぐだ。最近、特に。曲がりなりにも自分が、子供、という枠から外れてこれから生きていかなければならないと自覚した頃から、ずっと。なぜだか、愛美の家のこの庭の景色ばかりがこびりついて、僕の下から離れないでいる。
細長い庭で、奥にさくらんぼの木が植わってあった。たくさんの花がわきに並んでいて、それらはレンガで丁寧に仕切られていた。横には車庫があって、彼女の父と母が共用で使っているという白い自動車が休日にはたいてい止まっていた。色だって鮮やかにイメージできる。僕の目の前にいた彼女の小さな背丈も、太陽の淡い光も。
チーズ。
それが、この子の名前なの。
ずっと幼かったあの頃の愛美の声さえ、そんなふうにはっきりと憶えている。思えば思うほど、だ。
数日後の土曜日、僕は愛美の家を訪ねた。卒業間近のため登校日も最近はめっきり減っていたから、別にいつでも行けたのだけど、訊ねたところで誰も家人がいないとなると困る、そんなことも考えてのことだった。なるべく平静を装うように気持ちを作ってから、チャイムを押した。
ドアを開けた人は髪の茶色い若い女で、どうにも見憶えのない顔つきをしていた。僕もその人も状況がよくわかってないで、お互いに顔を見合わせたまま、しばらく沈黙してしまった。
「田岡愛美……それってさ、ひょっとして、前に住んでた方の名前じゃないかなぁ。たしか、田岡さんだったと思う」
僕が愛美の名前を出すと、彼女は疑い深そうに首を傾げつつ、そう答えた。
「今はあたししか住んでないんだけど」
数年前にこの家を売ってもらい、今は彼女一人で住んでいるのだという。その後の田岡家の行方については知らないようだった。ごめんね、と彼女はたいして気持ちのこもってない風に言った。
「あ、いいんです。そういうことじゃなくて、あの、捜し物があって」
「はい?」
「この庭に、あるはずなんですけど」
僕は事情も何も説明せずに、庭を見て回ってもいいですか、と彼女に訊ねた。
「捜し物って? それは田岡さんに関係してるもの?」
僕がその質問に答えあぐねていると、いいですよ、と彼女はあっさり許可してくれた。
「なんだか面白そうだし。ただし、見つかったらあたしに一言報告してね。一時間くらいなら、たぶんあたし家でごろごろしてるから」
「はい。……あ、あと、土とか掘っちゃってかまいません?」
あはは、いいよ、全然OK、そう言って彼女は家に引っ込んだ。その直後、
「あ、スコップなら花壇にあるから、それ勝手に使っていいよっ」閉じられた玄関口の扉越しに声が聴こえた。
それから僕はその狭い庭を歩き回り、手当たり次第にチーズの欠片を捜した。地面を這いずるように見た。家壁についた染みにだって、もしかしたらいるかもしれないと思って、目を凝らした。
スコップを使って、土を掘ったりもした。小さなハサミムシが一匹、日の光を浴びてあわてたように這い出してきた。それがおかしくて僕は小さく笑った。目の前に縁側があって、窓もカーテンも閉め切られていたが、テレビの音と彼女の笑い声だけはここまで届いていた。
「チーズにあわせてあげるね」
愛美は下駄箱から靴を取り出して、窮屈そうに足を捩りながらそれを履いた。
「やだよ、今日は硬筆の塾があるから」
僕がそう言っても、休めばいいじゃんっ、と口を尖らせて、ひとつも譲らない。
「のぞむ、なふだつけないの?」
首を傾げる愛美。僕は「だって、ださいじゃん」と一言呟く。ダメだよ、ルールなんだから、先生に怒られるよ? そう咎める愛美の胸にはピンク色で縁取られた名札。木漏れ日に反射していた。「一年二組 十四番 たおかあいみ」。
帰り道ではいつも愛美が僕の前を歩く。ゆっくりと歩くくせに、僕が抜かそうとするとたちまち怒るので、仕方なくいつもうしろにいる。そんなものだから、いつだって愛美の赤いランドセルばかりが目についた。光で白く濁ると、ランドセルの背についた小さな皺はいくつも目立った。もっときれいにした方がいいな、と僕は思っていた。車の走る風切りの音、この道端まで届く。
保育園が一緒だった頃は、特別愛美とだけ遊んだりすることはなかった。いつのまにか彼女が傍にいたのは、小学校に入学し、同じクラスになってからだった。お互いに引っ込み思案で、友達もすぐに作れなかった者同士、自然に引き寄せられたのかもしれない。周りのみんなは、男子同士、女子同士のグループだけで楽しそうに遊んでいたから、僕らだけがきっと浮いていた。だけどその頃は――少なくとも二年生になるまでは、そんなことを考える暇さえなく、ただ目の前にいる愛美が友達として必要で、何の疑いもなく一緒にいた。
愛美の家にも時々遊びに行った。どこにでもある二階建ての一軒屋、屋根瓦は灰色。リビングには大抵彼女の母親がいて、気さくそうに微笑みながら迎えてくれた。人の家に入る時には、おじゃまします、と言わなければならないことを、僕はこの家で初めて知ったのだと思う。彼女のお母さんはよくお菓子を出してくれて、それはとても嬉しかったけれど、食べ切れなくなったのを無理やり持って帰らせようとするのが少しうっとうしかった。
「パートに行ってくるからね、望君と仲良くね」
愛美にそう呼びかけてから、ぱたぱたとあわただしく家を出て行く日がたまにあった。僕はパートという言葉の意味がわからずにいたが、愛美に訊ねたらまた何か嫌な顔をされそうな気がしたから、臆病にもそのまま黙っておいた。特に知りたいとも思わなかった。愛美と二人きりになると、いっそう部屋が静かになった。
それに、愛美の家で遊ぶのはあまり面白くなかった。女の子が遊ぶ玩具しかなかったから、どうやって遊べばいいのかすらわからなかった。リカちゃん人形、アニメキャラが使う、ピンク色で尖端に王冠みたいなのがついたステッキ、たくさんの絵本。僕はいつも自分のゲームボーイを持ってきて、彼女の部屋で遊んでいた。愛美はその小さな画面を、僕の傍に横座りして熱心に眺めていた。そういう時――愛美の体が間近にある時、僕の体は少しだけ緊張して、ぴいんと背筋が張るような心地がした。日が経つにつれ、だんだん、そういう感覚にも慣れていった。
一番よく憶えているのは、おはじき遊びかもしれない。愛美はおはじきがとても好きで、図画工作の授業で作った紙粘土にもおはじきを飾り付けていた。先生の目を盗んでこっそり持参してきたそれを半乾きの紙粘土にくっつけて、ばれたあとは少しだけ叱られていた。
原色の帯がかかった平べったいおはじき。リビングの机の上にばらけて置いて、はじいて飛ばす。最初は二つはじき、そのはじいた二つの間に三つ目のおはじきが入ると、三つとも自分のものになる。いつも勝つのは愛美だったから、そのたびに僕は悔しい思いをして、時には泣いてしまうことさえあった。声を押し殺して息だけをふうふう立てながら涙をこらえる僕、心配そうに見つめていた愛美。
そんな時、チーズが見てるよ、と愛美が言うと、途端に頭が冴え、涙が止まる。チーズなんていない、と僕はおもわず毒づく。すると彼女は、
「いるよぉ。今日だって、のぞむが帰ったらいっぱいおはなしするんだから」
「うそだ、だって一回も見たことないもん」
のぞむには見せたくないの、諭すように咎めるように言い、もうそれ以上チーズについて話そうとしなかった。
チーズには形がない。チーズはどこにも行かない。チーズの声は誰にも聴こえない。どれも愛美が言ったことだ。
じゃあ、チーズは透明人間なの? 僕が訊ねると、違うの、と小さな声で答えた。でも、チーズはとっても寒がり。だから、秋と冬はちっちゃな毛布をかけてあげるの。
こうして愛美の家に訪れるのは週に一度くらいのものだったが、遊びに行く、というよりはむしろ義務に近いものがあった。
秋口のある日、彼女の家を訪れると、庭の花壇の一角に、あたたかそうなピンク色の毛布が敷かれていたことがあった。愛美が一人で敷いたものだった。
「あそこにチーズがいるの?」
「うん。今はたぶん寝てるけど」
その日は遠足でみかん狩りをしてきた帰りだった。愛美はビニール袋に入ったみかんのひとつをチーズの下に持って行き、ことんと傍に置いた。お供え物みたいに見えた。
「チーズにあわせてあげるね」
初めてチーズの姿を見たのは、終業式も近い冬の日だった。凍て付くような寒さ、愛美は白いコートを着ていた。
いつものように彼女の母がパートに出掛けたあと、二人でこっそり庭に行き、毛布の傍まで来てしゃがんだ。いい? と愛美は言った。早くしろよ、とせかす僕に、
「しーっ、そんなふうに言っちゃだめ。怖がるから」
小さな声でささやき、口元に人差し指を立てた。
電線の上で雀が啼いた。愛美がゆっくりと毛布を剥ぎ取り、そこに晒された花壇の土をスコップでほんの浅く掬うと、土の中から、四角いプラスチックの箱が出てきた。
「チーズ」
愛美はその箱に息を吹きかけるようにささやいて、ゆっくり蓋を開けた。中には、小さな写真がひとつきり入っていた。この家の玄関口で撮られたものだろうか、よく晴れて、木の葉の緑がくっきりと鮮やかだ。
「家族みんなで写ってるのはこれだけだから。死んだお兄ちゃんも、ほら、ここにいるでしょ」
指でその写真をほんの少し撫でて、もう一度、チーズ、と呼びかける。
「あたしのお友達。みちせのぞむくん、っていうの」
僕の方を振り返り、前に話したことあるから知ってるんだって、と彼女は言う。
「のぞむも、なにかおはなししてあげて」
僕はその写真にさわろうとして、そっと指を近づけた。瞬間、きゃっと叫んで愛美は僕の体を突き飛ばした。
「だめ。チーズにさわっていいのはあたしだけ……」
その時の彼女の目を、今でもはっきりと憶えている。
縁側の窓がふいに開いて、部屋の中から彼女の顔が覗いた。
「ねー、まだ終わんないの」
「ごめんなさい、見つかんないんです」
僕の言い方は、もしかして悪びれたそぶりに見えなかったかもしれない。
「ううん、別に怒ってるわけじゃないのよ。あのさ……まぁ、ちょっとここ座りな」
彼女は扉ほどの大きさのあるその窓を、僕のためにか、もうひとつ分開けてくれた。僕は、失礼します、とその縁側に腰を掛けた。
彼女は僕の名を訊ねた。道瀬望、っていいます、ほとんど他人のような響きに聞こえるけれど、一応そう答えた。
「みちせくん、ってさ、学生さん? だよね?」
「一応そうですけど……もう学校もほとんど通ってないんですよね、あの、高三で、就職先も決まって、最近はもう、自主登校的な感じで」
「へー、そっかぁ。そういえばあたしもそんな時期あったな。今の時期、二月くらいにはね、自分でアパート見つけて、一人暮らししてたのかなぁ、確か」
今度は僕が相槌を打つ番だった。
「あ、あたし? 常盤美奈って言います。トンネル抜けたとこの喫茶店で働いてるの」
そう言って、店の名前を挙げた。僕も知っているところだった。
常盤美奈さんはそれから僕にあたたかい紅茶を出した。僕の手が土に汚れていたのを笑い、濡らしたタオルもついでに持ってきてくれた。
「どう、見つかりそうな気配あんの?」
僕は首を振って紅茶を啜った。外寒いね、と常盤さんは呟いた。
「なんだかすごく気になるな、君が捜してるもの。ホント、気になる」
「つまんないもんですよ」
「ね、ヒントだけでいいから教えて。そしたらお礼に何かお菓子でもあげるから」
そう言って小さく笑いかけた。
「別にお礼はいらないですけど……なんていうか、その、前にここに住んでた田岡愛美さんとは、小学校の低学年頃までずっと一緒に遊んでて。あ、同級生だったんですね、僕ら」
「うん」
「で、まあ、その時の思い出みたいなものなんです。たぶん、見つからずじまいだろうけど。僕、もうじきこの土地を出て行くんですけど、うん、なんだろうな……とりあえず、見つからなくてもいいから、飽きるまでそれを捜したいんです。そんで、心の中のもやもやを払拭してから、ここを出て行きたいんです」
「うん」
「ずっと小さな頃のことですから……記憶……」
沈黙が自然と訪れた。常盤さんは首を傾げたあと、もういいよ、ありがと、と。
「思い出かぁ、そっか」
「はい」
「誰にでも、そういうのってあるからね。人って、生きつづける限り」
さっきまで雲がかかっていた空の隙間から、ふいに光が射した。
「まだ若いのに、もううしろ振り返ったりできるんだね。あたしが君ぐらいの時は、とりあえず親から離れて自由になりたいってことしか考えてなかったし」
「違うんですよ。ただ、自分の記憶に残っている空気みたいなのが、名残惜しいだけで」
空は徐々に晴れ渡る。
「あの、常盤さん」
「ん、なに?」
「家族全員の集合写真とかって、持ってます?」
「集合写真? 集合写真かぁ……え、それってあれなの? みんなが真っ正面に向いて撮ったやつ? 華麗なる一族みたいに」
「そうそう」
「そんな写真は……ないかなぁ。あんまり今の家庭ってそんなことしないのかな。まあ、うちはお父さんと超仲悪かったし、集合写真なんてたいそうなこと、する気にならなかったのかも」
「ですよね、あんまそういう機会ないですよね」
「そーね……」
十分くらいで着替えをすませて再び居間に出てきた常盤さんは、買い物行くから二時間くらい家開けるんだけど、と言った。ごめん、ここ閉めるね。
「僕、まだいてもいいんでしょうか」
「いいよォ、ぜーんぜん。庭でうろうろしてるだけでしょ。守衛がわりにもなるし」
自分の言葉にけたけたと笑い、常盤さんはその足でバス停まで歩いていった。
二年生になると、自分にもようやく男の友達が出来始めた。昼休みにはドッジボールをして遊ぶようになった。僕は球をよけるのがうまかったから、すぐにみんなから取り合ってもらえるようになった。
「ねぇのぞむ、今日うちに遊びに来てよ。チーズもきっとあいたがってるよ」
「むり。今日はかずきたちと遊ぶから」
何して遊ぶの? と訊いてきたから、僕は得意げに、ひみつ基地作るんだ、と言った。彼女はくすくすと笑っていた。二人で一緒に帰り道を歩く習慣は、まだつづいていた。
和樹、一成、太一、良太郎、健吾。日によって微妙に違っていたが、たいてい放課後はその面子と遊んだ。三角ベース、魚釣り、鬼ごっこ、近所の小山に登ったりもしたし、テレビゲームもした、夏には蝉取りもした。どれもみんな楽しかった。冬でも汗をかくような日さえあった。
のぞむ! と呼ぶ声がした時は、彼らが遊びに誘ってくれる時だ。その乱暴な声も、たまに起こる喧嘩にも、僕はすぐに慣れた。
愛美は一年生の頃と変わらず、クラスの隅っこで静かに過ごしていた。僕が取り合わない分、いっそう寂しげに見えた。別に何とも思わない。愛美は、放課後になるといつも「うちに遊びに来て」と僕にねだったが、それさえ断りつづけているうちに、いつの日からか一切誘われなくなった。それでもチーズのことだけは、時折、嬉しそうに話すことがあった。
「やっとチーズのお風邪がなおったの。せきもしなくなったし」
僕は黙ったままで、相槌を打ったり打たなかったりしながら同じ帰路を歩いた。愛美がもっと早く歩いてくれれば、その分和樹たちと遊ぶ時間が増えるのに、そんなことばかりを考えて、彼女の話は一向に聞いていなかった。
彼女と一緒にいるのが恥ずかしくなってきたのも、この頃だった。
和樹たちはことあるごとに、僕と愛美が二人でいるのをからかい、時には馬鹿にした。足が速いわりに球技が苦手なことを、女なんかと遊んでたせいだ、と根拠もなく決め付けられた。彼らは愛美のことを名前で呼ばず、ただ、女と呼んだ。どうせあいつのこと好きなんだろ? と、僕の真ん前に顔を突き出して言われたこともある。その太一の顔があまりにも無知で憎たらしく思えて、おもわず殴ってしまった。太一は小さかったので、喧嘩が始まってもずっと僕が優勢だった。その様子を盗み見ていた愛美が担任の先生に報告して、僕と太一はその日の放課後に叱られた。
「ただいま、チーズ。今日はのぞむが来てくれたよ」
箱の中から写真を取り出し、愛美はささやく。いつものように、写真のはしっこをそっと撫でていた。水のようにふくれたその指先が、かすかに震えていた。
「今日は算数のじゅぎょうだったよ。先生がね、細長い水槽と、四角くて横に長い水槽を持ってきて、水がたくさん入るのはどっちでしょうって言うの。それでね、みんな細長い方の水槽を選ぶでしょ、そっちの方が長いから。でも、あたしと、あと三人だけは四角いのを選んだの。そしたらやっぱり、四角い水槽の方がたくさん水が入ったの。すごいでしょ? あたし。ねぇ、どうしてかわかる?……」
学校から帰ってくるたびに、彼女はチーズに一日の出来事を語りかける。腰をかがめたまま、写真を両の手で持って、じっと見つめながら言葉をかける。何もすることがない僕は、花壇のわきに生えた緑のクローバーをちぎっては、指ですりつぶしていた。
「あとね、昼休みは果歩ちゃんたちと一輪車で遊んだの。あたし、毎日練習してちょっとずつじょうずになってるから、もうこけたりしないよ。今度チーズにも見せてあげる。今度の誕生日に一輪車買ってもらうの、もう、ママとパパにやくそくしたもん」
彼女はたまに嘘をついた。休み時間は誰とも遊ばず、一人で絵本を読んでいることを、僕は知っていた。
鋭い日光が反射して、写真に写る家族の顔がみんな白くぼやけた。愛美は自分の手に持ったそれをうまく傾けて光をよけながら、また語りかける。
「チーズね、あたしがしあわせに生きてくれるのがうれしいんだって、おとなみたいなこというの」
六月は流れるように過ぎ、いつしか陽炎が路上に舞う夏になった。みんな、暑さにもかまわず外で遊んだ。町に流れる水路で一匹のザリガニを捕まえ、じゃんけんに勝った僕が家に持って帰ることになった。帰ったあと、母親に手伝ってもらいながら水槽に入れた。少量のシーチキンを小皿に乗せて餌にした。一晩経った朝、中を覗いてみると、淡いピンク色に変色して死んでいた。
その日、僕はチーズのことを友達に言いふらした。ザリガニの話題をさけて、死んだことを隠すためだった。
「写真にいつも話しかけてんだ。チーズ、チーズって」
面白がらせようと、わざと愛美の声色を真似てみせた。彼らは興味を持って僕の話を聞いていた。
「きもちわりー、ゆうれいじゃねえの、それ。心霊写真?」
「ちがう、ふつうの写真」
今度行ってたしかめてみようぜ、良太郎が言った。あの女の家、知ってんだろ?
「やだよ」
「はァ? じゃあもうおれんちのプレステやるの禁止だからな」
そう言われると咄嗟に閉口してしまった。断ることは出来そうになかった。
数日後、突然大勢の客を出迎えることになった愛美だが、思ったよりも不機嫌そうな様子を見せなかった。彼らはどかどかと家に上がり、大きな声で口々に「おじゃましまーす」と言った。
おはじき遊びを彼女に教えてもらい、一時間ほどみんなはそれに興じた。愛美も楽しそうに笑っていた。彼女のそんな顔を見たのは初めてだった。やっぱり彼女が一番上手で、たくさんのおはじきを取っていった。僕はなぜか初めて遊ぶみんなよりも取れなくて、結局びりになった。
愛美にこんなたくさんのお友達がいたなんてね、と部屋を覗きにきた彼女の母も喜んで、いつもよりたくさんお菓子を運んできてくれた。それからいつものように「愛美、パートに行って来るからね、みんなにまた来てねって言っといてね」と言い残して家を出た。
「のぞむ」一成が僕の耳元でささやいた。「チーズってやつ、そろそろ見に行こう」
みんなは一成の言ったことを悟り、続々と立ち上がって玄関に歩いていった。僕は、コンビニに行って来るから、待ってて、と彼女に言った。彼女はまばたきもせずにこっちを見ていたが、ついてこようとはせず、ただへたりと床に座り込んだままでいた。
愛美を残してみんなは庭に出た。いつもどおりの彼女の家の庭だったけれど、ちっとも心は落ち着かなかった。
「なんだ、何にもないじゃん」
一成が反射的に、吐き捨てるように言う。
ちがう、と僕は首を振り、花壇の隅を指差した。土の中にあるんだ。
一成と太一が手で土をかき出すと、すぐにプラスチックの箱は見つかった。良太郎は乱暴に取り上げて、そのまま蓋をこじ開けた。
「うわ、マジだ」
写真をぴいんと指で広げて持って、そう言った。良太郎はそれから写真をみんなに見せた。みんな、声を押し殺して笑い合っていた。そんなにおかしいのかな、と僕は思った。チーズ、チーズ、と健吾が女声で呼びかけると、みんながその真似をした。
「呼んでも返事しないよ」と僕は言った。「チーズはあいみにしか話さないから」
「なに言ってんの、おまえ、ばっかじゃないの」
和樹は喉をひくつかせ、甲高い声で笑った。写真は手に手に移り、いつのまにかしわくちゃになっていた。汗が付いたせいで黒く汚れもして、どうしようとも元の通りにならなかった。結局、どこかに隠そうということになった。
良太郎は口元をにやつかせながら、写真を細かくちぎっていった。あっというまにばらばらになった。僕の手の平に、そのちぎれた写真の欠片を押し付けた。いらねぇよ、と言ったが聞かなかった。僕はそれを指でつまみ、ぱらぱらと羽根のように自分の手の平へ落とした。
目の前に愛美が立っていた。
やべー、と和樹が呟いた。
それが合図だったかのように、彼らは一斉に庭を飛び出た。良太郎は僕の腕をはたき、手の平に乗せていた写真の欠片を地面に落とした。
「チーズなの? それ」
陽炎の上澄みに響く彼女の声。「ねぇ」と、もう一度問いかけて僕の顔をじっと覗く。
僕は何も言わずうしろに向き直り、みんなが走った方向へ駆けて行った。けして目は合わせなかった。
あっ、と僕はおもわず小さな声を出した。思い出したからだ。――チーズはこの庭になんか埋まっていない、と。最後の欠片は、あの日の僕自身の手で捨ててしまっていた。
コツコツとヒールが地面を踏む音は近づいてきて、見上げると、玄関先に立っている常盤さんと目が合った。
「うそ、あんたまだいたの? もうお昼過ぎだよ」
庭先に駆けてきた彼女は、呆れたような様子で僕を見下ろした。常盤さんが家を出るのを見送って、あれから一時間くらいは経っていたようだった。
「四葉のクローバー見つけましたよ、ほら」
常盤さんは小さく吹き出して「もういいから、上がりなよ」と言う。僕がしつこく拒んでいると、そのうちに通り雨が町を撫で付け始めた。
「ほらね、観念しなさい」
一瞬だけ、晴れ間と切り替わる瞬間の雨雲が見えた。
「こんなものしかないけど、ないよりマシでしょ」
と、冷凍のグラタンをレンジで温めて出してくれた。
「ないよりマシって、なんか犬みたいな言い方ですね」
「あはは、そんなこと考えなくて良いのっ」
丸いガラス製のテーブルの上にそれをことんと置いて、常盤さんは何か一言呟いたが聞き取れなかった。画面にうすい埃のかかったテレビ、銀色のDVDデッキ、漫画本ばかり詰まった本棚。読みかけのコミックスや旅行雑誌や、誰かからもらってそのままにしているお土産のお菓子などが、床のそこかしこに雑然と放置されてあった。そのせいなのかどうかわからないが、部屋の中は僕が遊びに来ていた頃よりもずっと小さく、窮屈になってしまったように思えた。常盤さんは部屋の隅のどこかから花柄の座布団を引っ張り出してきて僕の傍に置いた。机上の灰皿には縮れた煙草がいくつも捨てられていた。
何もすることがないとでも言うように、常盤さんは目の前のリモコンを取ってそそくさとテレビを付けた。SFもののハリウッド映画だった。
「え、ウィル・スミスってこんな声なんだ」と一人で驚き、笑っていた。それから僕と僕の食べているグラタンを交互に見つめて、
「これくらいで大丈夫? 足りないんじゃない?」
「あ、全然です。僕、基本少食なんで」
「昨日の残りならあるけど」
「あ、食べます」
どっちよ、とおもわず笑う彼女。やまない雨はぴしりぴしり、静かに路上を打っていた。
しばらく、昨日の残りのおかずやお菓子を食べながら、毎年同じようなのが作られていそうなその映画を、常盤さんと鑑賞していた。
「あ!」と彼女は突然声を上げた。「この映画観たことある! しかも映画館で!」
「……この新聞には2005年公開って書いてますね」
「たぶんあれだ、あの……当時付き合ってた彼氏さんとだ。あー、思い出したらすっきりした。なんかずっともやもやしてたんだァ」
良かったですね、と僕は言い、ついでにポテトチップスを二個つづけて頬張った。そのまま画面を眺めつつぼうっとしていると、
また懲りずに、フラッシュバックだ。
愛美がチーズに話しかけているその姿。その風景。
狭い庭、レンガで囲われた小さな花壇、赤と黄色のしなびた花。愛美はその傍に腰をかがめたあと、窮屈そうに一、二回身をよじる。スカートのはしがかすかに揺れる。写真を持つふたつの手は日の光を浴びて白い。植わった庭中の緑と、ハンカチのように光って彼女の下にかかる黄色い陽光。ただいま、チーズ。口元には影が射していて、ここからではよく見えない。だけど、声は聞こえる。チーズ、今日はね……。チーズ、あたしね……。
「ねェ、少食君」
「道瀬です。そろそろ憶えてください」
「はは、だってあたし忘れっぽいんだもん。さっきの映画のことも忘れてたし、その彼との思い出も、色々……辛いことも楽しいことも、すぐ忘れる」
僕は黙って首を傾げた。
「それっていいことなのかなぁ? 道瀬君はどう?」
「うーん……記憶力はないけど、執着心ならありますよ。でなきゃこんなことしてません」
「そーだね、どうせ、晴れてきたらまた土いじくるんでしょ」
僕はしばらく考えたあと、もう良いです、と呟いた。
「もう、十分に思い出せたから。……あとひと息、記憶を掘り出したら、即退散します」
「えー」いくらでもいていいのに、常盤さんは大きな瞳を僕の方に凝らす。
あとひと息、思い出しさえすれば。
無我夢中で走っているうち、いつのまにかみんなと共に良太郎の家へ駆け込んでいた。みんなは一斉に玄関になだれ込み、大きな息をついた。
本当は誰が悪かったのかと思い返してみたけれど、それが自分自身だとは考えもしなかった。右手には破れた写真の欠片がひとつ、指の間に挟まっていた。僕はどうしようもなくなって、それをトイレに流して捨てた。
愛美とはひとつも口を利かなくなった。放課になると愛美は学校から逃げるように走り去っていき、残された僕は和樹たちと寄り道しながら帰った。誰も、チーズのことは口にしなかった。忘れたいのでもなく、きっとどうでもいいんだろう。
そんなふうにして当たり前のように時間は過ぎていった。汗だくの夏も、手がかじかむ冬も、夕日が沈むまで遊んで、帰り道は街灯を頼りに自転車を漕ぎ進んだ。雲がちぎれて水のように消えてなくなる頃、そんな瞬間を見る余裕もなく、ただ自分の帰るべき家を目指して自転車を走らせた。学校で見る愛美は、いつの日もずっと一人だった。三年生になるとクラス替えがあり、仲直りも出来ないまま彼女とは別々のクラスになった。
五年生になるとランドセルで通うのが嫌になって、母親にねだりリュックを買ってもらった。クラスでそんな格好をしてる男子は、僕を含めて三人くらいしかいなかった。
「じゃあな、望」
良太郎もその一人だった。今日は塾があるから、と言って、学校まで親に車で来てもらっていた。僕は良太郎に向かって軽く手を振った。車が校門を出たあと、僕は歩き出した。
長い坂道を下って国道に出たところで、誰かに呼び止められた。
「望」
振り返ると、愛美がうしろを歩いていた。工事現場の金網を五本の指でなぞりながら、立ち止まっている僕の方に寄ってきた。
「久しぶりっ。背、伸びたんだね」
そう言う彼女の方が、もう僕の身長を追い越していた。顔も昔より幾分か大人びて、髪だって長くなっていた。
彼女はまるでチーズに聞かせる時のそれのように、僕に色んな話をした。地元の有名な私立高校に受験するために塾に通っていること、半年で四センチも身長が伸びたこと、最近友達の影響で少年漫画を読み始めたこと。
「あたしね、ママを悲しませたくないから土佐女子に行くって言ったんだけど、ほんとはいやなの」
「どうして」
「だって、あたし勉強より、絵を描いている時の方が好きだから。……あたし、望と一緒のクラスだった時、休み時間にいつも一人で絵を描いてたでしょ?」
そういえば、と思う。絵本も読んでいたけれど、それと同じくらい絵も描いていた。デッサンのような、輪郭のはっきりしない絵だった。
「あたしね、画家になりたいってずっと思ってたの」
画家ってわかる? 絵を描いてお金を貰う人、と愛美はそこだけ小さな声で言った。
僕たちは小山の裏道を伝っていきながら、何の気兼ねもなしに話しつづけていた。
「望、変わんないね」
梢の影は僕たちの顔に網目を縫って、浅くかかった。太陽が雲間に消えかけていた。
「何にも変わってない」
愛美は大人びたしぐさで髪をかき上げる。うす暗い山道の影が、揺れるように少しだけ震えた。
「それで良いって、ほんとにそう思ってるの? 望、また誰かの言いなりになってない?」
ひどく心配したような顔をしながら、そう言った。
喉下から怒りが湧いてきて、気付けば彼女の体を蹴り飛ばしていた。そうして僕は立ったまま、愛美を蔑むように見下ろした。愛美は立とうともせず、膝を折り曲げたまま、ただこっちをじっと見据えていた。
「チーズのことはぜったいに忘れないから。あたしは、チーズのことをいつまでも憶えてなきゃいけないの、そうしないと、チーズが誰からも忘れられちゃうから」
木陰は愛美の顔をおおい隠す。午後の曇り空、草を踏み付ける湿った音。
「俺はもう忘れたよ、そんな写真なんか」
「別に。あたしは忘れないから。チーズの恨みも、悲しみも、ぜんぶ」
しりもちをついたまま顔をうつむけている彼女を置いて、僕は早足でそこから逃げた。
「あ、上がった」
雲が引いて行く、空が見る間に明るくなる。
「ほんとだ、ちょうどいいタイミングですね。映画も終わったし」
僕はダウンジャケットを着て、帰ります、と一言。常盤さんはぱたりと立ち上がって、頷いた。
「じゃあねー。愛知へ行っても頑張れよ、少年」
「名前はもう忘れたんでしょ」と僕が言うと、
「んなわけないじゃん、ね、道瀬君」と得意気に。
玄関の戸を閉めると、雨上がり特有のなまぬるい風が体に迫った。庭先には一度も見たことのない明るい色の花が一輪、ひっそりと咲いている。膝をかがめて、それに目を凝らした。
「それ、珍しいでしょ?」真後ろから急に常盤さんの声が響いたから、おもわず「うわっ」と声を上げてしまい、笑われた。
「びっくりした、いたんならそう言えばいいのに」
「ごめんごめん。あ、すごい、雨上がりってきれいね」
「そうですね。光が反射して」
常盤さんは携帯電話を取り出してその場にしゃがみ、レンズを花の方に向けた。
「はい、チーズ」シャッターが切られる音。「特別きれいね、今日のよしもとさん」
「よしもとさ……花の名前?」
「うん」
僕はおかしくなり、声を押し殺して笑った。
「なによォ、言っとくけどこの名前いわくつきなんだから、詳しいことは聞かないでね」
淡い色した常盤さんの髪にも、透き通った光がかぶさっていた。
今度こそ彼女にさよならを言い、その家を出た。
水たまりに映る透明の空。いつかどこかで、あの道の上を渡る。
中学に入ると、とうとう愛美の陰はどこにも見当たらなくなった。もっとも、彼女の存在なんてその前から忘れていた。高校は隣町の普通校に通った。誰の障害にもならず、安穏に暮らしているつもりでいた。来年の四月から、就職先の愛知県へ出て行く。何を期待しているでもなく、かといって一刻も早くこの町を去りたいわけでもない。
街明かりにうすく照らされた道を辿るだけで、いつでもどんな時でも、僕はひとまず自分の家に帰り着くことができた。その景色が見えなくなることが怖いのでもない。記憶がうすれていくのはたしかに悲しいことなのかもしれないけれど、慣れてしまえば、という言葉で片付けるのともどこか違う。
ただ、心残り、という面倒で生臭い感覚を、自分でもどう処理していいのかわからなくて、そのせいでちょっと混乱しているだけだ。
もう少し器用に生きれたらなぁ。きれいに生きるでもなく、素直に生きるでもなく。
町の景色でさえ、今もたしかに動いている。
この間、愛美に会った時の話。
僕が自転車を漕いで家路に戻っていた午後四時半頃、並走してこようとする自転車のチェーン特有の空回りの音が傍で響いて、誰かいるなと思い右を向くと、一人の女がそこにいて僕に笑いかけてきた。
「望っ、道瀬望でしょ?」
顔を見合わせた瞬間、
「やっぱり!」
と、跳ねるような語調。そうしてゆっくりと表情を崩した。その声でやっと愛美だとわかった。
僕はぽかんとした心持のまま、何も言えずにいた。
「就職すんだって? ママから聞いたよ。すごいね、だってトヨタってアレでしょ? 自動車のトヨタでしょ?」
「そうだよ、学園生だけど」
「すごいじゃん、望。しかも、なんかさ、久しぶりに見たら、すっごく頭良さそーに見えるよ、あはは」
調子外れの笑い声を上げ、戸惑う僕に次々と話を振ってきた。なんだか愛美じゃないみたいだった。
「愛美は? 大学行くんだろ、どうせ」
「どうせって何よそれ、失礼な言い方ァ」
「別にそんなこと思ってないよ」
僕があわてて弁解すると、あー、その言い方望っぽい、と嬉しそうに笑った。
「あんた、一年生の頃は基本あたしとしか遊んでなかったからなのよ。男言葉、似合わないよ」
「そうかな……」
「ホラぁ! それそれ、その感じ! なつかしー」
学校楽しい? 大学行くの? 彼女いるの? 次々と訊かれたけれど、そのどれも曖昧にしか答えられなかった。それでも愛美はなぜかにこにこしていた。やがて、思い出話ばかりが残った。
息つく暇もなく過去の記憶を喋り合っていた僕らは、海が見える場所まで来るとどちらともなく自転車を止め、ゆっくりと堤防まで歩いていった。浦戸の海は雲の下で、濁った深い灰色をたたえていた。愛美が前を歩く。僕はなんとなしにうしろをついて行く。
下の道路を車が走る音。あわただしく、不規則に、風を巻き込んで何台も。
「望、向こうに橋が見える。あのふちが黄色いの」
海に浮かぶ離れ小島のその奥に、細くかかっていた。
波の音がかすかに聴こえる。それでも、コンクリートの地面を踏みしめている僕らの足音の方が大きい。小さな海の傍での沈黙の中、周りの風景に流されながら、一歩ずつ歩いていった。
「チーズのこと」愛美がふいに僕の方を振り返った。「憶えてる?」
「うん、憶えてるよ」
ためらいもなく、自然とその言葉が出てきた。――憶えている。
流れるように沈黙は訪れ、風が枝葉を切る音だけがここに沈んでいた。ぎこちなくて、どこかおかしくて、だけど何もできなくて、僕は思い出すことなどを頭の中に浮かべながらそっと海の方を見ていた。愛美も同じようにしていた。長い時間が経過していたことすら、もう忘れていた。
愛美は静かに話し始めた。
「あたしね、望たちがちぎってばらばらにした写真、あのあと自分の部屋に持って帰って、なんとか元に戻そうとしたの」
波は風のせいだけで静かに流れている。
「パズルみたいに、欠片同士をくっつけて」
二人とも、そこに立ち止まっていた。
「でね、一晩中復旧作業つづけて、セロハンテープでくっつけて、そんなことしてたらいつのまにか寝ちゃってて、でもそれでも、起きてすぐに作業再開して、そしたら、なんとか元の通りになったの」
「うん」
「でもね、なぜか……こんぐらい」と、親指と人差し指で小さな空間を示した。「ほんのちょこっとだけピースが足りないのね。庭を捜しても見つからないし。風で飛んでっちゃったのかな……」
僕は、そっか、と呟き、自分が捨てたその一ピースにどんな景色が写っていたのかを回想した。
「結局、燃やしちゃったの、チーズ。だって、いくら待ったって何にも言ってくれないんだもん」
――でもね、いつかは自分の手で捨てないといけないんだって、今なら思える。その時は、ほんとにすごく泣いたんだけどね。
堤防に沿って設置された貧相な階段を下りて、岸辺にまで辿り着いた。大きな流木が足にぶつかった。一艘の壊れた船が乗り上げていた。磯の香りがそこにただよっていた。
「写真、撮ろ」
愛美はふいに僕の体へ肩を預け、携帯のカメラをこっちに向けてシャッターを押した。
そしてすぐに画面を見せて、ほら、きれいに撮れてる、と。
首を傾げて黙っている僕に、あ、あたし、きれいな景色があったら誰かと写真撮るのがクセだから、と笑い、そうして恥ずかしそうに顔をうつむける彼女の姿が、どこか誰かに似ていると思った。昔の愛美、というわけでもなくて。
「こんなことしてたら、チーズに嫉妬されちゃうってわかってるけど……でもあたし、いつも探してるの。あたしだけの、新しいチーズ」
ほどけた記憶を紡ぎ直すように、愛美はそのあとふっと力を抜いて、遠慮がちな笑みをこぼした。
そうこうしてる間に、日が暮れていく。愛美はとうに僕を放って、水際で何枚も海面の写真を撮りつづけていた。呼びかけようかどうしようか迷っていると、突然何かを察知したみたく、彼女はくるりとこっちに向き直った。
「どうかした? 帰りたい?」
初出:神谷京介短編集Ⅱ 星屑タロット (2010年3月)