リトル・ウインドウ

すべてが終わった、そのあとだと思う。
願いがひとつ叶ったのだ。

わたしは雲になれた。曇り空に漂う、灰色の雲に。

  ○

実家にあるいくつかの窓の中で、いちばんちいさな窓。それはトイレにあった。

ずっと昔、ここをくぐり抜けて家出をした。
身をよじらないと通れないような、とてもちいさな窓だった。

今、わたしはなぜか、この家に一人で立っている。
なぜか、子どもの姿にもどって、居間の真ん中に佇んでいる。

降り続く雨。
暗く曇る窓。
薄暗い蛍光灯の明かりと、ニコチンの色が付着した紐。
くすんだミルク色の壁紙、いつのだかわからないボールペンの歪な落書き、ちらばった雑誌と新聞紙、黴の匂い。

わたしは自分のちいさくなった身体や、家具のひとつひとつについた染みまで、じっと見ている。

それからトイレに向かい、扉を開けた。
目の前に見える窓には、真っ白い、透明な、蜘蛛の巣が張っていた。
それで、ようやく確信に変わった。

あぁやっぱり、わたしは、あの頃の、あの家にいる
時間が巻きもどってしまったんだ

この蜘蛛の巣をくぐり抜けて、裸足で、あてもなく遠くまで歩いて行った。
夏の終わりだった。
それはずっと、感触ごと、鮮明に覚えていて。

ことん、ことん、と音がする。わたしはその音のするほう、キッチンへと向かう。
そこに何かが立っている。影だけが尾を引いて、ゆらゆらとゆれている。
料理をしている、まな板の上で包丁を動かしている、母のような影。

彼女もまた、わたしと同じ。
時間の中を彷徨っている。

わたしは彼女の影の中にある、ちいさな窓を開ける。
窓の中に入って、景色をたしかめる。

ずっと遠い記憶。
とても若く、正直に言うならば今よりずっと美しい彼女の、スカートの裾と、片方の手を、ぎゅっと握っている。
あれがわたしだった。
そのときも雨が降っていて、水溜りが灰色の鏡になって二人を映す。
狭い道、車が通り、わたしたちは身を縮める。
なにか言葉を交わす、その声の残響。

次に、兄の部屋へ向かった。
そこにはやっぱり兄のような影が、携帯ゲーム機を両手で持ったまま、ベッドに寝そべっている。だけどわたしはこの部屋にほとんど入ったことがない。

わたしはその影にぶら下がっている、ちいさな窓を開ける。
通学路、一瞬上がった雨、遊び始める子どもたち、兄のような影に、ぴったりと閉じて針のようになった傘を、打ち付ける子どもたち。
わたしは出ていくことができない。あの公民館の隅の自販機に隠れて、いじめられている兄を見ていることしかできない。
わたしたちは顔もよく似ていた。兄妹だとばれるのも、いつも、すぐだった。

わたしは窓を閉じて、その隣の部屋へ向かった。

そこには父がいた。食事の時以外はほとんど一日中、自室にこもるか、出かけているかだった父。家族に姿を見せること自体が稀だった。在否を知るのはいつも母だけだった。

父のような影はこっちに向かい歩いてくる。
まるで、わたしのことが見えているかのように。
わたしは身体が動かなくなってしまい、同時に、激しい動悸を感じる。

父も同じく、窓が開く。
そこでわたしはたくさんのことを知る。
わたしが生まれる前の景色、たとえば母と二人で映画館に出かけたとき、母と二人でわたしの名前を紙に書いて考えていたとき。
見たくもないのに窓は勝手に開いて、わたしをその景色に連れ出す。

わたしは家の中を隅から隅まで歩き回る。
外は暗く、窓ガラスの向こうはよく見えない。
押入れの中に詰め込まれたビデオテープ、ゆがんだ雨戸、冷蔵庫にべたべたと貼られたシール。
わたしはいろんな場所で立ち止まりながら、あの黴の匂いの中で、きっと、泣いていたのだと思う。

隣の家からピアノの練習の音。
いつも夕方になると聴こえていた、あの音。

いつかなれるのなら雲になりたい、そんな想像をいつも抱いていた。
曇り空、灰に色づいた、あの暗い雲。

そうして町から町を漂って、いつかだれかの傷を隠してあげたい。
だれか見も知らぬ町の人に、知られぬままで。
痛みや苦しみを、平等に明日が来るその苦しみを、雲に包んで、そして感謝も憎悪も向けられる前に、その町から立ち去ってしまうのだ、風に乗って。

あのころの雲の形。
最後に、それをたしかめれば済むのだと思っていた。

薄暗い蛍光灯の灯り、一本が切れかけていて、ちらつきながら。
寿命を終えそうだ。そうしたら、余計に暗くなるだろう。

居間の真ん中に座り込んだまま、じっとしていた。
いつまでもこの家にいれるのなら、いようと思っていた。
時間は進まない。
家族の形に似た影も、ずっと自分の持ち場を離れず、じっとしている。いつでも窓を開けて待っているだけで、けしてわたしの窓を覗きはしない。
生きてた頃と、反対だった。
わたしが生きていた頃、いつだって彼らは、わたしのこころを覗き見ようとした。

今、影になった彼ら。
あれが本当の、隠すもののない彼らの正直な姿、なのだろうか。
もう遅いというのに。
生きてるうちに、影になってくれれば良かったのに。

そうしたらわたしも、生きているうちに景色になって、生きているうちに雲になって、だれにも見られることなく、町から町へ、漂っていられたのに。

それからまた、家の中をぐるぐると回り、懐かしい景色を思い返しては、泣いている。だれにも知られずに。

いつか雲になれる日を夢見ながら、それでもこの家の窓は開けない。

  ●

わたしを呼ぶ声がする。
家の外、だれかが声を上げて、チャイムが鳴っている。
わたしはトイレに駆け込んで、耳を塞いだまま閉じこもる。

そのちいさな窓。
やっぱりまだ、真っ白い、透明な蜘蛛の巣が張っているままで。

チャイムは鳴り続ける。
わたしは、それが本当にわたしを迎えてくれる人なのか、悪意に満ちた人なのか、わからなく、おびえて、ふるえている。

ドアの開く音。
わたしは耐え切れなくなって、ちいさな悲鳴を上げながら、トイレの窓を開けた。便器に足をかけて、窓から身をよじって、くぐって、外を見た。

雨はほとんど降りやんでいた。
空にはあの頃と同じ、雲がかかっている。

わたしは知った。
あの灰色の雲は、だれでもなく、わたしだった。

あれが本当のわたしだった。

かえりみれば、わたしはいつも雲に言葉をかけていた。
大人になってからも。いや、大人になってからのほうが。
だからというわけでもなく、自分のこころに似た人はどこにもいないと、ついに最後までそう考えていた。

わたしはあの雲に、本当のわたしに。
偽物のわたしが、偽物の言葉を伝える。
黒い黴で汚れた窓枠、掴まった指、痛みを感じながら。

「ねぇ、夢が叶ったよ?」


初出:note (2020年頃)