地方都市の過疎化だとか若者の田舎離れだとかがこの頃よくテレビや新聞の社説なんかで話題にされるが、現実として僕の通っている高校には何百人もの生徒が毎日集まってくるし、ちょっと街のほうや公園へ出ればこの世の終わりかと思えるほどいちゃつき倒すカップルが嫌でも眼につくし、やはり当の住民的にはそれほど実感の湧かない問題なのかもしれない。しかしそれはあくまで昼間の話だ。どんな日でもいい、一人で夜道を歩いてみると事態ははっきりと飲み込める。
聖神社はとても小さなひっそりとした神社である。僕の家から歩いて五分ほどのところにある公民館の脇に、ぽつんとひとつまみの明かりをともしているのがそれだ。鳥居とその左右の端に狛犬が陣取っている場所が一応参道の入り口で、そこから二十歩も歩かないうちに石段に当たる。向かいには公民館が建っている。石段を上りきったところにはもうひとつの鳥居があり、そこをくぐれば小さな社殿が構えられてある。鳥居は参道前・社殿前のふたつともが石造でなめらかな灰色をしていて、入り口の鳥居は昭和十六年建造、社殿前の鳥居は平成元年建造と意外に新しい。拝殿は木造で、そこに立つと眼の前に賽銭箱もあるし鈴のついた綱もちゃんとある。しかし、綱を振ってみる勇気までは出なかった。砂利の敷き詰められた参道はたいした広さもなく、もしそこにコンビニでも建てられたらそれだけで一杯になるくらいのものだ。毎年夏になると祭りの出店がいくつか立ち並ぶことになるが、普段はこの通り閑散としていて人っ子一人の影もない。町で唯一の小さな海・浦戸湾から引っ張ってきた水路がこの参道と向かいの道を隔てていて、今でこそ水路は白い柵で囲われているが、数年前まではその柵がなかった。保育園児がそこから落ちて溺れ死んでしまったことがあり、柵が設置されたのはそのあとのことだった。日曜日の昼下がりの出来事、大人は傍観していただけで誰も助けようとしなかったらしい。ちなみに公民館の北側の脇には緑色のネットで囲われた広い空き地がある。空き地というよりむしろ運動場や広場といったほうが正しいのかもしれない。毎年秋には地域対抗の運動会が開かれるほか、夕刻になると地元の小学生がサッカーや鬼ごっこをして遊んだりもする。この空き地に道ひとつを隔てた向かい側には、僕も通っていた保育園がある。
つまり、神社・公民館・広場・保育園がごく狭い範囲に集まって、おまけにそれらすべてを浦戸湾の堤防が覆っているということになる。
深夜といえる時間帯にもなると、この辺り(参道に立ち尽くして)に見える明かりはふたつ。ひとつは、石段を上がった先の拝殿の天井にある豆電球の明かり。にぶいオレンジ色を放ちながらただのひとつも揺れない。僕が立っているところから石段の上の社殿を見上げると、ひとつきり不気味に生い茂った真っ黒い巨木の陰に覆われながら、その隙間を縫って遠慮がちな小さな光はまるで漏れているかのようだ。もうひとつは、公民館の玄関で発光している「非常口」と書かれた緑色の誘導灯。公民館の一階の廊下はなぜか夜中でも明かりがつきっ放しになっている。神社の隣にあることも影響しているのだろうが、誘導灯の青い光だけは、どこか不自然で人為的な感じがする。青白く発光する公民館一階の玄関の戸の一面のガラス。そこだけがぼうっと浮かびあがってしまいたいかのように見えた。
玄関口に立つと、その青い光が眼を眩ませるばかりに視界を染み通る。
一昔前の人気女優が覚醒剤防止を啓発するポスターがガラス窓に貼られてある。それだけはくっきりと細い字まで見えた。脇には松の木が植えられている。鋭い冷気に影響され、葉のひとつひとつさえ余計に尖っていく。
人の気配を感じて一瞬動きを止めたが、向かいの道路に男(若くはない)が一人で歩いているだけだった。それでもなぜかあとずさって参道の砂利を踏んでしまい、かすかな靴音が地面に響いた。
ところでこの砂利敷きの参道、深夜になると不思議なことが起こるという。要するに他愛のない話なのだが、誰もいないのにここを走り回っているような音が聞こえるということで、住人は別段真相を知りたがったりもしていないのだが確かにそんな音が響いてくるらしい。無邪気な子供が小石を蹴りながら縦横に駆け巡っているような。誰も外に出ない真夜中だからいっそうそれが耳障りで、満足に寝つけないこともしばしばという繊細な神経の人も中にはいるようだ。
このような微細に渡る情報は、そのほとんどが盗み聞きで手に入れたものだ。弁当を食べ終わったあと、机に突っ伏して寝たふりをするのがいつもの昼休みの習慣なのだが、それでも暇なので聞き耳だけは立てている。僕は、僕と同じくこの近郊に住む葉山恭子が、鶴巻つかさといういささか影の薄い女子に聖神社の怪異について自慢げに話していたのをこっそり聞いていた。葉山恭子とは中学校が一緒で、実をいうとその当時から僕は彼女に結構な好意を抱いていた。軍事・国防関係の本やSF小説を熱心に読み始めた中学二年生の頃から、僕の周りに存在している人間がすべて発情期のマンドリルみたく見え出した。狭く浅い価値尺度による快不快以外何も考えず、ただ目先の食料だけを漁って生きるそれのように、田舎の人間はみな下等なのだ、ということに気づいてしまった。だからたとえクラス中から見放されたオタク軍団から陰湿ないじめを受けるようになった時さえ、特別怒りも起きなかった。もちろん悲しみなんて論外だ。僕は、自分がどうしてこんなつまらない人間共にいじめられたりするのかが明瞭にわかっていた。――僕をおそれていたのだ。僕の眼は相手のすべてを見透かす、あいつらは僕の瞳に映る薄汚く哀れな自分を見たのだろう、情けない自分の将来の姿だって見えただろう、そういう現実に耐えかねたのだ、きっと。そして、よせばいいのにそのいじめの現場で一喝して僕を助けてくれたのがほかでもない、葉山恭子だった。その場はそれきりで治まったものの、結局その後もいじめが続いたことはいうまでもない。
ゴミ屑のような人間しか存在しなかった中学当時の僕のクラスで唯一、彼女だけは違っていた。特に眼が印象的だった。あの眼に一瞬でも見つめられるとたちまち心臓の真裏まで光で貫かれてしまいそうな気になるほど、圧倒的に冷徹だった。僕はその眼のおそろしさと美しさを知ってしまって以来、ずっと彼女が気になっている。まだ会話すらまともにしたこともないが、それでも別によかった。彼女は普段どんなことを考えているのだろうか、今までどんなことに傷ついたりしてきたのだろうか、アイザック・アシモフは読んだことがあるだろうか、そんなことを夢想しながら、同じ教室で過ごしているだけで僕は満足だった。
実は、葉山恭子に会えるかもしれない、という淡い期待を抱きつつここにきたのだが、さすがに丑の刻の田舎神社など誰も訪れないだろう、とも思う。そうして暫くは公民館の周りをぐるぐる歩いて、その側面の壁に五、六台ほど並列に取りつけられているエアコンの室外機を眺めたりもしていた。一階と二階の窓の間にずらりと並んでいて、どれも動いていない。窓にはすべてカーテンがかかっている。そして、僕の足音しか響かない。
何もやることがなくなったから、再び石段を上っていき、社殿をまじまじと眺めた。拝殿の上の壁、鈴の少し奥に取りつけられた豆電球は誰かが定期的に交換しているのだろうか、いまだ明るい。
賽銭箱が眼の前にぽつんと置かれている。大した金も入っていないだろう。近所の子供がくすねたりもどうせするだろうし。
僕がその賽銭箱に手をかけると、案の定あっけなく蓋が外れて、中が見えた。
最初、それは死んでいるのかと思った。しかしよく見れば息をしていた。僕はおもわずあとずさりして、少しく呼吸を整えてから再び賽銭箱の中を覗いた。そこで膝を抱えて眠っている女は、たぶん僕と同じくらいの年齢だろう。しかし服装がなんだかおかしい。洋服ではなくて、これは着物だろうか。
少女の眼がぱちりと開いた。ゆっくりと上半身を起こして、僕を見た。その黒髪はもはや膝に垂れるほど長く、豆電球の明かりに沿って静かに振れていた。
葉山恭子?
僕は瞬間的にそう思った。このおそろしく澄んだ眼は、葉山恭子しか持っていないもののはずだった。
「寒くないですか」
少女は賽銭箱にうずくまったまま僕にたずねた。僕は何も答えることができず、黙っていた。
「八百年振りのお客様です」
「え。……僕が?」
「はい」
少女は髪をかきあげにこりと微笑んだあと、賽銭箱の外へと栗が跳ねたように飛び出し、石段を素早くことことと下りていった。
それから着物を着た少女は、長いこと飽きもせずに参道を走り回った。薄暗い闇の中で、少女が足を踏み出すたび、石が小さく飛び散った。僕は石段に腰掛けて、もう何時間もその楽しげな様子をつーっと眺めていた。
「あ、知ってるんですか? そうです、私の足音なんです。いつも近所の噂になってる、夜になると聞こえる足音」
走るのをやめた少女は、やがてゆっくりと僕のほうへ近づいてきた。
「じゃあ、君は定期的にここでジョギングでもしてるの」
「ん、違います。ジョギング?」
「走る、ってこと」
ああ、と少女はわかったように頷く。
「あんまり現代の言葉はわかんなくて、特に横文字が苦手です。もっと日常的に使う言葉は、近所に住んでる人の会話とか、広場に遊びにくる子供たちの会話で覚えたけれど……」
生身の人間とこうやって話をするのも八百年振りだという。少女は僕の隣に腰掛け、僕の顔をじっと見つめていた。
「何で私が見えるのかな、あなたにだけは」
「ほかの人に見られたことはないの」
「うん、たぶんないです。小さな子供や猫なんかには、じっと見られることもたまにありましたけど。やっぱり幽霊なんて、えてしてそんなものなんでしょうね」
「まあ、うん、テレビで観たまんまだね。出来過ぎかもしんない」
息遣いが聞こえるほど間近にいると、ますますその少女の顔が葉山恭子と瓜二つに見えた。
「何かおかしいですか?」と彼女は不思議そうにした。
そのあと、彼女は自分の名を名乗った。葉山おいと、というそうだ。
僕の席は廊下側のいちばんうしろ。つまるところ、教室全体が容易に見渡せる位置ということになる。すべてを見渡す、それは僕に似合いの言葉だなんて思ったりもした。眼を眠たげにこすり、取れた垢を指ですりつぶしたあと、誰にも聞こえないようなため息をついた。葉山恭子は窓側の三列目で熱心にノートを取っている。昨晩の聖神社で出会った、葉山おいとと名乗る少女の顔を思い出しつつ、あらためて二人はよく似ていると思う。人の密集した教室からかすかに覗く彼女の横顔も今は、窓際を覆うカーテンからわずかに通る穏やかな冬の日光にぼやけたままでいるだけだが、それでもあの夜、葉山おいとが見せた、死を連想させるほど透き通った青白さと共通しているものが何かあるような気がした。
僕が座っている席のちょうど左斜め前では阿久津忠義が十徳ナイフを机の下でチャカチャカと弄んでいた。ナイフの刃で自分の指の皮膚を軽く撫でつけて、口元にだけかすかな笑みを浮かべている。振り返りそうにも思えたので、僕はあわてて彼から眼を逸らした。
現在はいわゆる絶交状態でお互い口も利かないのだが、ちょっと前まで僕たちはいつも二人で行動していた。ちょうど友達がいない者同士の、傍から見れば貧しい交際だったのだと思う。僕は彼のことを阿久津君と呼び、彼も僕のことを満井君と君づけで呼んだ。阿久津君はテロが好きだった。別に、世の中を変えたいとか革命を起こしたいとかそんな大仰なことは考えてないらしく、単に大勢の人間が死んだり、有名なランドマークが倒壊するのを頭の中で描くのが好きなだけの端的にいえば「テロ」の行為面のみにおける信奉者だった。彼は常にこの学校で実行できそうな無差別テロの方法を考えていて、たまに思いついたその草案なんかを休み時間などに僕に逐一聞かせてくれた。無差別と喧伝しつつも、時には攻撃対象の人間を名指しする場合さえあった。その人たちは別に阿久津君が個人的に恨みを持っている人などではない。むしろその逆で、彼が好意を持っている女子や女の先生などが対象になっていた。
「満井君も(この計画に)協力してくれるよね」が、学校テロの草案を提出した際の阿久津君の口癖だったような気がする。協力してくれるよね? とたずねる風でもなく、あくまで最終確認のためといった具合の言い方だった。YESしか許されないのだという雰囲気がその言葉には宿っていた。だが僕はそのたび大袈裟に頷いてやった。実際、阿久津君がもしもこの空想テロ計画を実行に移そうとして、本当にその科白をぶっつけられたとしても僕は頷いていただろう。そして高一の夏には本当に頷いてしまったことで、後に記す通り僕はとんでもない目に遭うことになる。
「また来たんですね、今晩は」葉山おいとはそういって賽銭箱の蓋を開け、僕を迎えた。
月の一等冴える丑の刻だった。このあいだと同じように、おいとは石段を駆け下り、砂利敷きの参道を嬉しそうに踏み回った。僕もまた同じように石段に腰掛けその仄暗くも美しい光景に見入っていた。
その日の夜、今日あったいくつかの出来事を彼女に話した。彼女はほとんど黙ったままだったが、時たま感心したように頷いていて、聞いていないわけではないらしかった。とりたてて面白い出来事なんかがこの僕にあるはずもなく、ただ今日受けた授業と晩ご飯のメニュー、それからネットで検索したワードなんかを話すだけだったが、どれもこれも彼女にとっては新鮮な話題らしく、まあそれも当然といえば当然なのだが、僕の隣に腰掛けたまま真剣に聞いてくれていた。特にインターネットという概念は、文化面でおよそ八百年ものブランクがある彼女にとってはなはだ理解しがたいものだったが、同時に興味をそそられもしたらしかったので、僕はポケットにしのばせていた携帯電話を開いたりしながら、回らない舌で必死に丹念に説明をしてやった。そんなことをしているうちに二、三時間はあっというまに過ぎてしまい、「もう夜が明けそうです」と彼女に諭されてやっと現実に立ち返るといった具合だった。
「ではまた会いましょうね、満井さん」
とおいとがいうから、
「え?」
僕が咄嗟にカマをかけると、案外反応してくれた。心もち身をよじらせたあと彼女は暫く黙り、それから「私は……また満井さんといろんなお話がしたいです」と僕に微笑みかけた。そして直後に顔を赤らませ、ではおやすみなさい、と一言つぶやいてそのまま賽銭箱のある拝殿へ向けてそそくさと走り去っていった。また明日にでも来るよ、といいたかったが、もう既に彼女は夜霧の中へ消えてしまっていた。
いつもの通り昼休みは寝たふりをして、教室のうしろのほうの席で楽しそうに喋っている葉山恭子・鶴巻つかさの二人の会話に耳を澄ましていた。聖神社にいると思われる幽霊のことについてまた葉山恭子は饒舌に語っていた。聖神社に祭られているのは源氏の武士で、幽霊はその人物に関係しているのではないか、つまり平安時代末期の幽霊なのではないかという憶測だった。あながち間違っていない、というよりもほぼ正解に近かったので、どこからそんな情報を仕入れたのかと内心驚いていた。その幽霊の正体がまさか自分の遠い祖先だとは思ってもみないことだろうが、葉山恭子はいささか興奮気味にその話を続けていた。
近頃の僕の中の認識は、葉山おいとが葉山恭子に似ているのではなく、葉山恭子が葉山おいとに似ているのだ、という風に作り変えられてしまいつつあった。そのくらい葉山おいとの顔を僕は長いこと見ていたのだと思う。たぶん、毎日欠かさず神社には通っていたはずだ。眼が合うことだって滅多にない葉山恭子との関係に比べれば、毎夜僕の顔をじっと見つめながら他愛ない話を熱心に聞いて、たまには自分の過去のことなんかも打ち明けてくれるおいととは天地の差だった。僕はもう、葉山恭子のあの眼の力などは元々すべておいとが持っていたものだと考えるまでに至っていた。
確かにこの神社の御由緒書きにはこう記されてある。参道の端っこ、社殿の下にある木製の板に筆書きのような自体で書かれていて、夜中なので携帯を開いた時の明かりでその文字をひとつひとつ読み取ったのだが、後日個人のサイトで一字一句違わず書いてくれている方がいたので、なんだか僕は余分な苦労をした気になった。
聖 神 社 の 御 由 緒
御祭神 不詳(伝、源 希義(みなもと まれよし)公の霊)
鎮座地 高知市横浜○○○○番地
夏祭り 七月七日 秋祭り 十月八日
御由緒 創建年月、沿革未詳。通称「ごんげん様」
当社には「からこら殿」という小さな蔵があり、革籠がひとつ納められている。この革籠の中身については古来より諸説があるが、源希義公の遺品ではないかといわれている。
頼朝の弟で土佐に流されていた希義公は、兄の挙兵を知るやこれに呼応しようとするが、平家方の蓮池・平田軍に追われ討ち死にした。その遺品を船で京に輸送中嵐に遭い船が転覆し、数々の遺品がこの辺りの海岸に漂着したという。これを土地の人々は「エブリ」という道具でかき集め、この籠に収め薄幸の源氏の若武者の霊を慰めたといわれる。
今日でも高南の総鎮守、若草八幡宮の御神幸祭には必ずこの革籠が先供をすることから、源氏との浅からぬ関わりが考えられる。
当社の故地が、横浜小学校の一部に組み入れられたことから、一時、中の谷の谷口に鎮座していたが、昭和五十六年十月、再びゆかりの地に戻り今に至る。現在は境内地の一部が仁井田神社の御旅所となっている。なお、「からこら殿」の名の由来は、この革籠を振るとカラコロと音がするからといわれるが、中を確かめたものはいない。
平成三年三月吉日 仁井田神社総代会
ことのついでに『平治物語』を図書館で借りて読んでみたが、残念ながらその「源希義」が登場する場面はなかった。
「え、ほんとですか」
おいとは驚いた風にいった。
「私、読み書きができないから、あの板に何が書いてあるのかなんて全然知らなかった。……そっか、あの人のことが書いてあるんですね」
彼女は希義のことをそういい、また、希義様、とも呼んだ。
「あの、満井さんは、流罪という言葉を知っていますか?」
「知ってるよ、学校で習うから」僕がいうと、おいとはこくりと頷き、そのまま話をつづけた。
「希義様の父である源義朝様は、平治の乱という大きな争いに破れて、自身も落ち延びた先の村で討ち死になされました。その後、九人いた義朝様のお子様は方々の土地に流されました。別に何の罪があったわけでもないのです。ただ、破れた者の親族は残らず罪を問われるのがあの時代でしたから。打ち首にならなかっただけよかったのかもしれません。
希義様が土佐国の介良に流されてきたのは彼がわずか十歳の時だったと、後に聞かされました。希義様がこの浦戸の地に来たのはその十数年後、彼が二十代の半ばになった頃で、私はその時十二歳でした。その当時この土地には、もちろんあそこに見える公民館や西洋風の建物なんてなくて、堤防もなくて、ただ広い磯辺のほとりに小さな住居がぽつりぽつりと点在しているばかりでした。とても殺風景なところだったんです。海辺の村なので、男の人は毎日船を漕いで沖に出て、魚を獲ってきてくれて、それで村のみんなの暮らしを支えていました。希義様は、あそこに見える小山の辺りに女中と二人で居を構えていました。ここの人たちから献上される魚や貝を食べてひっそりと暮らしていたそうです。いつも食料を運んでいた人は、彼に関して、あまり褒めた人柄じゃないと時折こぼしていました。家に食料を運んでやっても感謝のひとつも述べずに、ただ部屋の奥から『そこに置いといてくれ』というだけで、おまけにいつも何かに苛立っているような雰囲気を醸し出していたらしく、そりゃあその人もいい気はしなかったそうです。
ある日のこと、彼が山を下りてここに訪れてきたことがありました。民家の辺りをうろうろと彷徨している希義様を見てみんなが驚いたようです。何か用事でもあるのか、とたずねても、いや別に、と言葉を濁すだけだったのだそうです。
私の家はその時ちょうど家族みんなが漁に出ていました。兄弟はみんな男で、母親は私が十歳の時に病気で死んでしまいましたから、家には女は私一人しかいなかったのです。そうして洗濯物を干していた時にひょっこり希義様がやって来て、私に『ここでいちばん海がきれいに見える場所を知りたいんだが……』と話しかけてきましたが、その声の小ささ、頼りなさに驚いてしまうのが先でした。だって本当に、耳をこうやって、口元にぴたりとくっつけなければ聞き取れないほどだったんですもの……。だけどそれより何より、彼の着ていた着物がひどく汚れていたのが気になりました。何かいやな臭いもするのです。たずねると案の定、ここの人たちが共用で使っている糞尿を溜め込んだ土の穴に誤って落ちてしまったのだという答えが返ってきました。彼はとても高貴なところの生まれ――なにせ源氏ですから――なので、今でいう便所が、家の外の何もない土にあるだなんて思いもよらなかったんじゃないでしょうか。私はおもわず笑ってしまいました。井戸の水を桶にいっぱい汲んできて、彼にしゃがんでもらい、頭から水を被せてやりました。私としてはそれで親切をしたつもりなのですが……彼が何もいわずただ黙っているだけなので、あれ? 怒ってしまったのかな、と少し心配になりました。だけど彼はそのあと、ぽつりとやはり小さな声で『ありがとう』といってくれました。
『もっとちゃんと洗いましょう、海に行って洗いましょうよ』と私はいいました。彼は渋々といった風に頷き、黙って私についてきてくれました。ツヅキ島の端っこには誰もいなかったし、木蔭に隠れることもできたので、そこでふんどし一丁になってもらって、私は彼の着物を海の水ですすぎました。
『海で洗うなんて、駄目だよ』と彼はいいました。『海が汚れる、自然に対して不道徳だ』って。
私が『じゃあなんでそれを最初にいわなかったんです』と返したら、案の定、言葉に詰まってて。だからもう少し優しくいってあげようと思って、
『私が小さな頃から見てきたこの海はね、きれいなだけじゃないんですよ。汚いものだっていっぱいある。遠くで見ているぶんには、きらきら光っててとてもきれいに映るでしょうけれど。……でも私は、それでも、ひょっとしたら汚くても、この小さな海がたまらなく好きなんです』
って。
希義様はその日以来、一週間に一度は海を見に山を下りてくるようになりました。といっても、そのことを知っているのは私と彼だけで、村の人たちは、私のお父さんさえも、『何をしに来てるんだろうなあ、もしかすると、俺たちに取り入ってもっと献上品を寄越すようにしてもらいたいのかもしれん』なんて見当違いの憶測もしていたっけ。ただ、浦戸の海を見たかっただけなのに。まあ、何にもいわないあの人もあの人ですけど。
私ね、磯辺に座り込んで希義様と一緒に海を見ていたんですよ。ほとんど、どんな言葉だって交わさずに。別段面白くも何ともなかったんだけど、まじろぎもせずにずっと海を眺めている彼の姿は何となく型にはまってなくて、不恰好で、それが妙におかしかったんです。きっと、彼の故郷にはこんな海がなかったんだろうなって。あ、あと、彼の左手の甲には薄茶色い痣みたいなものがあって、いつもそればかり見ていたような気もします。
たまにですけど、和歌も教えてもらいました。彼はいろんな本を読んでいて、和歌もたくさん知っていました。ただ、自分で作りはしなかったみたいです。彼は、そういう人じゃないので……だから、海を見てもただぼうっとしているだけで。和歌を詠んでくれるのは、特別に気分がいい日だけでした。じっと海面に眼を注いでいた彼がふいにこちらを向き直って『今日はこんな歌を教えてあげよう』って。私は嬉しくなって、『はい』と頷きます。和歌が好きなわけではないんです。ただ、私に新しい歌を教える時にだけ見せてくれるあの人の眼の輝きが好きで、それを見たいがためにわざと大仰に喜んでみせていたのだと思います。私、教えてもらった歌は帰り道までずっと小声で復誦して、その日のうちにまるまる覚えていました。
それが三年もつづくと、覚えた歌は百いくつにもなりましたよ。
今となっては、もうほとんど忘れてしまったんですけどね」
おいとはそこで言葉を切って、わずかに俯いた。不思議に思って僕が顔を覗こうとすると、彼女は自分の表情を隠すみたいに、立てた両膝の隙間へぐっと頭をうずめた。
「ごめんなさい」おいとは顔をあげた。口角をへらりと緩ませ笑みを作っている。「どこまで話したっけ」
空風が吹く。石段に腰掛けている僕らの頬や足元をすすぐみたいに冷やした。
おいとは再び話しはじめた。
「私の名前、覚えてます?」
「うん。葉山、おいとさん」ちゃんと覚えてるよ、と僕は付け足した。
「その名前は希義様がつけてくれた名前なんです。あ、本当の名前とかそういうのじゃなくてね、私たちのような身分の低い者には名前なんてなかったんです。だから村の人には『葉山の娘さん』とか『葉山のお嬢さん』とかそんな風に呼ばれてました。
いつのまにか、希義様と私が連れ添って海辺に出掛けたりしていることは村のみんなに知れました。そのことを彼にいっても、別に人目に隠れてこそこそしてたわけではないので、それほど気に留めてはいない様子でした。父はむしろ私と彼とが仲良くしているのを喜んでいたみたいです。上手くいけば源氏の嫁になれるかもしれないぞ、と笑いながらいいました。でも本当のところ、私は彼の妻になりたいという気持ちがまるでなかったのです。ただ会って、ほんのちょっとのお話をしてそれから海を眺めるだけで、私の気持ちはどんな時でもすっかり晴れてしまいました。それだけで十分でした。源氏の嫁だなんてそんな大層な御身分はいらなかった、きっと。
……一度だけ、口づけというものを交わしたことがありました。それはある夏の日のことでした。いつもの通りツヅキ島の端の海岸で私と希義様は海を見ていました。時々は漁船が遠くを渡っていくのが見えて、彼はそれを眼で追っていました。その日の海は空を映してとても澄んだ青をしていたことを覚えています。それがきれいなことは、言葉に出して頷きあわなくても、二人ともちゃんとわかっていました。唇を近づけたのは、特別どちらでもなくて、二人一緒だったような気がします。きっと私の思い違いなんだろうけど、そう記憶していたいです。
愛用の刀を見せてもらったのはそれから数日後のことです。私が希義様の家に上がったのはそれが最初で最後でした。女中さんは玄関で出迎えてくれましたけど、すぐに何か用事があるとかで出掛けていきました。私たちを気遣ったつもりだったのかもしれません。部屋の奥の押入れに仕舞ってあったその刀は亡くなったお父上様の形見だそうで、とても丁寧に――というより、刀を扱った経験があまりなかったんでしょう、妙にぎこちなく――柄から先をきれいな白い紙で拭っていました。――私は、その時彼が固く握っていた柄の部分に、ひとつのしるしを見つけました。まぎれもなく、お父上様の、そして彼の刀であるという確かなしるしでした。すると私はそれがおかしくなってきて、おもわず笑いました。彼はまだ訝しげな顔をしていたけれど。
その年の夏頃でしたか、希義様の兄、源頼朝様から、平氏追討のための挙兵の呼びかけが伝わってきたのだそうです。彼は、いつものように私と二人で浦戸の海を眺めている時にそのことを打ち明けてくれました。私は一も二もなく『都に上る時が来たんです、どうぞ戦ってきてください』といいました。それが本心なのかどうか、その瞬間は自分でもわからなかった。ただ、精一杯に笑顔を作っていたとは思っています。彼は何度も何度も小さく頷いては、そうだよな、とぽつり。言葉が悪い咳みたいにこぼれたのが、私のところからも見えました。その二日後、希義様は浦戸を発ちました。きっともう帰ってこないだろうと私は思っていました。都は、遠いですから。
それから一週間と経たぬうちに、村に知らせが届きました。……長岡郡の年越山を渡っているところで、希義様は平家の軍勢に奇襲を受け、討ち取られたのだと。敵方の兵の数は多く、狭い山道の中で四方を囲まれてなすすべなく……きっと、敵の一人も殺したことがなかったはずで、希義様は」
それまで機械のように淡々と語りつづけていたおいとが、急に堰を切ったように泣き崩れた。僕はどうしようもなくなって、ただその肩にちょっと指先をふれてみただけだった。
昨年の夏に阿久津君が立てたテロ計画は次のようなものだった。
「これ、何だかわかる?」
休み時間、いつものように僕の机に寄ってきた阿久津君は、ズボンのポケットから掌に収まるほどの小さな瓶を取り出して僕の眼の前で小刻みに振ってみせた。ガラスで閉じられたその瓶の中には、ねばねばした無色透明の液体が入っていた。僕はそれが小学校の理科の実験で作ったりするスライムか何かだと思い、その通りにいうと、彼は「そんなチャチなものじゃないさ」とバカにするみたく笑った。
そいつがつまり、今回の計画に使う「兵器」だった。
実行の時刻は体育の授業がある金曜日の三時間目。女子は水泳をして、それと入れ替わりで男子は体育館でバレーボールをする。現在、プール傍の女子更衣室は若干遅れめの改修工事中で使用不可能なため、仕方がないので着替えは体育館の下の階にある更衣室ですませている。女子は休み時間のうちに水着に着替えてその格好のままプールに向かう。授業がはじまり生徒が更衣室から出ると、防犯のため体育教師が鍵をかける。近頃の職務怠慢のためか、生徒全員が完全に更衣室から出たあと柔道黒帯の芹沢が施錠をしにくるまでには三分ないし五分ほどのタイムラグがある。そこを狙って部屋に飛び込むのがまず第一のステップ。
次に僕たちは掃除用具入れのロッカーに隠れ、芹沢が来るのをただじっと待つ。まさか男子生徒がロッカーに身を潜めているとは知らない芹沢は習慣的に手際よく鍵を閉めるはずだ。そして教官室にのそのそと戻っていく。あとはもう授業終了まで誰も来ない。計画を速やかに実行し、内側から鍵を開けて出ればいい。
阿久津君は女子全員が標的だといっていたが、僕はもちろん葉山恭子の下着にしか興味がなかった。
「デモデックス・オプリチュナビゾープ」
「へぇ?」
「こいつの名前だよ。世界最先端の生物兵器さ」
どうみてもただの水飴にしか見えないけど、と僕はいった。どうせいつもの冗談半分だろう、と。
そうしたら阿久津君は憤慨したように、
「じゃ舐めてみるか?」
「やだよ」
僕は笑った。阿久津君は携帯のブックマークを開いて、あるサイトを見せた。日本語で書かれたページに、顕微鏡で見たミジンコのような画像が右隅にあり、デモデックス・オプリチュナビゾープ、「通称、オコメダニ」と確かに書いていた。
そのサイトによると、日本のとある大学教授が独自に遺伝子操作をして作り上げた生物兵器で、ベースは哺乳類の皮膚の分泌線に寄生するニキビダニと呼ばれるダニの一種なのだという。飲料等と混ぜ合わせて攻撃対象となる人間に嚥下させ内臓に侵入させるのが基本的な目的で、オコメダニ二十匹以上の体内への投入は人間にとってほぼ致死量に値する。オコメダニは、毛穴や内臓の表面など、とにかく温度が三十六・五度以上の環境に置かれるとたちまち活動をはじめる。生体のオコメダニはひたすら産卵し、生まれた幼体は栄養分となる主人の体を貪り食い成長する。ポイントとなるのは幼体の食事法だ。原理は蚊と同じで、皮膚や臓器を齧る際に、口吻部から毒素を含んだ唾液を注入する。それが要するに糜爛性の猛毒であり、適量のオコメダニを嚥下(肛門から注入、などという荒技もあるらしいのだが)すれば一晩で内臓が爛れ、二晩で体の中を食い尽くされる。当然、宿主は丸一日以上地獄の苦しみを味わいながら死へと向かうことになる。
「マジか、これ」僕は手持ち無沙汰な気持ちで苦笑する。
今回の僕らの計画、その最大の目的は、更衣室に放置されているはずの沢山のパンツにオコメダニ入りの液体を塗布することにあった。無論、右の説明にある通りオコメダニは体内の奥深くに侵入しない限り人を死に至らしめることはないから、女子たちの殺傷が最終目標なのではない。阿久津君はオコメダニの持つもうひとつの能力を利用することを考えたのだ。すなわち、ものを齧る際に宿主の体に注入される毒液のもうひとつの効果、筋肉の弛緩を促す働きを。
小瓶の中に入ったオコメダニ入りの液をパンツの内側に万遍なく塗り込む。まさか自分の下着にそんな細工がなされていると考えるはずもない水泳終わりの女子たちは、そのままそそくさと着替えを始める、パンツをはく。眼の前に晒された股間を宿に決めたオコメダニはすぐにその肉を貪り、更に本能の作用によって湿気のある穴に向かう。そのやわらかい部位を存分に齧り、毒液の注入をつづける。そして、
「それで本当に、肛門が開きっぱなしになる、の?」僕はニヤニヤしながらいった。
「うん。もちろん、尿道も膣も」
葉山恭子が僕の眼の前で排泄物を垂れ流し、その端整な顔が周知に歪む様を想像すると、僕はもう顔も手足も何もかもが火照ってしまい、妄想の収拾がつかなくなった。計画実行の予定日はその翌日だった。考える暇もなく僕は彼のテロリズムに駆り出されたわけだが、その辺も既に計算済みだったのだろう。
「希義様が亡くなったことが知らされて一週間と少しほど経った頃でしょうか、ある日、寝床から起きて外に出ると、村のみんなが口々に何かささやき合っているのです。とにかくみんな落ち着きなくざわついていました。それに、早朝というのに海のほうへ向かって歩いていく人たちがたくさん見えます。私はその人たちを捕まえて問うてみました。
『ツヅキ様に鎧やかぶとが流れ着いたんだと。何でも、冠者様の遺品かもしれぬ、というんだ』
冠者様、というのは希義様のこの村でのあだ名のようなものです。彼は土佐で成人したため土佐冠者という号を授かっていました。
すぐに駆け出すのかと自分でも思ったのですが、なぜかそこから足が動きませんでした。どこからためらいが起こったのかも判然としないけれど、ただそうなってしまったのです。
結局、重たい体を引きずるみたいにして一人でツヅキ島まで辿り着いたのは、もう日さえちゃんと昇っている時刻でした。やっぱりまだ多くの人が集まっていました。私はそれを必死にかき分けて水際まで辿り着きました。すると、そこにはたくさんの小物や、甲冑がありました。きっとほとんど身につけたことはなかったのでしょう、武具はどれもぴかぴかで真新しく輝いていたのを覚えています。
『名が彫られてあったんだと、源希義ってな』
誰かの話し声が聞こえましたが、それでも私はこれが希義様のものだと信じることはできませんでした。不思議な気がしたのです。あれほど「戦い」や「討ち死に」なんて言葉が似合わない彼が、まさかいっぱしの武将様のように武具に身を包んで、源家の復古のために散っていった、だなんて。そんな大層なことを……。
私は群集から少し離れた岸辺に打ち上げられていた何かを見つけました。どうしてみんな気がつかないんだろうと首を傾げながらその漂流物のあるほうへ駆け寄りました。
それは、いつか彼が私に見せてくれたあの刀でした。ちゃんとしるしも入っています。それでやっと悟ったんです。希義様はもうこの世にはいないのだと。生きているのなら、この刀を手放したりするものですか。私はその刀を手に取りました。真っ白い鞘にきちんと収まっていて、傷ひとつありませんでした。私は、刀を胸に抱いたまま走って島を離れました。誰も追ってくる人はなかったと思います。それに、きっと私は泣いていたんだと思います。気がついたら山道にいました。そこにあったはずの希義様の家は既に取り払われていました。鞘から刃を抜いて、自分の喉元をひと息に突き刺しました。だけど、刺しどころが急所じゃなかったのか、私は息もできず苦しんでいるのに一向に死ねません。私は心の中で『希義様、殺してください、私を殺してください』といいました。刀を握る力もなくなって、それはするりと地面に落ちました。そのあと、私はその場にうつ伏せ、倒れてしまいました。それでも必死に這い、再び刀を取ろうとしました。その時、ふいに眼に映ったのは、大きな老松の傍に根を張っていた、まるで刀のように尖った木の切片です。あれのもとに上手く伏し倒れ、胸でも喉でもが貫かれれば、刀など使わずとも死んでしまえるだろう、そう思って、今度はそちらのほうへ這っていきました。ずっと朦朧としていました。
――その後のことはもう覚えていません。いつのまにかこんな風に、あなたにしか見えないような姿になっていたのです」
これくらいで私の話は終わりです、とおいとはつぶやく。
携帯電話を開くと、もう午前の四時になっていた。
立ち上がろうと石段から腰を浮かすと、おいとがふいに僕の腕を掴んで、
「もうちょっと居てください」
と、そういう。
僕は、一も二もなく従った。
「冬の夜は長いですから、ね」
いたずらっ子のようにはにかみながら、おいとは僕のすぐ傍で氷の息を吐く。それからふいに着物の衿をゆるめて、首元の肌を僕に見せた。
「ほら、ここにふたつ、傷跡があるでしょう」
僕が頷くと、さわってみてください、とかすかにささやいた。
体育の授業が始まる一時間前から、僕らは更衣室横の便所に隠れてじっとしていた。何度も何度も手順を確認し合った。女子が着替え終わり更衣室を出るのを便所のドアの隙間から見届ける。そーっと便所を出て誰もいないことを確認し、更衣室に入る。そのまま掃除用具入れのロッカーに隠れる。芹沢が来て鍵を閉める。ロッカーを出る。オコメダニの入った液を、それぞれの棚にあるパンツの内側に塗りたくる。すべて終えたら内側から鍵を開けて脱出し、どこか適当な場所に逃げる。
何十回となくイメージトレーニングをしているうちに、もう実行の時間がやってきた。阿久津君と二人、思い描いた通りにことを運ぶと、僕らは拍子抜けするほど至極あっさりと「掃除用具入れのロッカーに隠れる」ところまでこぎつけた。だが、どうやらトラブルがひとつあったみたいだ。
「やば、ちょっと漏れてるかも」
真っ暗いロッカーの中で阿久津君がいう。二人とも半袖のカッターシャツだから、阿久津君の腕がちょんちょんと定期的に僕のにふれる。蓋の閉め方がゆるくて、オコメダニが少量瓶から漏れているらしい。
「明るいとこじゃないと見えないからちょっと出るわ。まだ芹沢は来ないと思うから大丈夫」
そういってロッカーを出た阿久津君。
僕はその言葉を信じて、中にこもったままでぴんと背筋を伸ばしながら彼を待っていた。が、三分ほど待っても一向に彼は戻ってこない。それでも、今うかつに外に出るわけにはいかないと思うと身動きできなかった。
「阿久津君?」
できる限りの小さな声で呼んだが返事はなく、かわりに、部屋の鍵が閉まるガチャンという音がした。
僕はあわててロッカーから出た。部屋には誰もいない。ドアに歩み寄り、ロックを解こうとして取っ手の辺りを一瞥した瞬間、嫌な汗が額から波打って流れ出した。ドアには平べったい金属の板があるだけで、鍵穴もレバーもない。つまりこの部屋は、内側からロックを解くことができない仕組みになっていたのだ。
「あいつ!」
声を押し殺して叫ぶと同時に、はめられたのだ、ということを僕は悟った。
結局、自分ではどうすることもできずに、ただ歯軋りなどしながら鍵が開くのを待っていた。授業が終わりやがて鍵が開けられると、水着の上にバスタオルを体に巻いたたくさんの女子の姿が部屋の入り口に見えた。引きつりのような悲鳴のあと、怒りにも似たざわつきが広がっていったのがここからでもよくわかった。
こんなことがあったので当然、僕はいまだにクラス中、あるいは学校中から変態の烙印を押されたままでいるし、阿久津君とはあの日以来一言も口を利いてない。
おいとと二人きりで遊ぶことだけが、僕の生きがいだったんだと思う。
子供の頃誕生日に買ってもらったきりほとんど使わなかった大きなおもちゃなんかを、おいとのために持ってきて、動かしてみせたりもした。今語ったような出来事や、男とは思えないほど甲高いこの声のせいでいつも周囲に哂われたりしていることを打ち明けて、そのたびに慰めてもらった。夜だけが僕のすべてで、昼間の世界なんてどうでもよくなった。世間の人にとって僕という存在はまったくの透明で、小指すら視界に入らないらしい。おいとしか僕を認めてくれる人がいないのは、よく考えてみれば不思議なことだった。おいとは夜の間しかこの世にいないのに、昼間の僕も夜の僕もいっぺんに包み込んで、抱きしめてくれた。
おいとの姿は僕にしか見えない。僕の姿はおいとにしか見えない。それだけだった。
飽きることなくつづけた二人きりの鬼ごっこに疲れ果て、僕らは参道の真ん中にへたり込んだ。砂利の上でお互いに身を寄せ合って冷気をしのぐ。おいとは僕の手の甲に自分のそれを重ねて、にこりと笑った。これがたぶん幸福だと思ったんだけど、違うのかな、間違ってんのかな。
「開けてください」
拝殿の横にある、瓦屋根で覆われた小さな物置のようなものの前で、おいとは嘆願した。
「お願いします。ここにあの人の遺品が入っているはずなんです」
小さな錆びついた物置は、夜目に慣らされてただぼうっと、僕の視界の少し下に映っている。いきなりのことに理解が追いつかなくなりつつ「でもそれって要するに墓暴きだろ?」とあからさまな嫌悪を彼女に示しながらいった。
「一目見るだけでいいんです。決して中の物を盗んだりはしません。お願い、力を貸して。私、八百年も待っていたんです。きっと中を見れば、満足して私も浄土へ行けると思うから」
見る間においとは涙声、よよと泣き伏しその場に倒れた。リアルさの欠片もない八百年という言葉に、説き伏せられた自分がいた。ああ、今までのも全部、僕に取り入るためだったんだ、僕は本気だったのに。
夢に似た彼女の呼吸が、どんな風に見ても信じられなくなった。僕の視線はまるで彼女を蔑むみたいに映っていたことだろう。おいとは、何度も何度も「ごめんなさい」と詫びていた。
「わかったよ」
暗がりの中で、顔を歪ませながら僕はつぶやいた。
あの日阿久津君と更衣室に入った瞬間と同じように、観音開き式のその瓦屋根の物置は力を少し加えるだけであっさりと鍵が壊れ、中の様子を僕らに見せてくれた。おいとは、誰に向かってなのか何か二言三言つぶやくと、そのまま物置の中の闇に滲んで消えた。
僕は拝殿にある賽銭箱を蹴飛ばして(飛びはしなかったが)、ただ寒さのため小さく震えた。賽銭箱の中がカタコトと音を立てた。まさかと思い、賽銭箱ににじり寄ってそっと蓋を開けると、真っ白い刀がそこにひとつ。
「あいつ、忘れていきやがったな」
持って帰ろうとしたが何だか怖くなり、蓋を閉めて帰宅して狭い部屋で寝た。
だが、僕にしてみればオコメダニなんかよりもあの白い刀のほうが余程兵器として魅力的だ。優れた日本刀は、角度次第で人の骨さえ簡単に断つそうだ。試してみたいという気持ちが、何をしていてもすぐに粟立つ。誰の首でも切れるのなら、僕は誰を切るだろう。葉山恭子か、阿久津君か、担任か、それとも親か弟か、もしくは街中を歩いている知らない誰かなのか。親以外なら(面倒くさいことになりそうなので)、誰でもいいと思った。誰でもいいのだ、とにかく切らなければならないのだ。でないと僕は一生牢屋に閉じ込められたままになる。発狂しても誰も助けてくれない。
だから僕は今夜、刀を取りにいこうと思った。昼休みのことだった。
田舎の夜は誰にも何もされないからとても優しい。優し過ぎて怖いくらい、そのせいかどうなのか、神社に向かう足取りが少しもたついた。
闇夜の中、小さなオレンジ色の明かりが灯る聖神社社殿。石段を上り賽銭箱の前に辿り着き、ビクビクするのも嫌だからためらわずに蓋を開ける。刀は意外と軽く、どんな状況でも楽に振れそうだった。
人声が聴こえた時は瞬間的に背筋が凍った。石段の下の参道からだった。暗がりでほとんど見えないが人影は確かにそこにひとつある。参道の真ん中に立ち尽くし、小さな声で歌をうたっている。かすかな音が輪のように揺れながら広がり、僕のところまで届いた。おいとの声だった。
刀を持ったまま石段を下りて、おいとがいる場所にまで駆け寄ると、彼女は驚いたような顔をしてわずかにあとずさりした。
「待ってたよ、ほらこれ、希義の刀だろ? もうこの刀は僕のものになった。誰にも渡さない。だから、えっと、僕と結婚しよう」
そんな言葉を吐いたような気もする。おいとはなぜかいつもの薄汚い着物ではなく、ピンク色のダウンジャケットを着て、耳にiPodの白いイヤホンコードをぶら下げていた。どうしてそんな顔をするんだろう、怒っているのかな。ただ戸惑っているだけのようにも見えるけど。
僕が前に歩み寄るごとに、一歩ずつ退いていくおいと。そのたび、公民館の玄関口の明かりが彼女の体を少しずつ明るく照らしていく。おいとはイヤホンを耳から外し、警戒するみたいに僕の全身を隈なく見ていた。
――傷がない。僕が今見ているおいとの首元には、自決した時についたはずのふたつの傷跡がなかった。
「傷は?」と僕はいった。
「は? え、傷……何のこと?」
「刀で刺した時の傷だよ、天国に行って神様に治してもらったの?」
おいとはもうひと息あとずさりをして、
「……満井? 満井でしょ、あんた。どうしてあんたこんなとこにいんのよ」
なぜそんなぶっきらぼうな言い方をするんだろう、それじゃあますます葉山恭子に似て見えるじゃないか。僕は鞘から刀を抜いた。銀色に光る刀身があらわになった。おいとは一目散に逃げ出した。僕は追った。
僕は、公民館の周りを駆けるおいとをひたすらに追い回した。着物を着ていないせいか、いつも以上に彼女の足は速くて、追いかけつづけるにはかなりの気力を要した。呼び止めるための声も出せないほどだった。
そのうちまた参道に来た。「おいと、怖くないから」と僕がいうと、彼女は「おいとって誰よ」などとつぶやいたあと、公民館の戸を開け、その中に逃げ込んだ。僕もあとを追い玄関から入った。
玄関の鍵を閉めて逃げ道を塞ぐ。あかりのついた一階を見渡す。階段、廊下、カーテンで閉じられた各部屋、向かいのドア。それから、ゆっくりと女子トイレに歩み寄った。入り口の戸を開け中に入り電気をつける。思った通り、ひとつの個室だけドアがぴたりと閉まっていた。
「いるんだろ、出てこいよ。……何もしないからさぁ」
ドアを数回叩いてみたが、すぐにやめた。ドラマじゃないんだ、おいとはそんなことをしなくてもわかってくれる。
「ねぇ、そうなんだろ?」
直後、バン! という音と共に鼻筋をドアでしたたか打ちつけられた。あまりの痛みにこらえきれずその場に倒れて、手で拭ってみると大量の血がついていた。ドアを開けて出てきたおいとは、仰向きに倒れた僕の体に膝を立てて、馬乗りみたいな姿勢になって、強引に僕の手から刀を取り上げた。もうどうにも動けなかった。
「ぜんぶ幻想を見てたのよ、あんた」
吐き捨てるようにいわれた。僕は反射的にいい返した。
「じゃあこの刀は何だよ? 確かに賽銭箱の中にあったんだ」
便器の横に落ちていたそれを掴んで手に取り、葉山恭子の眼の前に突き出す。刀? 葉山恭子は首を傾げて眉をひそめた。
「どこからどう見たらそれ刀になんのよ」
糸のように細い指で僕の手元を示し、けたけたと笑う。
僕の手には円筒形に丸めた新聞紙が握られていた。唖然として暫く黙っていると、一言、葉山恭子が「ほらね、可哀想に。ずっと幻を追いかけてた」という。
「ねぇもう私帰っていい?」
しゃがんでいた葉山恭子はゆっくりと立ち上がり、ダウンジャケットのファスナーを上げた。僕はこくりと頷いた。
僕は誰の首も切れない。そんなこと、わかりきっていたはずなのに。
靴音をトイレ中に反響させながら葉山恭子は去っていったが、その腰に帯びていた白鞘の刀が一瞬だけぐしゃりと光ったことは、あえていわないでおいた。
初出:神谷京介短編集Ⅱ 星屑タロット (2010年3月)