刻々

 いくつもの氷の砂がトンネルの中を浮遊していたが、十数分もすると色のない霧に変わっていた。
 路面が凍結したせいで玉突き事故が起こり、トンネルから出れなくなった僕らは、ただ車内でぼうっとしていた。数十分前、この夜行バスは一台の大型トラックに追突され身動きもできぬまま路上をすべった。タイヤの磨り減る音がした。バスはそのうち勝手な動きを止めた。トンネルの中は真っ暗だった。それだけだった。僕はそれからずっと窓際の席で外の様子を眺めていた。音は聞こえなかったが自分の耳自体には何かの名残があって、それが離れずにずっとくっついたままだった。
 トンネルは果てしなく長くて少々飽きてしまうほどだったが、唐突に事故が起きたので僕はひと息に目が覚めた。壁面上方には黄色と白のライトが交互に設置されている。止まった景色の中で見るそれはぴくりとも動かずにいた。何台もの車が横転していて、倒れもせず無事にすんでいるのはこのバスぐらいだった。かすかな煙が辺りを狭く苦しく覆い始めた。今日は特別寒い日でもない。
 窓の外では中年の女がおろおろとトンネル中を彷徨していた。なぎ倒された車同士の狭い隙間を通り抜けたり、同じように車から出てきた人間たちを詰問したりしていた。声は聞こえない。
 つまらなくなってそいつを見るのをやめた。事故のせいで暖房が壊れてしまったので、おざなりの寒気は徐々に車内を刺し始めた。窓には水滴がしたたり、拭くとてのひら一面濡れた。その手を隣で寝ている彼女の赤いコートになすりつけた。汚れのように黒く染みた。僕の指先や生命線はそれに侵されていた。彼女に呼びかけたが、返事はない。そういう時の常で、再びかける声はひどく小さくしぼんでしまった。返事はなかった。僕はその顔を覗いて白目と黒目を丹念に確認した。だからわかった。
 僕の大事なその人は、もう息もしていない。
 もう呼びかけもゆすりもしなかった。
 とっさに考えたのは、彼女の遺体をどこに運ぶのかということだった。埋めたりだとか沈めたりだとか、そんな単純な案しか浮かばなかった。でもまだ誰も動かないから、僕もトンネル内の動静を見つつ息を潜めてじっとしていることにした。
 やがてようやく音として情報は耳に入ってきたが、サイレンともおぼつかない、地鳴りのような奇声のような、総じて不確かで死物の気配しかしない。この場所も同じように辺り一面に漂ってきた。
 粘土のようになった彼女を押しのけて車内の通路に立った。誰もが同じように息を止めていた。空気が循環しないから、僕の吸い吐きでさえほとんど満足にできないでいる。まだ外に出ない。窓外を見るだけだ。空気は循環しない、景色は嘔吐ばかりを懲りずにつづけている。
 逃げ惑う人々を先導しているのは一人の中年男性。紺色の作業服を着て、しきりに腕を進行方向に振っている。銀縁の眼鏡をかけている。彼の尽力もあって凡庸な人々の脱出はスムーズに図られようとしていた。上手い具合にことが運んでいたのはそれまでで、ほどなく人々はトンネルの外に出るのをためらった。誰一人として外の世界に出ようとしなかった。重病人だっているのに、彼らは見えない停止線でも張られたみたいに、ある地点まで来ると足をぴたりと止めてしまった。そのうち胸に鉄骨が刺さった少女は息絶えた。誰の胸に抱かれているのかも、その混雑の中では判然としなかった。目をこらしても変わらなかった。
 人並みは横長のトラックに阻まれて、みかんの束を上から押し潰したみたくすべてが同じ場所に密集した。どろりと流れたのは血なのか体液なのか、むしろ単にいくつかの人間なのかもしれない。排斥されたものが何であれ、おかまいもないらしい。もしそこにいる総数が百人ならば、百人ともがまっすぐにしかものを見れてないんだろう。横に逸れる人がいても誰も気づかない。自分の歯はひとつ欠けただけでもすぐに気づく。その男は群衆に向かって叫びつづけた。口を開けたまま差し歯を捜していたから、偶然前に立っていた男の子の背中にそいつの欠けて尖った歯がふいに突き刺さり、そのまま頭をもたげる男に合わせて男の子の背中に血の筋がすーっと走った。まっすぐに目を固定していたうちの一人である中年女性がその事態に気づき、故意ではないにせよ純粋無垢な小さな男の子の背中を傷つけてしまったその男を血眼で説教した。唾が飛んだ、男も応じてたちまち口論になった。波紋のようにざわつきが広がった。そこにいた者は残らず野次馬になった。傷つけられた男の子はその場に立ってただぼうっと二人を見上げていた。
 トンネルの外からは風も来ない。連絡手段なんてものはどうせこっちから絶ってしまった。
 体温の消えた車内。僕は二時間かけて通路の下に長方形の穴を開けた。ちょうど人一人収まるほどのくぼみがそこにできて、迷わずそこに彼女を投げ込んだ。バイバイ、と呟いた。彼女は何も反応しない、冗談のつもりだったのにフォローする人もいないのか、おもわずむさぼりたくなった。彼女ではなく、自分の身体を引きちぎってしまいたかった。それもできないから仕方なく彼女の服をひっつかんでぐっと引いた。人差し指の爪が飛び激痛はその一秒後にやってきた。僕はたまらずそこら中の景色を見た。先ほどの先導男は布きれでできたような服を着てすっかり指導者面をしていた。腕の振り方は段々と適当になっていた。それでも人は進みつづけて、そのあと無意識が設定した停止線にとどまりみんなで一斉に頭を抱えた。
 停止線の一番前に新たな指導者が現れた。彼は最初にいた指導者――つまり先導男――と様々な意見で対立してはお互いを睨みつけてやがてそのまま離れた。人々はどっちの側についたらいいのかとうろたえていた。「トンネルの外に出てはいけない」という前提のはどちらの指導者にも共通していた。人々は気づいていない。不文律、というのとも違う。ただ気づいていない。外に出るという概念は、もう数時間も前になくしてしまったのだ。
 群集が交わす議論はもはや議論になっていなかった。悪口合戦と大してレベルは違わなかった。スクラップになった車から得られる資源などたかが知れている。だから何度も何度も言っているように、トンネルを出ればいい、ただそれだけなのに。
 なぜそれができない。
 救いようのない国だ、とひしめき合う群集の中の誰かが叫んだ。トンネルに住む人々は、長い年月を重ねる中でいつのまにかひとつの国の民になっていた。車から出ない人間はついに僕一人になった。僕はこの国唯一の非国民なのだが、誰もそれに気づいていない。まっすぐにしか視界の開けていない国民は半壊状態のバスの中に人がいるなんて想像もできないのだろう。
 吹雪もレンガも絶え間なくトンネルの外から流れ飛んでくる。人々は一斉に目を細め顔をしかめた。
 僕はこのタイミングだと思った。敏速にバスから降りた。靴紐はあらかたしっかりと結んでおいたから心配もなかった。
 絶対に誰にも気づかれていないと思っていたのに、二、三歩歩いてみるとすぐに彼らは僕を見咎めた。暗がりの中にそれだけが浮いている二つの眼でじっと見ていた。その眼の総数は二百を軽く超えた。それははじめから僕を認識していたくせに今まで放っておいたのかもしれない。そんなことを思うと途端に吐き気がぐっと押し迫り足を踏み出すたびに死を意識した。
 僕はそいつらを押しのけ押しのけ前へ進んだ。視界はビデオテープの早送り映像みたいな乱れ方をして、とても歩きにくかった。時々は転んだのかもしれない。僕は頭を上げようとした。足を交差させようとした。胸を前に突き出そうとした。そうしないと歩けなかった。声は聞こえなかった。吐き気は治まっていた。壊れた車にぶつかるたびに、鉄の部分か何かの熱なのか、皮膚を焼いて思わず声にならない呻き声を上げた僕。
 鎖で繋がれた慢心の国民は僕がこんだけ苦労している様も見てみぬふりで、くるくると意味なく回って空疎な議論をつづけた。
 それが希望だったらいいな、と思ったりもした。
 外には青白い光が広がっている。足にいっそう力が入る。いつの日にか停止線さえ越えていた。係員は制止しなかった。背中を小突かれたような気もするがきっと幻覚だ。
 視界にかかる靄は更にヒドくなって暗がりがただの黒いカーテンになって身体は凍りついているのに不愉快な汗が出た。道しるべを探そうとするけれど一本の光も見えないヒーローの嘆きのように聞こえたのかもしれないし、身体が余計に細まって心臓が持ち重りをし始めたのも理由のひとつかもしれない。
 既に停止線ははるか向こうに見えて、もうそこに人の姿はなかった。凍りついた身体が鼓動している。僕は歩いている。
 トンネルの中を歩いて、捜し回っている。
 新たな停止線がその先に現れたのは、直後のことだった。
 ぐるりと回ってその線を無視しようとしたけれど、トンネル幅の端から端まで線は伸びていて、推測するにどうしようもなかった。
 膝からくずおれて、ぱたんとうつ伏せに倒れた。身体は震えていたけれど、それでも動く。
 這って、這って、前よりずっと大きくなった出口の青白い光だけを目指した。
 ひとつのトンネルの出口の青白い大きな明かりだけを目指した。
 ひとつしかないの?
 僕は、「えっ?」とそらとぼけた声を出す。
 魚のように伏し倒れた僕の目の前に、少女は立って、もう一度繰り返した。ひとつしかないの?
 そうだよ、と僕は返事をした。
 うそ。
 うそじゃないよ、あの大きな光を見てごらん。
 少女はきょろきょろと辺りを見回したが、彼女の瞳には光なんてまるで映っていないみたいで、僕は執拗に嘘つき呼ばわりされた。そんなはずないよ、と言ってもう一度光の方を眺めやったが、光はとうに消えてなくなっていた。少女が言うには、最初からそんなものはなかったらしい。青白い大きな光も、汚らしい人々も、煙を上げて横たわる車もバスも、トンネルさえも、それは最初からなかったんだよ。
 起き上がろうとしたが、身体が上がらなかった。首だけはわずかに動いた。目一杯力を入れて首を起こすとかろうじて少女の全身が見えた。少女はもう僕なんて見ていなくて、ただ右手を地面と平行に突き立てていて、その先に付いている華奢な人差し指は遠くのひとつきりをひそやかに示していた。僕はそれを見ていた。
 


初出:神谷京介短編集Ⅱ 星屑タロット (2010年3月)