墜落の瞬間を見たわけじゃない。学校の帰り、いつものとおりそのマンションに寄ろうとしたらどうしてだか階下に人だかりができていて、訊ねると、「自転車ごと、屋上からおちて、即死だった」。
まもなく救急車が来て、よくわからないゴムの塊みたいなものを担架に乗せて道路のはしに消えていった。あとで聞いたのだけれど、やっぱりそれはシエルさんの亡骸だったらしい。
ぼくはそのあとまっすぐ家に帰って、台所でキャベツを切っていたママに、「シエルさんが死んだよ」と言った。ママは、そう、という一言だけで、特別驚きもしなかった。もう誰かから聞いたあとだったのかもしれない。ぼくはそのままソファに腰掛けてテレビをつけた。ちっとも面白くなかったから、音量を大きくしたり小さくしたりして遊んだ。いつもならそんなことをするとすぐおこられるのに、ママは何も言わなかった。ぼくは音量をゼロにしたままテレビの電源を消した。
涙は出なかった。
ああ、シエルさん失敗したんだな、と思っただけだった。
次の日、ロミエが三週間ぶりに登校してきたのにはみんなが驚いた。ロミエはそんなみんなの視線を少しも気にしないで、黙っていちばんはじっこの自分の席についた。窓から吹く風で、その髪がひとつずつささやかにゆれておちた。
ロミエはふしぎな女の子だ。たまにこうして学校に来る日があるかと思えば、その日は授業中も休み時間もずっと、小さな字がびっしりつまったむずかしそうな本を読んでいる。誰ともしゃべらないせいで友達もいないくせに、なぜかいつも堂々としている(そこがいちばんふしぎなところだ)。教室の中でいじめの現場を見つけると、それが男子でも女子でもかまわず「だめだよっ」と大きな声でとがめて、そのたび先生に報告する。それから自分の席にもどってまた本を読む。そんなふうだから来るたび女子のやつらに筆箱を隠されたり体操服を隠されたりするけれど、どんなことをされても黙ってけろりとしている。自分がいじめられていることはなぜか先生に言わないらしく、だからいじめのことはクラス内の生徒以外には知られていない。
それからもうひとつ。ロミエが学校に来る日は、なぜかいつも昼から雨が降る。だからロミエが来るとみんなはがっかりする。傘を持ってきてないからだ。
昼休みのあとの算数の授業中、やっぱり雨は降りはじめた。みんなは、はぁとため息をつきながらロミエをうらんだ。ロミエはぼくの隣の席なので、ふいにみんなの視線がぼくのほうに寄り集まった気がしてこわくなったけれど、もちろんみんなロミエを見ていたのだ。
いちばん前の席の一輝が、ぴいんと手を伸ばした。先生がそれを見て「じゃあ一輝くん」と言った。すると、
「トイレに行ってもいいですかー?」と一輝は言った。
みんなはいっせいに笑った。黒板に書いてある問題の答えを解いてくれるものだと思って、先生は一輝を指名したのに。それでも先生は満足げに笑いながら「いってらっしゃい」と言った。
そのあいだも、隣にいるロミエは興味の素振りもなく、机の中に隠した本にじっと目をそそいでいた。ときどき、咳をした。喉が渇いているときの音だった。部屋の中の空気は逆に雨のせいで湿っぽくなってきて、ちょっと暑いくらいだった。男子の中で半そでの服を着ていないのはもはやぼくだけだった。
「帰りの会」のとき、珍しく先生がおこっていた。おこっている、というよりも、ふきげんそうな感じだった。先生は佐倉富美先生という名前で、学校の中ではにばんめにきれいでいちばん若い先生だった。
「今日はみんなに考えてもらいたいことがあるの」
と先生は言った。あ、これはまちがいなくロミエのことだな、と直感でわかった。それから先生が話しだしたのは、やっぱりロミエがいじめられていることについてだった。
先生の中で決められた主犯が、三人立たされた。彩加、千沙、智樹。ほんとはもっといるのだけど、この三人だけでやったと先生は思っているみたいだった。
「せっかくロミエちゃんががんばって学校に来てくれたのに、なんてことするの。あやまりなさい」
先生が顔を真っ赤にして一生けんめいにおこっているのに、当の本人であるロミエは、まるで他人事のようにその様子を眺めていた。膝の上にはやっぱり本が乗っている。
「そんなつもりじゃなかったの」
と、いつもロミエの筆箱を隠していた彩加が言った。「ただ、ロミエちゃんと遊びたかっただけだもん。だって、ロミエちゃんに『遊ぼうよ』って言っても無視されるんだよ? だから、どうしたら仲良くなれるのかわからなくなって、それで」
そこで急に彩加は泣き出して、がばりと机に顔をうずめてしまった。先生が近寄っても顔をあげようとしない。そのときの先生はとても困った顔をしていた。ぼくも、わたしも、と千沙、智樹が同じようなことを言って教室中がしんと静かになった。これがおじいちゃんが言っていた「水を打ったような」光景なのかとぼくは思い、それを目にすることができて少し得した気分になった。
「だいたい、彩加を無視したりするロミエも悪いんじゃないの」と、奈美が口を挟んだ。「『きょうちょうせい』がないのよ、こいつ」ロミエを指差して。
「人を指差すものじゃないっ」
と先生が言う。知らないし、と奈美は悪びれもしない。おれもそー思うっ、と誰かが大声で言ったのをきっかけに、ロミエをののしる言葉がどんどん教室中に広がっていった。ロミエは誰とも取り合わずに、黙って本を読んでいた。さっきよりもずっと騒がしくなり、先生の声もどこかに消え入るほどだった。そのうち終業のチャイムが鳴った。みんなは勝手にランドセルに荷物をつめ、先生の制止も聞かずに教室を出て行った。
教室には、ぼくと先生とそしてロミエだけが残った。先生は椅子にもたれかかるように腰掛けて、悲しそうなため息を吐いていた。ロミエはまだ本から目をそらさない。ぼくは教科書とノートをランドセルに放り込んで帰り支度をはじめた。
「ちょっと待って」
と先生が助けを請うように言った。ぼくは聞こえないふりをして、さっさと教室を出た。
廊下を歩いているあいだじゅう、ぼくは昨日死んでしまったシエルさんのことを考えていた。シエルさんの家のそばの小さな倉庫のことを思い出していた。羽のついた銀色の自転車、その手入れなどしているときのシエルさんの横顔。なにやらおおげさな機械を自転車に取り付けたりしているときのこなれた手の動き。ぼくはいつも倉庫のはじっこに立っていて、黙ってシエルさんの作業風景を見たり、壁に飾られたシエルさんとその前の奥さんと子どもが映っている写真を眺めたりしていた。シエルさんはその写真について一度も語ったことはなかった。ただうわさで聞いただけだ。
一時間ほどそこにいるとだんだんたいくつになってきて、ついにぼくは「家に帰る」と言う。シエルさんは、おお、と首を小刻みに振りつつ、じゃあな、とぼくに言う。
「飛ぶときはぼくに知らせてね」
そう言うと、シエルさんはまた、おお、と言いつつ、ペダルを軽く手で回す。すると、チェーンの動きに直結したうしろの羽がぱたぱた動く。
「健一くん」
靴箱の靴を取ろうとしたところで、声をかけられた。振り向くとその影はロミエだった。ロミエはぼくより少しだけ背が高い。
「なんだよ」とぼくは言った。
「お話したいことがあるの、案内したいところがあるの」
「どっちなんだよ」
「どっちも」
ぼくは靴を取り、逃げ去るように玄関を飛び出したが、すぐに捕まえられてしまった。運動神経がどうにも鈍いぼくなのだ。
「淺川シエルって知ってるでしょ。自転車で空飛ぼうとして失敗して、昨日死んだ人」
ふしぎなことに、今度は雨が上がっていた。曇り空から帯みたいな光がちょっとだけ、差している。
ロミエは歩きがのろかった。ぼくはその歩幅に合わせて、ひょこひょこと。足元も覚束なかった。
路地の真ん中の水たまり。みがかれたみたいに光って、虹さえひょこりと出てきそうだった。カーブミラーが映していたのはそこにいるぼくとロミエ。ぼくは冴えない顔をしていた。
そうこうしているうちに、シエルさんのアパートに着いた。見上げた先は、シエルさんが自転車で飛び立った屋上で、その真下のちょうど血痕が粒々になって付着しているマンホールの辺りが、落下して体を打ちつけた場所。
シエルさんと出会ってから、夜眠りにつく前に必ずひとつの空想をして遊ぶようになった。自分が透明になって、町中に溶け込んでいく空想。ママからも、パパからも、クラスメイトからも、先生からも忘れ去られて、自由に、いつまでも、町の景色をさまよう。ずっと一人きりで。
それはまるでシエルさんのようだった。
ロミエとぼくはそこにいて動かず、ただアパートだけを見つめていたけれど、やがて向こうから自転車に乗った男の人が近づいてきた。ロミエは、いけない、と言った。ママの口ぶりにそっくりだったけれど、そんなことを考えるひまもなくぼくはロミエに手を引っ張られ、アパートに備えつけられていたガレージに押し込まれた。ロミエもその中に入った。ロミエはシャッターを閉めようとしたけれど、力が足りなかったから、ぼくも手伝ってやっとのことシャッターはぴたりと下りた。真っ暗で、何も見えなかった。
「健一くん」
ロミエの声がした。
「いる?」
「いる」とぼくは答えた。
「怖くない?」
「怖くない」
「待ってね、今、あかりつけるから」
鞄をあさる音。それから、ぼうっとひとつだけあかりが灯った。ちっぽけなキャンドルが、ロミエのてのひらの上にあった。ロミエはキャンドルを隅っこに置いて、はっと息をついた。しゃがんでいるロミエのうしろ姿。くびれた背中と、その下の……。
「暗い?」
「暗い」
「わかった、もうちょっと増やすね」
たっぷり時間をかけて、ロミエはガレージの四隅にひとつずつキャンドルを灯していった。だんだんに明るくなって、ロミエの顔つきもはっきりとわかった。
外がにわかにざわざわと音を立てた。
「また、雨が降ってきたね」
ぼくは返事をしなかった。
「あたしのせい?」
「ちがう」
誰かがシャッターを外から叩いた。ぼくはおもわず身をちぢめた。その男は、開けろよ、と低い声でうなった。
「いやよ、ぜったいにいや」
「開けろってば。別に、こっちから無理やりこじ開けたっていいんだけどさ」
「いやだって言ってるでしょ」
「開けろって」
そのやりとりは同じように繰り返され、十分くらいつづいた。ずっと男に歯向かっていたロミエも、何度となく脅された末にとうとう泣き出した。シャッターの外の男はそれに気づいて、満足げにふふふと笑った。ぼくはロミエの肩をゆすって、開けようよ、と言った。すると、何にも言わずに手を払われた。ぼくは腹が立ってロミエの頭をはたいた。しくしくと涙を流し続けていた。キャンドルの明かりがついに事切れて、ひとつずつ、ゆっくりと闇に沈んでいった。ぼくはシャッターを開けた。やっと顔の見えたその男は、まだにやにやと笑っていた。黒一色のジャージを着て、短い髪はへんに油っぽかった。それから、ガムみたいなものを細かくきざむようにしつこく噛んでいた。男はうす暗いガレージの中をいちべつして、
「女の子は? どこ?」
そう訊ねるので、ぼくは隅にうずくまっているロミエを指差した。すると男はまっすぐぼくの指をたどってロミエを見据えた。ロミエは立とうともしない、ただ声を静めて泣いている。もうそこから、誰も動かなかった。男の指のひとつがぴくんと動いた。ぼくはそれを見たあと、ランドセルを背負って、それから走って家に帰った。男は分厚いくちびるを裂いて、またしてもふふと笑っていた。
土曜日はぼくのいちばん好きな日だった。ママが週に一度だけ、ゆっくり時間をかけて朝食を作ってくれるから。朝は、ママがぼくを起こしに階段を上がってくるうちにもう目がさめて、きっとわくわくしている。昨日の出来事なんてすっかり忘れていた。リビングに下りるとあたたかいにおいがした。ママの作ったフレンチトーストだった。舞い上がってしまったぼく、おもわずきゃあっと大声を出した。ママはくすりと笑っていた。
「ぼくも、ママみたいなフォークがいい」
ママはコーヒーカップに伸ばした手を止めて、銀色がいいの? と言った。
「だって子どもみたいじゃん」とぼくは言った。ぼくが今使っているのは、フォークもお箸もスプーンも、アニメキャラの装飾がついた白いプラスチック製のものだった。
「じゃあパパのを使ったら? ママとおんなじやつだから」
ぼくは嬉しくなって、食器棚まで短い距離なのにたんと駆けていった。パパがいつも使っている銀のフォークを掴み、それから少し気になって、「どうしておんなじやつ買ったの? 恥ずかしくないの?」と訊ねた。するとママは照れくさそうに、「結婚式のときに貰ったの」と言った。
朝食を食べ終わると自分の部屋にもどり、このあいだ買ったマンガを繰り返し読んだ。
玄関のチャイムが鳴った。誰とも遊ぶ約束をしていないから、ぼくとは関係のない人だろうと思った。ママが通販で買った洋服とかだろう、とぼくは思った。
下から、健ちゃん、とママの声がした。お客さんよ、健ちゃん。
下りていくと、ぼくよりもう少し小さいほどの女の子が玄関に立って、まんじりとこっちを見つめていた。
「お名前、なんていうの」
ママがその女の子に訊ねた。
「ラムコ」
「えっ?」
「桐島ラムコ」
「へぇー、珍しい名前ね」
ママはくすくすと笑いながら、じゃあ、と言いリビングに戻っていった。ぼくとラムコの二人きりになった。ラムコの背はぼくの胸にも届かないほどだった。
ラムコはぼくの目をじぃっと見つめていた。ずっとそれに気づかなかったぼくはふいを突かれてあわてたけれど、すぐに「なんだよ」と言った。
「つまんないの」
とラムコは呟いた。
「今日はお姉ちゃんの代理で来たの」
「だいり?」ぼくはその言葉を知らなかった。
ラムコは、いらだっているみたいにその顔をくっとゆがめて、
「もう、頭悪すぎ。お姉ちゃんのかわりに、ってこと!」
「お姉ちゃんって誰のこと」
ぼくがそう言うと、ラムコはもううんざりだというようにため息をついた。小さな女の子に似合わない、大人びた仕草だった。
「ロミエがあたしのお姉ちゃん。あたしはロミエの妹。名前でわかるでしょ、フツー」
だんだん、自分が馬鹿にされているのがわかってきて悔しくなった。だからぼくはせいいっぱいの威嚇をこめて、「あっそう」と言った。なにそれ、はたいて捨てるようにラムコは言った。
「あんたの気分なんて関係ないの。お姉ちゃんから大事なものを預かってるから。えっと、じゃあ公園行こっか。あんたのお母さんにばれるといけないから」
それはぼくの家のすぐ近くにある、コンビニよりも近い小さな公園だった。真夜中に遊具がきしるギィギィという音がすることがたまにあって、そのせいでちょっと前までは幽霊がいるんじゃないかとうわさされたこともある。ぼくはラムコにうながされるままベンチに腰掛けた。空はすっかり晴れていて、遠くの遊具を見ようとすると目がちかちかするほどだった。
「はい、これ」
リュックの中から一冊のノートを取り出し、ぼくの膝元に放り投げた。
「淺川シエルが毎日書いてた日記。あいつが死ぬ直前まで書かれてる。お姉ちゃん、よくわかんないけどこれ貰ったんだって」
ぼくはそれをぱらぱらとめくってみたが、漢字が多すぎて読めない。パパが仕事から帰ったあとにいつも読んでいる小説みたいだと思った。
「なんでくれるの?」
「知らないよぉ、お姉ちゃんにどうしても渡してきてって頼まれたからそうしたまでよ」
「なんであいつが自分で来ないの」
そう言うと、ラムコはとうとう呆れ果てたという表情をして、知らないの? と。
「知らない」
「昨日一緒だったんでしょ、淺川シエルのアパートの、ガレージで」
「うん」
いやにやさしくしてきたガレージの中のロミエをふと思い出す。
「あんたが帰ったあと、男に襲われたのよ、お姉ちゃん。そいつ、いつもお姉ちゃんのことつけてたらしいけど」
あいつのことだ、と咄嗟に思った。ずっと笑っていた、あの男の人。
「襲われた?」
「そう」
「けがとか、したの?」
「けが……うん、ちょっとね、腕をつねられたり、ほっぺたを叩かれたりしただけ」
「なんだ、じゃあ大丈夫じゃん」
ぼくは安心して、その程度のけがならなんでわざわざ妹を使うんだろうと不思議に思った。ラムコはもうそれ以上何も言わなかったけれど。
家に戻りテレビをつけるとニュースが流れていた。昨日の夕方五時頃、Kアパート前で、二十八歳の男が女子児童に暴行を加えた容疑で逮捕された、と。被害者の女子児童は精神的なショックのため、今も口が利けない状態だと、濁った灰色の声でニュースは言っていた。
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五月二十七日
また雨が降り始めた。このところいつも天候はこんな感じだ。というよりも、この町の天候がやはりどこか狂っているのだと思う。引っ越してきたばかりは、「お日様が出てるのに雨降ってる」と二人で言い合って面白がったような記憶もあるけれど。
今日は駆動系を若干微調整した。こないだはラジエーターに重点を置きすぎてえらいことになったからな。
五月二十八日
たぶん、雲の流れに人は追いつけないだろうと思う。そうであって欲しい。じゃないと、人が自然を敬う意味がなくなるじゃないか。
今日も駆動系を若干調整した。だいぶ反応がシャープになった。敏感すぎても困るが、まあこんなもんだろう。
五月二十九日
愛子が訪ねてきて、もう健一と会うのは止めて欲しいと言った。止めるも何も向こうから勝手に遊びにくるんだけどな、と言ってやった。正直あいつと会うのも疲れる。子ども相手なのに、どこまで手の内を曝け出していいのか、今どこまで喋っているのか、弱みを握られてやしないか、色々と心配になる。言葉は嫌いだ。誰も本当の意味をわからないからだ。うんざりするのにも、もう十年位前に飽きてしまっているが、それでも健一はやってくるし、はぁ、めんどくさい。
五月三十日
自分は生き急いでいるのだろうか。それとも他人から見れば、気ままに生きている人って風に映るのだろうか。何にせよ、今は誰とも会いたくない。今、健一が来たらレンチで殴っちゃうかもしれない。なんて、あるわけがないけれど。
今日は羽根の軽量化について設計図を見直しながら考えてみた。素材がどうこうじゃなくて、たぶん使う骨組みの本数だと思うのだが。
五月三十一日
すべてを諦めるとはどういうことだろう、とガキみたいなことをあらためて考えてみる。やっぱりそれは自殺だろうか。こうして何の職にも就かず、ただラビューンを作り続けているだけの今の生活は、たしかに諦めのお手本のようにも思える。ただ、なぜだか健一の目が気にかかる。熱心に見てくれているのだということはいくら俺でもわかるよ。この計画にすべての情熱を捧げて生きていると勘違いされてるんだろうな。
今日も設計図を書き直した。最小限の本数にしたがどうも頼りない。素材を変えてみようか。
六月一日
今日の雲は一段と早い。軽く引くぐらいだ。時の流れを感じる。――時の流れといえば、久々に窓の外から娘(ロミエのほう)を見つけて、あんまり大人びていたのでびっくりした。たぶん学校帰りなんだろう。女の子の成長は早い。俺はというと、相変わらず成長しているのは手足の爪くらいのもんだ。一週間に一度切れば、また元に戻るけど。
六月二日
今度はラムコのほうを見た。驚いたことに、こっちを見て手を振ってくれた。俺はそれに応えることもなく、窓を閉めて、真っ黒いカーテンをかけてそのまま寝た。ラムコはどんな思いをしただろう。あのおっさんやっぱシカトしたな、とか思ってんだろうか。
六月三日
今日も会社勤めの頃の夢を見て、ひーひー言いながら起きた。夢の中でまた俺は遅刻して、時計がゆっくり進むのにも堪えきれずついに発狂してしまった。当然、あとで怒られるはずなのだが、そういう時に限って出社する手前に目が覚めるのだ。命拾いなのか、生殺しなのか。
六月四日
俺がラビューンを作っていることに関して、晴香が娘たちに長々と語って聞かせたそうで、それを報告するためにわざわざこっちまで出向いてきてくれた。「飛行用自転車はお父さんがずっと追い続けていた夢なのよ」とか何とかどうせ言ったんだろう。相変わらず頭が足りん奴だ。お前が俺を救ってくれなかったせいで俺は、とまぁこんなところで愚痴ってもしょうがないから止めておこう。
六月五日
今更言いたくもないが、三十過ぎてさえ怖いものは怖い。足元から崩れてしまうとかそんな生易しいもんでもなくて、ただ怖い。俺は娘たちに謝ったり土下座したりする気は毛頭なくて、それはもちろん晴香に対しても愛子に対しても間違いなく同じ気持ちだが、やっぱりそいつらに俺を忘れられるのはなんだかんだで怖い。あと健一か。こいつらに忘れ去られる前に、飛ばなくちゃ。絶対にラビューンを完成させなくちゃ。
生きた証とかそんなたいそうなものじゃなくて、ただ寂しいから作ってるだけなんだけど、それでもやっぱり完成はさせたい。焦りすぎたらどうせ失敗するだろうから、そろそろ気を落ち着けよう。勝負の日はもうすぐだ。
六月六日
幸福を求める人はけしてそのとおりにならない。本当に幸福な人は、自分がどの地点に着地すればいいのかをきちんと心得ているはずだ。
別に、幸福探しに飛び回ったりするためにラビューンを使うんじゃない。俺はただ、自分が覚えている限りの幸福な記憶、それを再生するためにならなんだってしようと、そう思ってラビューンを作っているだけだ。なのに、人はそれを必要以上に賞賛し、オマケに必要以上の侮蔑をぶつける。自分の無能さを認めたくないから、そういう象徴みたいなものにすがりつつ、撫でたり引っかいたりする。どっちも同じことをしてるのに、それに気づかない。
宙ぶらりんの俺は、もうすぐ壊れてしまう。今度こそ本当に。
やっと、そこらへんに気がついた私なのです。
もう、何をしてさえ幸福にさわることはできない。
そこらへんに気がついたのです。
おわらいだな、はは。
うん。
えーと。
こころが静まらないんですけど、どうしたらいいんですか。
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ぼくはひとばん中、シエルさんの日記を眺めていた。その日がぼくにとって、寝ずに越したはじめての夜。とても長く、静かだったことを覚えている。難しい漢字が読めないことはわかりきっていたから、字はひとつも追わなかった。ただ、ぱらぱらとめくって眺めるだけ。無限の時間、そうして遊んでいた。ロミエのことやその妹――名前は忘れたなぁ――のことを思い出しながら。
夜はとても長く、静かだった。
気がついたら朝になっていた。ぼくは起き上がり、日記を片手にリビングへと下りていった。ソファには珍しくパパが座っていた。ちょうどいいところにいた、ぼくは日記に書いてあった「幸福」という文字を指して、なんて読むの? とパパに訊ねた。
「こうふく、だよ」
「こーふく」
「うん」
パパは、世の中のたくさんのパパに似ずとてもやさしい。分厚い小説と昔の白黒映画が好きで、何をしてもめったにおこらない。俺は平和主義者だからな、がくちぐせだ。
「どういう意味?」
ぼくはパパの目をのぞきながら言った。するとパパはぼくからゆっくり目を逸らして、
「うーん、難しいこと訊くんだなぁ。こういうことはママのほうがよく知ってるよ。パパは人生経験が浅いからね」
また、難しい言葉を使った。じんせいけいけん。
「でも、これだけは言える」と、パパは急に胸を張りはじめた。「あのな、もし健一が誰かに同じ質問をしたとする。『あなたにとって幸福とはなんですか』って。そのとき、そう問われてすぐに答えることのできるのは、よっぽど幸福な奴か、よっぽど馬鹿な奴か。そのどっちかなんだな」
「うん」
「大人になったら、誰でもいいからそう質問してみな。たいてい、パパみたいに困っちゃうだろうけど」
ママ、幸福ってなに?
ぼくは台所で朝食を作っているママに訊ねた。ちょうど、トマトを包丁で切っているところだった。
「健一とパパとあたしの、三人で暮らせることよ。だからあたしは、今がいちばん幸福」
ママはこっちを振り向きもせず、あっさりと答えた。たぶん、今までの会話は聞こえていないはずなのに。
「愛子はやっぱり強いよな。なんか、俺の母さんにだんだん似てきた」
パパは、久しぶりにママを名前で読んだ。ママは、あんたの気が利かないからよ、と笑いながら言っていた。だけど、お兄ちゃんのことは誰も話そうとしなかった。きっとそれは我が家の永遠の秘密なのだ。ぼくはもう一度、シエルさんの日記に書かれた「幸福」という文字に目をそそいだ。いびつに潰れていて、とても幸福そうには見えなかったけれど。
❖
わたしはもう外の世界で生きるのをやめることにします。やさしい母親が、それをゆるしてくれたから。きっと、今の健一くんには難しいだろうけど、ちゃんと理解するのは大人になってからで構わないと思う。だから今からもうちょっと詳しいことを書きます。
淺川シエルはわたしの実の父親です。だけど、一緒に暮らしていた頃の記憶はわたしにはありません。それもそのはずで、両親は、妹のラムコ(このあいだはこの子がお世話になりました)が生まれてすぐに離婚したのだそうです。わたしはその話を直接聞いたわけでもないのに、なんとなく知っていました。そして、あなたがしょっちゅう淺川シエルと会っていたことも……なんとなく、知っていました。
あなたにとって彼がどういう存在だったのかはわからないし、余計な感情を持ち出して思い出に傷をつけるつもりもないけれど、少なくともわたしにとっての淺川シエルは、母――桐島晴香――のこころを壊した、母をでくのぼうにしてしまった、単なるきたない男です。母は枕元でしょっちゅう彼との昔話を持ち出しては、お父さんみたいな良い人はそういないからね、あなたも良いお婿さんを探すのよ、と微笑んでいました。
前置きが長くなりましたが、ずっと言いたかったことを今からここにしたためます。淺川シエルを殺したのはわたしです。
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六月七日
昨日、娘のロミエ(長女のほう)が訪ねてきた。もちろん驚いて、最初のうちは何にも話せなかった。とても大人になった彼女は、ほとんど完成に近いラビューンを興味深げに眺めては、「すごいね」と呟いていた。なんだろう、今更俺に取り入ろうとするなんて、家出でもしたんなら他に行くあてくらいありそうなものなのにな、などと考えつつ、丁寧にひとつひとつの部位を説明してやったり、実際に(健一が来た時のように)羽根をパタパタ動かしてみせたりした。不思議な時間だった。というより、夢のような心地がした。この子は俺のことをどう思っているんだろうか、なんてずっとこねくりまわして思い悩んでいたことがうそのように、その日の彼女はとてもきれいだった。自転車のパーツに手を伸ばしているうち彼女の指は油で真っ黒になった。飛ぶところを見せて、と彼女は言った。俺は承諾した。「あたし、お父さんのことゆるそうと思ってるの」と彼女は言った。
「まあまあ、ちょっと待てよ」と俺は言い、この部屋に逃げ込み、今この日記を書いている。飛ぼうか、やめとこうか、悩んでいる。
これは現実のことなのかどうかさえ判然としない。この俺が誰かにゆるされるなんて、そんなことありえるのだろうか。
とりあえず、今は彼女に身をゆだねてみようと思っている。たとえ嘘だとしたって、今以上の幸福はたぶんないだろうからもう早いとこ飛行をきめて、さっさと死んでしまいたい。
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淺川シエルが自転車に乗ったまま空中に飛び出し、そして地におちて死んだ日の前日、わたしは彼のアパートを訪ねました。わたしは「仲直りしたい」などという言葉もあえて使わず、まるでしょっちゅうやって来る友達のようにふるまいました。困惑気味の彼でしたが、やがて、おそるおそるといった感じで部屋に入れてくれました。「ちょっと散らかってるけど」と言っていたけれど、部屋の中は、ちょっとどころじゃなくもう足の踏み場もないほどでした。鉄屑みたいな自転車の部品と、何度も何度も書き直したらしい設計図が書かれた紙がうずたかく積まれていて、わたしがそれにさわろうとすると露骨に迷惑そうな顔をされました。
「興味ある?」と、おわびみたいな調子で彼が苦笑混じりに言ったので、
「別に」と、わたしも笑いながら返しました。
淺川シエルはそれから、飛行用自転車の構造や原理について詳しく教えてくれました。『ラビューン』という名をその自転車につけたのだそうです。
「『ラ』行が好きなのね」とわたしは言いました。どうして? と彼が訊くのでわたしは、わたしと妹とついでに母の名前にも同じく「ラ」行の文字がついていることなどを話しました。わかっているはずなのにそらとぼけて、と思っていたけれど、どうやら本当に気がついてないみたいでした。
尽きることのない飛行用自転車『ラビューン』についての話は、いよいよ動力部に差しかかりました。そのときは淺川シエルをおとしいれようなんてこれっぽっちも考えていなかったわたしでさえ、いちばん複雑な構造を持つ動力部の話は熱心に聞くことができました。だってあんなに楽しそうに話すものだから、聞いてあげないとかわいそうだぐらいに思えてきて。
動力部はとてもデリケートで、部品がひとつ外れたり線が抜けたりするだけでたちまちラビューンの全機能が壊れるんだ、ということを彼はことさら強調して話しました。自分が積み上げてきた仕事の偉大さを少しでも自慢したかったのでしょう。目の前には実の娘がいるんだし。
わたしはエンジンの各部を凝視していました。赤い線、黒がね色の鉄板、焼けついたパイプ。
そして、淺川シエルがわたしに向かって言いました。
「見せてあげるよ、こいつと、俺が、飛ぶところ」
ラビューンにとっても、淺川シエルにとっても、それは初めての飛行だったのだそうです。わたしはにっこりと微笑んで、頷いて、
「うん」
と、言ったのをおぼえています。
淺川シエルは窓の外を見上げて、ひとつ小さなあくびをしました。疲れていたのか、時間の感覚がおかしいのか(夕刻のことでした)。そしてわたしは、彼が目を離しているその隙に、剥き出しの動力部から、その小さなネジのようなパーツをひとつ引き抜きました。彼はまだ外を見ていました。よし、と彼は呟き、「行こうか」とまた独り言。
屋上は意外なほど景色の開けた、高い高いところでした。町をぐるりと見渡せて、なんだか頭がいっそう冴えたような気もしました。あらかじめラビューンのための滑走路を作ってあったのか、柵は一部分だけが取り払われていて、空へ飛び出しやすいように細工されていました。最後の最後になって、彼がラビューンの点検をひとつもしないことくらい、わたしは予想していました。だから、わたしのあんなチャチないたずらさえ見抜けなかったんでしょう。失敗、というよりも、彼自身そういう確認なんてどうでもよかったのかもしれませんね。ただ、空へ出てみたかっただけなのだと思います。
淺川シエルはラビューンにまたがり、わたしに背を向けたまま軽く手を振りました。そうして、ゆっくりと滑走路を漕いでいきました。わずか数メートルの走行、それから、離陸。次に、ほんのわずかな、ほとんど握りこぶしひとつぶんくらいの距離の、滑空。直後、わたしの手によって動力部から外された一本のネジのせいで、ラビューンは一瞬ですべてのパーツが抜け落ち、ほどけていきました。
空中、分解。
どんな表情をしていたかさえわからない淺川シエルごと、ラビューンは地に、コンクリートの地面に、おちていきました。そのあと、いちおうの確認のためわたしが柵越しに下をのぞくと、もうそこには人がちらほらと集まっていました。その中心に、魚の骨みたいなラビューンの残骸と、血にまみれて潰れた淺川シエルの遺体がありました。
わたしは、ほうっと軽く息を吐きました。どうしようもなく、何かがひとつ終わった気がしたのです。
❖
手紙が届いた。ロミエからだった。きれいな虹色の封筒、だけど隅っこに小さな字で「今は読まなくてもいいの」とつづられていた。ぼくはそのとおりにした。どうせ漢字ばっかりでちゃんと読めないだろうから。ぼくはその封筒をしまおうと、勉強机の脇にあるひきだしのいちばん下を開けた。中に、ぼくが使った記憶のないおもちゃがいくつか置かれていた。たぶん、お兄ちゃんが赤ん坊だった頃に買ってもらったやつだろう。青色が好きだったのだと、誰かから聞いたことがある。
ぼくはとりあえずそのひきだしを開けたままにしておいた。友達の家に遊びにいくため携帯ゲーム機と財布をリュックにつめ、急いで家を出た。
お兄ちゃんはまだ生きているだろうか、と、ぼくはときどきそれを考える。彼は奇形の赤ん坊としてこの世に生を受けた。頭部が異常に大きく、顎は腰に届くほど長く、脚が三本あって、そのうちの一本はひどく腫れあがっていた。腕は腰から生え、ぜんぶで六本あった。顔の皮膚が生まれつきなくて、そのせいで出産の際にふたつの目玉がこぼれてどこかになくした。首から上は、赤い血の色をした肉に小さな穴が開いているだけのように見えたのだという。生まれてから一年ほどはパパとママのもとで育てられていたけれど、やがて二人ともが耐えきれなくなって施設に預けられた。しかしそこでも手に負えられなくて、数日でまた別の施設に移された。そこでもちゃんと受け入れられず、またどこか別の場所に預けられた。そんなことを、十何年経った今でも繰り返しているのだという。法律上、パパとママはお兄ちゃんと親子の関係を絶っているので、お兄ちゃんのゆくえはどちらにも知らされていない。この話はすべておばあちゃんからこっそり聞いたことで、ママとパパはぼくがお兄ちゃんのことを知っていることを知らない。
さりげなくその手を握ると、ママは最初だけ知らんぷりして、そのあと嬉しそうに笑った。
「珍しく楽しそうだな」とパパは言い、もう片方のぼくの手を握った。ぼくらはそのまま三人で道を歩いた。灰色の檻の中で色んな動物たちが息をし、転がっている。トラが昼寝をしている檻でぼくは立ち止まった。横に植えられた木が邪魔で見えにくかったけれど、それを察したパパがぼくの体を抱えて、目線を上げてくれた。動物園に来れたのが嬉しいんじゃない。パパとママが約束事をちゃんと覚えていてくれたことが嬉しいんだ、とぼくは思う。
休憩所でぼくらはベンチに座った。自分で用意したタオルをリュックから引き抜いて、せっせと首筋をぬぐった。ぼくは昔から、少しばかり汗っかきなところがあった。
「ジュース買ってこようか」
と、ママが言った。パパは、トイレ行くか? とぼくに訊いてきた。ぼくはいかない、と言った。じゃあそこで待っててな、パパは男女共用の狭苦しそうなトイレの方に歩いていった。
「じゃあ、健ちゃんちょっとそこにいてね、勝手にどっか行っちゃ駄目よ」
ママはぼくの注文(レモンソーダがいい、と言った)を聞き、それから自動販売機へ歩き出した。するとぼくは一人になった。人は周りにたくさん溢れていて、難しそうな言葉をぺらぺらと喋りながら歩いたり、ジュースを飲んだりしていた。紺色のシャツを着たおじさんが目の前を横切り、一瞬だけ、きつい汗の匂いに包まれた。そのときに思ったことは――もう、帰りたい。
「地下通路・めずらしい動物の舘」と書かれたコンクリート壁のスロープが檻の脇にあった。他の人たちはそれに気づいていないのか、みんながみんな素通りしていた。ママもパパも帰ってこなかった。ぼくはその暗い穴の中へ一人で入っていった。
しばらく、何もない、あかりもまばらな道だった。歩いていったけれど、まだ何も見つからなかった。十分くらい歩いたところで、ぼくはもう帰れないのかもしれないと思った。家に帰れないかもしれないと思った。地下通路の中はやっぱり誰もいなかった。自分の足音だけが何重にも響く。ぼくは剥き出しの腕をさすった。外よりもはるかに涼しく、いっそ寒いくらいだった。
突然、周りがぱあっと明るくなったのは、展示ゾーンの青白い照明のせいだったろう。檻はひとつきり、とても大きなものだった。名前を示すプレートは乱暴に剥がされていた。子どもがプールにできるくらいの金属性の桶には濁った水が溜まっていた。ぼくは檻の中をのぞく。長い蔦は柵に絡まり、いくつか花弁が顔を出していた。赤いのや青いの、様々な。
ぼくは檻の中を見た。
大人になったお兄ちゃんがその中にいた。だけど服は着せられてなくて、裸のままだった。檻の広さに見合うくらい、さっき見たアフリカゾウよりも大きな体をしていて、顔はもっと大きく唇の辺りに蔦が絡まっていた。お兄ちゃんの両手には、見憶えのある羽のついた自転車のようなものが握られていた。お兄ちゃんはそれを親指と人差し指でぶちりとちぎりとっては、何十本もの牙が生えた口に運んでいた。その自転車は、シエルさんの作ったラビューンだった。お兄ちゃんはラビューンの熱いエンジンを口に入れて、舌で転がしている。唾液がこぼれて桶の中に溜まる。飼育員の人が何もしないでいるのか、檻の中はとても臭かった。生ゴミの溜まった汚水のようだった。それからお兄ちゃんは床を舌で舐めて、ぼくをちらりと眺めやって、柵を二、三回叩いた。すごい音がして、ぼくは腰が抜けた。立てなくなった。お兄ちゃんが口を大きく開けて威嚇しても、逃げ出すことすらできなかった。だけど、このまま食べられて死んでしまうのはどうしたっていやだった。お兄ちゃんの体から黄色い透明な液体が滲み出して流れた。汗のようなものかもしれないが、匂いは違う。嗅いだことのない匂いだった。ぼくは立てない。
誰かの気配がしたから、そっちの方、左側を振り向くと、ロミエがいて、手を振っていた。こっちよ、こっちに来てよ、声は聞こえないが、口はそう動いていた。ぼくは這うようにして、ロミエのいる場所へ向かった。たった数メートルなのに、ロミエに辿り着くまで果てしなく長い時間がかかった。その間もお兄ちゃんは、地響きのような鳴き声をあげながらゆっくりとラビューンを食べていた。
ぼくはロミエの腕を掴んだ。するとさっきまでの体の重さが嘘みたいにすくりと立ち上がれた。ロミエは、こっちよ、という風に口を動かして、ぼくの手を取ったまま走り出した。またしても、薄暗い道だった。しばらく走ったところで、その道の脇に長方形のくぼみを見つけた。ロミエにうながされるまま、ぼくはそのくぼみの中に足を踏み入れた。そこは小さなトイレだった。男子用なのか、小便器と和式の大便器が三つずつ並んでいた。天井のランプには赤茶色の蛾がたかっていた。ロミエはその真ん中にぼくを座らせて、自分はゆっくり服を脱ぎはじめた。目を逸らせなかった。ただ、視界は静かに、徐々にかすんでいった。ロミエが靴下まで脱ぎおわると、ランプの周りを飛んでいた蛾のひとつがぽとりとおちた。見ると、羽の先から六本の脚まで、体中がばらばらにちぎれていた。ロミエはぼくに顔を近づけてきた。ぼくは何も言えなかったし、ロミエも何も言わなかった。ロミエの体は、秒が経つごとにだんだん大人のようになっていった。ママ以外で、大人の女の人の裸を見るのははじめてだった。ぼくはさわろうとして、腕をその真ん前に持っていった。だけど、ふれたはずなのに手ごたえはひとつもなかった。それからロミエと周りの景色が薄紙のように引き伸ばされ、残像みたくおぼろになった。ランプから火が灯り、その火がおちて燃え広がった。ぼくはその場に伏して咄嗟に身を守ろうとした。床に頬をつけるととても冷たく、ママの膝元とはぜんぜん違っていた。ここでは誰の声も聞こえない。やがて火が足先にくっついて、すぐに体中を包んだ。手と足とお腹の肉はまるまる焼けて、皮膚が破れて、そこから垂れ流れた血は地面に粘ついて固まって取れなくなってしまった。体はそのせいで地面から離れなくなってしまった。血はぼとぼと流れ続けて、大きなマンホールの蓋みたく丸く広がって、地面とぼくの体をいっそうぴったりと貼りつけた。ぼくは手足をちょっとだけ縮めて身をすぼめた。そうすると、少しでも痛みが治まる気がした。芋虫みたいだと思った。
痛みは、こらえることのできるくらいのものだった。思っていたより、死ぬのは怖くなかった。悲しくもないし、嬉しくもない。
おわりはとてもあっけない。
ぼくは何かを思い出しかけていた。
たぶん、なんてことのない出来事の記憶なんだろうけれど。――たとえば、誰かと手をつないでいるとか。
今は、ぜんぶ忘れた。
ぼくの血が、残らず、流れ尽くしたから。
初出:『Zero』 2010年春頃