永遠の寝床

 まだ息が白いと、ため息混じりに恭子が言っていたのをおぼろげに記憶している。久しぶりに寒さがぶり返した昨日のことだった。その日を境に、冬はゆっくりと明け始めた。
 窓を開けてみる。
 路面を見下ろし、そうして少しばかり視線を上に向ける。まだまだ日没だって早いもんだ、もう空の下側は赤く染まるんだから。 
 それからずっと、二階の自分の部屋から外を見ていた。気づけば景色が薄青く、誰かが道路の真ん中に立っていて、僕を仰ぎ見ている。
「あ、おかえり、恭子」
 せっかく二日ぶりに声をかけてやったのに、彼女は頷くでもなく、手を振るでもなく、ただ玄関へと急かし込みながら入ってこようとする。僕は「ちょっと待って」と言い、恭子の足を止めた。
「なによォ、寒いんだから早く家上がらせて」
「あーわかった、でもさ、その前にちょっとローソン寄ってきてくれない? お金あげるから」
「やだ」
 恭子はにんまり笑いながら即答する。相変わらずちっこい背丈で。中学生になりたてくらいの頃から高校一年生になった現在まで、あまり成長もしてないような気がする。本人にとってはそれがひとつの悩みの種らしいけれど。
「真一さん」
 彼女は最近僕のことを名前で呼ぶようになった。お兄ちゃん、と呼びかけられることなんて今では二週間に一度くらいのものだ。僕は首を傾げて、彼女の方を眺める。
 恭子はそのあとなにか言おうとぱっくり口を開けたが、直前で目の前を自動車が横切って、そのせいで気が削がれてしまったらしい。今度こそ家に上がってこようとしている彼女を僕はもう一度引き留めた。
「なにー? まだなんか用?」
 僕は窓際にあった青いスーパーボールを手に持ち、下にいる彼女に示す。そのまま下に軽く投げてみた。恭子は「きゃあッ」という嬌声に近い声を上げて、路上を高く跳ねるそれを追いかけて捕まえようとする。ほどなく、スーパーボールは隣家の庭の茂みに入ってどこかへ隠れてしまった。

 リビングに下りていくと、恭子がソファに腰掛けてテレビを観ていた。「朝青龍、引退するんだって」と今知ったみたいに言う。座っていい? と訊くと、僕を見ずに黙って首を縦に振った。
 だいたいの日常的なパターンとして、恭子は僕が腰を落ち着けた三分後くらいに口を開き、今日学校であった出来事なんかを話してくれる。二言、三言くらいのもんだけど、特に義務的なきらいもなく淡々と喋ってくれる。
「つかさと写真屋さんに行って」というのもお決まりのパターンだ。写真の現像がすむまでの待ち時間、店のソファに座って二人で同じ本を読むのが、彼女たちなりの数少ない楽しみらしい。
「なに読んでたんだっけ」 
 砂の女、とそっけなく答える恭子。天井の照明がパチパチと不安定に揺れた。変えなきゃ、と思う。この家に男は僕一人しかいない。
 顔を覗くといつもくすぐったそうに笑う恭子。嫌じゃないんだろうか、このくらいの年代なのに、とオヤジっぽいことさえ思ってしまうが、育ちがいいのか何なのか、今日まで特に兄妹間の仲違いなどなく平和に暮らしてきた。
「やっぱり違う」と僕は言う。
「なに、あたしの顔?」
「うん」
 恭子は表情も変えずに首を傾げる。こういう仕草も僕から盗んだんだろうか、と思う。昨日の夜見た夢なんだけどさ、と僕は弁解するように言った。
「なんかね、走ってんのよ、俺が。たぶん学校に向かってなんだけど。そしたらいつのまにか学校に着いて、それでね俺なにも考えずひたすら階段上がるんだ」
「学校の中の階段」
「うん。そんで、二階? か三階のどっかの教室まで来て、そしたら目の前に捜してた人が、あ、制服着た女の人なんだけど、立ってるんだ。その人が、誰だかわかんないのが問題なんだけど」
「顔とか見なかったの?」
「いや、見たよ。でも起きたら一瞬で忘れた。すっごい捜してたんだってことは憶えてるんだけど」
「ふうん、それで?」
 この夢にははっきり憶えているつづきがあるのだが、あえて言わないで「それで終わり」と話を切った。
「そいつが、なんか恭子にも似てたような気がして」
「だけど違ってたんでしょ」
「でもね、微妙に似てるような気もするんですよこれが」
 はは、と笑う僕。恭子にさえ仮面を被って接してしまう自分がその瞬間たまらなく汚いものに思えた。
 ソファを離れて自分の部屋に戻ろうとすると、
「真一さん彼女作らないの」
 と、的確に痛いところを突いてきた。
 降参のポーズみたいに両手を上げて、「恭子がいるだけで十分なんですよ、僕」
「あたし最近彼氏できたんだ」
「……うそだぁ、うそォ」
「うそでーす。彼氏ができたのは、つかさの方」
 静羽さんとのことを訊きたいんだろうか、そう暗に思う。

 最近、女と二人でいる夢ばかり見る。誰もいない学校の中で二人きりの鬼ごっこをしたり、熱で寝込んでいるらしい僕を介抱してくれる女がいたり、アルプスの少女ハイジに出てくるような長いブランコに二人で乗ってみたり。それぞれみんな違う人で。そしてきわめつけが、さっき恭子に話したあの夢。あの女は静羽さんだろうか、と僕は思う。違うような気もする。
 一瞬しか見なかった面差し、あの顔を見ることが、つまり僕にとっての幸福なんだろうか。
 色々考えて悶々とするのにも飽きてきたので、また自分の部屋にこもり、黙々、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み続けた。

 三年生最終登校日の朝、校門の前に立っていたのは福原先生だった。いい一日になりそうだった。
 ステッカーを貼ってない自転車で学校に来た時にその日がたまたま指導の期間で、そこでちょっと生意気な態度を取ったばっかりに僕は泣きそうになるほど谷沢に怒られた。その(刈り上げた頭の特にサイド部分がうっとうしい谷沢の)横にずっといたのが、当時まだ新任になって間もない頃の福原真弓先生で、谷沢が去って行ったあとこっそりなぐさめてくれて以来、彼女に恋してしまったっていう感じだ。
 ひょっとしたら夢で見た女はこの人なのかもしれない、と僕は福原先生におはようございますを返しながら思った。
 誰なんだろう、とそればかりずっと授業中も休み時間中も考えていた。あの女は誰だろう、誰でもないんだろうか、要するに世間一般でいう象徴ってやつなんだろうか。別にわざわざ暗示的に仕立ててくれなくてもいいのにな。 
 小説の執筆、というものを覚えて以来のここ一、二年、僕の頭の中は芸術と文学と記憶のことにしか使われていなかったような気がする。高一ぐらいの頃はまだ「普段は無口だけど前に立たせると面白いことする奴」みたいなポジションがクラス内であったのかもしれないが、今となってはそれすら面倒くさくなりひたすら誰とも話さなくなった。ひょっとすると、僕をまともに相手してくれる人は恭子しかいないのかもしれない。
 廊下で福原先生とすれ違った。おもわずその小さな華奢な肩にふれようとしてみたが、僕が指をほんの少し動かす間に二メートル近く距離を離されてしまった。一日の楽しみは、これで全て終わった。
 
 現在、夜の十一時。部屋は真っ暗だがパソコンの明かりだけがついている。執筆が一向に進まない。かといって特別なにかいいアイディアをひねりだそうと己の頭脳に鞭打つでもなくただぼーっとしていると、なぜだかますます目が冴えてきた。電気つけないと目が悪くなるよ、と恭子は注意してくれるけれど、やっぱり僕も一応は作家の端くれだから、太宰治や芥川龍之介のように自分の体のことなんて気に留めずひたすら破滅的な生活を送る孤独な文士に憧れたりもするのだ。とはいえ長いことじっと画面を見ていたら本当に目が潰れてしまいそうになってきたけど、それだってどうせ眠気のせいだろう。別に酒もタバコもドラッグもやらないけれど小説だけは書く。この世の終わりみたいな滅茶苦茶にすごい小説だって僕は書く。夢の中で見たあの美しい女たちをきちんと文章にまとめられる日が来るまで、僕は小説を書き続ける。たぶんそれが僕なりの社会貢献だろう。わかりにくいかな。
「真一さーん」
 恭子の声。ノックの音もする。僕は電気をつけてドアを開けた。パジャマ姿の恭子がそこに立っていた。
「入っていい? でしょ?」
 ほぼ命令形じゃん、と心の内でつっこみながらも、嬉しくてつい「どうぞ」と招き入れてしまう。
 恭子は座り込んだまま壁にもたれて、僕のコンポでCDを聴いた。ドビュッシーは僕が一年前に気まぐれで買ったものだが、今では恭子の方が気に入って何度も何度も聴いている。別にコンポごと持ってってもいいよ、と僕は言うのだが恭子はその度に首を振って拒む。「アラベスク」という曲がかかっている。僕は再びパソコンに正対して、気の向くままにキーボードを打ち続けた。
 僕も恭子も基本的に社交的とは言い難い性格をしているけれど、お互いそんなことはわかりきっているので無理に喋ろうとはしない。というか、何を差し置いても「静かなこと」がきっと二人とも一番好きなのだ。
 いつか恋人ができたならそれは恭子みたいな人がいい、そう思い始めたのはどれくらい前からだろう。
「恭子」 
 うん? と彼女はこっちを振り向く。
「俺はこうやって、やりたい放題に生きてるけどさ、なんつーか……」
 言葉が出なくて、いつもの癖でうなじの辺りを掻いてしまう。「あれ? こんなトーン嫌?」
「ううん、別に」
 肝心な時に恭子は愛想笑いを忘れる。そういうとこも好きだ、と僕は思う。
「お兄ちゃん、なんか学校で嫌なことでもあった?」
 恭子はコンポの音量を少しだけ下げた。小さな咳をした。僕の方を見て首を傾げている。
「別にー? なにもないよ」
 なるたけつよがる僕に、恭子はくすりと笑いかけた。
「そんなこと言って、本当は慰めて欲しいんでしょ」だいたいわかるもん、あたし。
 彼女の顔をまじまじと眺め、今日一日で一度も笑っていなかった自分に気づく。
「真一さんすっごく可愛い。撫でてあげたい」 
 恭子はまたそうやってお節介をやく。精一杯、自分が思ったことを表現したつもりなんだろう。まさか、からかってるわけじゃあるまいし。

 表現ってなんだろう。
 それは僕が小説を書き始めた当初からの大いなる謎で、死ぬまでには解いてみたいのだけど、逆に一生謎のままであって欲しいという願いもある、要するに難しい謎なのであった。
 恭子の表現が特に好きだ。それはカラオケで無理して喉から高いキーの音を出す様にも似ている。なけなしで、可愛らしくて、おもわずちゃんと受け止めたくなる。きっとそれは一種の才能なのだと思う。別にアーティスティックなもの、たとえば音楽とか絵画とか小説とかだけが表現というわけではないのだ。かといって人間に固有のものでもない。動物、建築物、音楽、体、風景。全ては表現でしか生まれないんだと僕は思うんだけど、ホントのところどうなんだろうね。 
 誰が表現したのかは定かじゃないけれど、街の景色は今日もきれいだった。

「えっ……と、どれにしようかな……」
 誰にともなく無意識に呟いてしまう。この癖はそう簡単に直るもんじゃないし、直そうという気もない。メニューをさらさらとあてどなく眺めるが、結局いつものやつということで、
「てりやき……の、セット」
「はい」と店員はよく通る声で。
「えー……で、……これ」僕はメニューをそのまま指差す。
「はい。お飲み物はQooの白ぶどうで」
「はい」
「以上でよろしいですか」
「はい」
「こちらでお召し上がりですか?」
「……いや、……こっちで、食べます」
「……では、こちらでお召し上がりで、よろしいでしょうか?」
「ああ? あ、はい」
「五百八十円になります」
「…………」
「五百八十円になりまーす……」
 僕は千円札を出してそこに置いた。
 てりやきマックバーガーセットを持ってとりあえず二階に行くが、人がいっぱいだったので断念して下りて、一階の一番ひっそりした席に座った。ふうっと息を吐いた。包み紙を開いて中身を食べた。
 親子なのかそれとも先生と生徒なのかよくわからないが(親子だとして、あんなにあけすけに話せるもんなのか)、その窓際のテーブルには、眼鏡をかけて髪を一本縛りにした中年女性、茶髪で黒いダウンジャケットを着ているかすれ声の若い女、どうも受験を控えた中学生らしいオレンジ色のパーカーを着た背の高い男の子の三人が食事をするのも忘れ話し込んでいた。僕は隅っこの白いテーブルにてりやきマックバーガーセットを広げてもしゃもしゃとほおばっているが、非常にうまいのだ、これが。ドリンクにQooの白ぶどう味をチョイスしたのは失敗だったが、それでもまあいいや。
「……その時にちゃんとアピールするのよ、(ボランティア活動)してますって。そうじゃないと報告書に書いてもらえないかもしれないから」 
 中年女性は笑みを含ませながら男の子に訥々と語りかける。男の子は案外真剣に聞いていて、声こそ出さないがしきりに小さく頷いている。
「山本? だっけ、あ、山口か(気に入らないバイトの同僚について話しているらしい)。あいつマジで嫌い、文句ばっかだもん」とは若い茶髪の女。男の子の姉かなにかだろうか。 
 その席からふたつ間隔を開けたところに、中年男性とお兄さんの中間くらいの中途半端な年齢に見えるスポーツ刈りの男が座った。紙に包まれたハンバーガーを食べようともせず、トレイを前に寄せてメモ帳を開いて長々と綴り始めた。おおかた仕事かなにかだろう。ポエムとか書いてたら面白いのになぁ、と思う。そして自分は自分でてりやきマックバーガー最後のひとかけらをぱくり。あぁおいしい。こんなもんが世界の幸せの全てだったらいいのに。
「タバコは絶対だめよ?」と例の三人組を取り仕切る中年女性が言う。「健康な若い体なんだから」
 また続けて、
「(高校三年間は)色々締めつけられることがあって不自由するかもしれないけど、それが終わったらもう、自分の身は自分でっていうか、自分の責任で一応はなんでもやれるから。我慢ってわけじゃないけど、ほら、学生はそういうもんじゃない」
 などと早口で。ポテトもおいしい。どうやったってオシャレに食べるどころかどんどん入るだけ口に運んでしまう。
 向かいの窓から道路を走る車が見え隠れしながら過ぎ去っていく。時間も時間なので、景色は灰色にかすんでいる。
 暮れ方の空の下に街灯のオレンジが灯っていく、そんな風景が好きだ。別にどんな象徴を示してるわけでもないし正直恭子を見ている方が好きなのだが、それでもその景色は僕にとってたしかに譲れないものなのだ。
 そんなことを考えながら、氷の感触が当たるまでジュースを飲み続ける孤独な僕。迫る暮色。

 また恭子が僕の部屋に来た。明かりをつけたままベッドの上でまどろんでいたら急にノックの音がして、あ、変なことやってる最中じゃなくてよかったな、とか思ったり。
「またぼーっとしてる、真一さん」
 恭子にそう言われてやっと、自分の名前がそれであることに気づく。僕は彼女に、今日も同じようにぼーっとしてた出来事があったこと(マクドナルドで店員さんに同じ台詞を二回言わせる等)を話してやった。特別面白いわけでもない僕の話にも、けたけたと静かに笑ってくれていた。
 いつのまにか恭子が僕の隣まで来ていた。ベッドの上に横座りしている恭子。僕の枕を手で叩いている。間の抜けた軽い音が出る。
 僕がちらりと眺めやると、彼女は握りこぶしもうひとつ分ほど身を摺り寄せてきて、小さく笑った。
「なんか……おままごとみたいだ」
 僕はおかしくなってそう言う。恭子は僕の二の腕辺りをぱしんと打って、あたしは真剣なの、と。
「真一さん正直に言って」
「え」
「……あたしの裸って、見てみたい?」
 ファンヒーターが立てるわずかな音。二人分足元だけあたたかいのが、首を傾げたくなるほどおかしい。恭子はそのスイッチを切り、僕の方を見て、それからまたスイッチをつけようと手を伸ばして、やめた。その様子を見て笑った僕の肩をまた叩いた。
「ちゃんと聞いてた?」恭子が僕をにらむ。
「うん」
 ずっと黙っている内、どうしても恭子を抱きしめたくなってきたけど、それだってなんだか都合がよすぎる気がして、踏み込めなかった。だから僕はダメなんだよね、昔からいつもそんな感じで。  
「財布落としたんだって?」
「え、なんでお兄ちゃん知ってんの」
「下で母さんと話してたじゃん、トンネル抜けたらあったとかなかったとか、自動販売機まではあったとかなかったとか。…………俺、明日捜してくるよ、どうせヒマだから」
「ホント? ありがとー。あたし学校休んでまで捜そうかと思ってたんだぁ」
 学校を休んで「まで」とか言っても、お前しょっちゅうサボってるじゃん、とは僕の心の中の言葉。
 
 なので現在朝の十時、宇津野トンネルを抜けて国道を脇に曲がったところにある孕西町まで来ている。自転車のタイヤがパンクして使えないことを忘れていたためここまで歩いてきたけれど、足元の地面を見ながらだったら自転車より歩きの方がましだと思う。空はちゃんと晴れていて、誰も通らない路面はまばゆい銀色に光っていた。
 昨日の夜、恭子のその体をなるべくそっと抱きしめてみた。思ったとおりの感触、いい匂いがした。なんだか夢みたいだったから、その幻影を振り払うみたく、いっそう回した両腕に力を入れた。テレビでは、美容整形に失敗した女が立ち直るまでのドキュメントを面白おかしく綴った再現VTRが流れていた。
「真一さん大好き」恭子は僕の耳元でそうささやいた。
 これ、(小説の)ネタになるかなぁ……そんなことを呟いたりしながら、昨日の雨でまだ濡れている細く小さな道を歩いていった。
 あと一箇月とちょっとすれば、僕は就職先の広島へと出て行くのだけど、そしたらもう恭子のことを思ってこんなセンチメンタルな気持ちになんてなれないんだろうか。だとしたら、それはなにやらさみしいぞ。
 この冬が終わればすぐに、僕はつまらない不自由な世界に溶け込んでいく。そう思って正解ですよね、たぶん。
「あ」
 がま口の……あった。一応中身をちらっと見たが、金が抜き取られたりはしていなかった。時計を見ると、もう正午過ぎだった。もうちょっと歩いていたかったな、と僕は思う。ここの風景だっていずれは見れなくなるんだから。

 下の部屋から母さんと恭子の話し声が聞こえる。真一さんが、とか言ってたのでおおかた財布の件だろう。ちょっとは僕も人の役に立てるんだな、と誇らしげな気持ちになる。
 ノックの音がした。どーぞ、僕が言うとすぐに恭子は入ってきた。今日初めて見る彼女の顔だった。
「ありがとね、財布。お金もカードも無事だった」
「ああ……」
 僕はファンヒーターのスイッチをつける。ほどなくして、足元が生温かくなる。
 今こそ「真一さん可愛い」って言って欲しいのに、恭子はそのままそそくさと部屋を出て行ってしまった。ドビュッシーを聴いてたらだんだん眠たくなってきて、もう書きかけの小説も恭子との駆け引きも全部どうでもよくなってきて、寝た。

 僕はおかしな夢を見た。薄暗い森の奥で眠っていた王女様っぽい人を見つける、という夢だ。
 木々の端々が金色に光っていて森の緑と奇妙に溶け合っていた。りんぷんみたいな銀色の粉が空気に流れて漂っていた。矢印が示す方向とは逆の道に行くと、泡ひとつ立たない澄んだ青い泉があって、僕は歩いている途中でその水を飲んだ。変に塩辛かった。
 赤い光の帯が足元をくるくる回り、やがて血のように森中を駆け巡り始めた。僕がその後を追って走ると、手術台みたいな檜のベッドを見つけて、その上でぼろきれのドレスを着た少女が眠っていた。ぐるりと回りを囲っているのは林檎の木。小さなコテージが隅にある。
 僕は彼女の下に歩み寄って行った。傍まで近づいても、息ひとつ乱さず静かに眠り込んでいた。閉じられたそのふたつの瞼がとても白く透きとおっていた。
 僕はその少女の顔に唇を近づける。重なったと思った瞬間、目がさめた。 
「あ、起きた」と恭子は言う。「お兄ちゃん、ヤバいくらいうなされてたよ」
 僕は何のためらいもなく彼女の体にしがみついた。自分の手はその体からずり落ちそうだった。恭子はそんな僕の手を取って、指のひとつひとつにキスをしてくれた。
 僕は泣いていたのだと思う。恭子も涙をしとしと流していた。僕らは涙と汗が混じった冷たい体で何度も抱き合った。
 恭子は昔から怖がりだった。お化け屋敷はもちろん、僕の友達について来て薄暗い小山に登ったりしたあの夏の日も、子供だった僕には不思議なくらい彼女は怖がって泣いていた。友達は、お前の妹泣き虫だな、とにやにや笑った。それが悔しくて、僕は「怖くないよ」と恭子に何回も諭した。すると結局、恭子はいつも僕たちについて来る。僕のシャツの袖をつまんで、ぐすぐすと鼻水をすすりながら、いつだって一歩後ろから。
 一番の怖がりは僕だったことが、最近やっとわかってきたところだ。
 恭子の体はとても冷たかった。だからとても怖くなった。もっと体温が欲しいと思った。するとまた涙が出てきた。また二人抱き合った。際限なく繰り返していた。息苦しくなって、水が欲しくなって、おもわず恭子の体から流れてる汗を舐めた。
 怖いよ、怖いよ、怖いよ、僕がそう言うと、
 わかってる、わかってる、わかってる、言葉でも仕草でもなく、彼女はそういうあたたかさを僕に示した。きつく抱きしめた。
 そこで、今度こそ本当に目がさめた。
 部屋には僕一人きり。
 布団を剥ぐともう外は明るくて、向かいの土地の工事の騒音もずっと響いていた。無意識に枕元のリモコンを取って暖房をつける。
 僕は、自分を剥き出しにできる場所が欲しかっただけなのかもしれない。恭子には悪いことしたな、今も昔も。たぶんこれから先も、誰に心を開くでもなく、ただ夢の中で理想をこねくり回し続けるだろう。
 部屋の中の寒さが和らぐまで、布団を頭から被ってやり過ごしていよう。
 


初出:神谷京介短編集Ⅱ 星屑タロット (2010年3月)