バイバイ。
そう言って、薄暗がりの歩道から遠慮がちに手を振った。リイチは自転車にまたがったままぎこちなく笑ってから、おまけみたいに手を振り返した。そして、
誕生日おめでとう。
別れ際はいつも同じ科白。毎年同じ調子で、ぼそぼそと呟くように。ナツメもまたいつものように、ありがとう、と返す。その日、やっと二人とも十八才になった。
それからリイチは自転車を漕いで、町を離れていった。信号機が青になる。目の前をよぎる自動車のヘッドライトがともっている。時間を見ると、もう七時を越していた。
ナツメは歩いて家まで帰った。自分だけの足音が道に小さくひびく。黄色い街灯の光に羽虫は群がって、それしかできないのか、ずっとまわり続けていた。家々の窓にもあかりはついて、ほのかなオレンジ色がぽつりぽつり、空と同じ色をした暗がりのなかに四角く滲んでいく。夜が近づく。
リイチの顔は今日だって、子どものままだったように思う。無理やり笑ってすまそうとするところも、ずっと黙っていても平気なところも、あのころのままで、ちっとも変わっていない。
いつでも決まりきったスピードで、リイチはゆっくりと自転車をすべらせる。そのうしろに乗って、風に身をまかせているときだけだった。町の景色がどこかなつかしく感じて、ナツメはおもわず、辺りをはしからはしまで見渡してしまう。遠くの家の窓、横断歩道、信号機の尖端、通りすぎる人の足元。昼下がりの町はみんな日の光にふれていた。ときおり、思い出したようにさらりと耳を流れていくのは、海の音だったような気がする。町の東にある、小さな湾からの。
この夏がすぎて、秋も冬もすぎたら、わたしはこの町を出ていく。
こころの底では、そんなことばかり考えていた。だけど、ぴったり当てはまる言葉が出ないのがもどかしい。そのくせ頭もまわらないから、しかたなく、何か答えみたいなものをリイチに求めて、ナツメは少しだけその背中に身を寄せる。西の空に太陽が沈むまで、リイチと二人で、あてもなく町をまわり続けた。車輪は舗装だらけのでこぼこを踏み続けた。
ねえ、リイチはどうするの。都会へ行く? ここに残る?
ナツメが訊ねても、リイチは聞いていないふりをして、答えをはぐらかした。
大事なものだけ、見えないの。どうでもいいものは、いつでも、よく見えるのに。
ナツメは、自分にない言葉を懸命にしぼり出して、そう言った。
リイチはまた返事をしなかった。ナツメはその薄い背中だけをぼんやり眺めながら、――こんなちっぽけなことなら、いっそ忘れてしまえればいいのに、そう思った。
夜がきても目は冴えていた。ナツメは、自分の部屋の窓から見える外の通りを、いつまでもぼんやりと眺めてすごした。ときどき、自転車や車が風の音を引いて走り去っていく。自転車に乗っている人のなかには、機嫌よさそうに鼻唄をうたっている人もいる。だけどやっぱり、誰もがいそがしそうにここを通りすぎていく。
扇風機の首を下向きに曲げてから、床に敷いてある布団に寝転んだ。
コップ一杯の水を机の上に置いて、ナツメは手紙を書いた。誰に渡すでもない、過去の自分に宛てて書く短い手紙だ。最初は一年前の自分に宛てて、それが書けたら次は二年前の自分へ、三年前の自分へ。そうやって一年ごとに便箋一枚ずつ、記憶を遡りながら書いていった。作文がきらいなナツメでも、そのときだけはすらすらと言葉が出てきた。鉛筆を走らせるたびにナツメの身体から汗がわずかに滲んだけれど、別段気にもならなかった。ひと通り書きおえるごとに、コップの水をひと口飲んで、息をひとつ吐いて、それから机の上に突っ伏した。五分くらい眠ったつもりになったあと、再び鉛筆をとる。そんなことを繰り返した。
だからその日の夜はいつまでも起きて、手紙を書き続けた。どんなに時間がたっても、部屋のなかは蒸し暑いままだった。
十四才のわたしへ
すごく不思議に思うことがあります。家へ帰る道のことです。あんまり長く生きてはいないけれど、その短い人生のなかで、わたしはただの一度も帰り道を失ったことがありませんでした。これってけっこう幸福なことですよね。色んな人に感謝しなきゃいけないのかもしれません。
あなたには今、どんな帰り道がありますか。
きっと、いつも一人きりだったんじゃないのかな。
自転車で長い坂道を下って、早く家に帰り着きたいと思いながら、学校から逃れるように一目散に。
だけど一度か二度くらいは、二人で帰ったこともあったのかな。わたしの帰り道についてきてくれたその親切な子のことが、今でも忘れられません。
八才のわたしへ
あなたにとって海はどんなものですか。あなたに光をくれますか。窓の外からはほんの少しだけど、遠くの東のほうから、家々の隙間を縫って、ちょっとだけ海が見えます。堤防に囲われたこぢんまりとした海。大人の人たちは、浦戸湾という名前で呼んでいました。
あなたは、今のわたしよりももっと海のことを知っているはずです。夜の海をまじまじと眺めた日のことも、わたしは憶えているんですよ。隣にはお父さんがいて、わたしはたしか、おびえたようにその人に寄り添っていました。
〇才のわたしへ
あなたは今、どんな風に生きていますか。呼吸は意識しなくてもできますか。何もしなくてもみんなが世話をしてくれますか。わたしが赤ちゃんだったころのこと。……たしかな記憶はほとんどないから、あなたにどんなお話を書けばいいのか、どんな思い出話をすればいいのか、わたしには考えられないけれど。
どんなお話……
たとえば……
お母さんのお腹のなかはどうでしたか? 海に似ていたりしませんでしたか。
そこまで書いたとき、顔中がぼおっとほてり、たちまち涙がこぼれてきた。ナツメは声を押し殺して泣いた。嗚咽のたびに頭が痛んでぐらぐらゆれた。静かな夏の夜のはしっこ、誰にも知られずにナツメは泣き続けた。
書きおえたたくさんの手紙は、どうしようか迷った末、机の横のひきだしに隠した。たぶんこれで、誰に見つけられることもないだろう。
最後の夏休み、わたしは一人ぼっちだったのかもしれない。
翌朝はやけに遅く起きた。夜更かしのせいだろう。日はだいぶ高くに昇っている。ナツメはねぼけまなこで窓の外を見た。子供が道を歩いている。
小さな男の子だ。
男の子は空に手を伸ばしている。同い年くらいの女の子があとからついてきた。息を切らしながら女の子は、いまにも泣き出しそうな表情をしている。二人は少しだけ会話を交わす。男の子の声が特に大きくて、きりきりと辺りの喧騒によくひびく。ナツメはその光景を窓からこっそり眺めながら、徐々に自分の目をさませていった。太陽の薄い光がコンクリートに散って、二人ともまぶしそうに顔をしかめた。
土曜日は遊ぶのにいそがしいのだろう、二人はあわただしくどこかへ駆けていった。そのあと音はなくなって、路上はまたもとの通り、夏の朝の静寂に戻る。
ふと昨日の手紙のことを思い出して、おそるおそるひきだしを開けた。ちゃんと、ナツメが入れた通りの順番で重なってあった。ナツメはその手紙を、あらためてひとつずつ読んでいった。過去の自分に宛てて書いたはずなのに、そこには十八人の違う人がいるような気がした。十六才のわたしへ、八才のわたしへ、三才のわたしへ……。その――わたし――は、どれも今の自分とは少しずつ違っている。当たり前なのかもしれないけれど。
ゆっくりゆっくり文字を追っていくと、全部読みおえるのに昼すぎまでかかった。最後まで読みきったあと、もう二度と手紙を見ないことにしよう、と小さく決意した。少なくとも大人になるまでは。
またもとの場所にしまっておこうと思い、ひきだしに手をかける。空気をはらんだかたりという音だけが、取っ手を引いた瞬間、狭い部屋のなかでかすかにひびいた。
そのひきだしの底に、一枚の便箋が残っていた。ナツメはそれを手にとる。字が書かれていた。自分の書く字によく似ている。
わたしの夢にきてください。
太陽の町のちっぽけな夢。
きっと、あなたの願いが見つかるから。
河村棗
日付も書いてあった。十数年以上も前の日付だった。自分で書いた記憶もない。
ひらがなも書けていたかどうか定かでないくらいの、ずっと幼いころの自分自身から送られてきた手紙。ナツメは不思議そうにその手紙をつまんでから、何も考えずに眺めてみる。
たしかに、それはわたしの名前だったように思う。
その日の夜、一日のとても深い時間に、ナツメはひとつの長い夢を見た。
どんな夢もそうであるように、はっきりとしたはじまりはなかった。ナツメは誰に追われるでもなく、知らない道を一人きりで走っていた。どこかの細い小道だ。うつむきがちでいるのか、視界には平らなコンクリートの地面だけが映っていた。ナツメはひたすら走った。走る理由もなかったけれど、立ち止まるのはもっと怖かった。
いつまでたっても息切れなんてしなかった。だけどどうしてだか、ずっとずっと苦しい。身体の奥に何か重たいものがつっかえているみたいだ、ナツメはそう思う。
つまずくものも何もない場所で、ナツメは何度も転んだ。そのたびに、身体から何かがとれていくように軽くなった。転ぶことはとても怖かった。それでもナツメは懸命に走り続けた。ときおり、胸の奥から血が滲んで、あたたまっていくような感覚を覚えた。それは太陽に自分の身体を重ねたときだった。
何十回目かに転んだとき、誰かの声がナツメのすぐ近くでひびいた。ナツメはあわてて身体を起こし、立ち上がった。
目の前には一人の少女がいた。ナツメをじっと見ている。とても小さな少女なのに、その背丈にはそぐわない、どこかもの寂しそうな表情をしていた。ナツメはそのあどけないような、大人びたような立ち姿に視線を合わせる。まだ未完成な目や口元、どこか見憶えのあるような気もする。
突然、少女は何も言わずにナツメの手をとって、そのままぎゅっと握りしめてきた。あたたかくもつめたくもない、ちっぽけな感触がつたわった。どうしようか、と思う。このまま握り返そうか。振り払ったほうがいいだろうか。
そんなことを考えているうち、少女に手を離されてしまった。それから少女はナツメの目の前で、ほどいた手をわずかにふらりと動かした。
もしかすると手を振っているのかな、バイバイ、って。
そうやってナツメがぼんやりしている隙に、くるりとうしろへ向き直る少女。少女は長い道の奥へ、ぱたぱたと走り去っていく。待って! ナツメはおもわず大声で叫んで、あとを追おうと駆け出した。だけどすぐに転んだ。
ふと自分の手が目についた。指先から、とても細い糸がひとつ伸びていたからだ。その糸は切れそうで切れずに、道の先をまっすぐ伸びていて、最後に少女の指先とつながっていた。少女のうしろ姿、足音が遠くでひびくまに、どんどん小さくなっていく。ナツメとの距離があっというまに離れていく。だけど、指先でつながり合った糸だけははっきりと見えて、途切れることもなかった。誰にもわからないくらいの明るさで、その糸はかすかに光って、地面をうっすら照らし出している。
ナツメは立ち上がり、また一歩ずつ歩き出した。
するとその途端、音もたてずに糸が切れた。痛みも何もなかった。ナツメはただ呆然と自分の手を眺めたあと、何かをたしかめるように、前を行く少女に視線を向けた。走っていた少女は、一度立ち止まってこっちを振り返ったようにも見えた。だけどすぐまた走り出して、とうとう道の果てに消えてしまった。
あの子どもはわたしだ、ナツメはそう思う。
それからしばらく、さまようように道を歩き続けたけれど、やはり少女はどこにもいなかった。歩き疲れたナツメはその場にへたり込んだ。すると、いままで見えなかったものが、遠くのほうにぽつりと浮かんできた。
ナツメはそれに目をこらしながら思う。
あれは光だろうか、と。
ほの暗い道の最果てで、静かにゆれているもの。
だからナツメは、その光のようなもののほうへ、ゆっくりと歩んでいった。ここから見える景色はその光だけしかなかった。追いつくかどうかはわからないけれど、ナツメには、そこに向かって一歩ずつ歩いていくことしかできなかった。
ずっと先にある、小さくてかすかな、光のようなもの。いまにも消えてしまいそうに、頼りなくふるえている。早くあの光をたすけてあげないと、ふと、そう思った。そんな感情を、自分自身が長いあいだ忘れていたことにも気づいた。
一歩ずつ近づくにつれて、光は次第に形をおびてきた。あるところはまるくなり、あるところは黒く濁り、あるところは熱にふれて、それは段々と、ナツメが知っているものの形になった。
ナツメは息を詰めて立ち止まって、一人の少女のような形になった光に、そっと呼びかけた。
キョウコ?
少女の年齢は、さっきの子――小さなころのわたし、だと思う――よりは上だろうか。とても華奢な身体で、肌も真っ白だ。ナツメは一目見た瞬間、この子は十才のころのキョウコだ、と直感した。記憶の隅にかすかに残っている、あのころのままの姿。キョウコと呼ばれた少女はどこを見るでもなく、ただ目にふれた景色だけにぼんやりと目を泳がせている。もう一度その名を呼んだ。
すると、そこにたたずんでいた少女はふいにナツメのほうを向き、白い歯を見せて無邪気に笑いかけた。その仕草をあますところなく見ようとしたが、少女はそんな時間も与えず、急にナツメのほうへ駆け寄ってきた。いつか見慣れたようなスピードで、景色が流れていく。少女の黒い髪が細やかになびく。見るまに少女は近づいてくる。まるで自分とはなんにも関係ないもののように、ただぼうっとそれを眺めていた。
なぜだかわからないけれど、キョウコの顔は、彼女がこっちに近づいてくるほどぼやけてしまい、はっきりととらえることができない。わたしがその顔を思い出せないことが悪いのだろうか、ナツメは、いくら目をこらしても形になることのないキョウコの顔を見つめながら思う。わたしが憶えていないはずなんてないのに。
キョウコは保育園のときからの幼なじみだった。たしかわたしがうさぎ組にいたころに転入してきたんじゃないかな、とナツメは思い返してみる。やがてナツメが想起した風景は、遊び慣れた広いうさぎ組の部屋のなかだった。フローリング、自分の名前が書いてあるひきだし、カーペット、真っ白い壁、おもちゃを奪い合う小さな子どもたち。そうだ、そこに小さなキョウコもいた。キョウコは誰とも交わらずにたった一人、部屋の隅で、痛いほどまっすぐなまなざしをわたしに向けていた。思い上がりかもしれないけれど、あのときのキョウコは、たしかにわたしだけを見ていた。
よく晴れた夏の日の昼下がり、転入してきたばかりで友達もいなかったキョウコを誘って、ナツメは園のはしにある砂場に向かった。年長組であるきりん組の子どもたちが、砂場の中央で大きな砂山を作っていた。それはほとんど彼らの身の丈くらいの大きさだったように、ナツメは記憶している。たぶん、ほんとうはもう少し小さいんだろうけど。
その隅に隠れて、リイチとマーブルとちなみの三人が作っていた砂山はとても小さく、踏めばひと息に潰れてしまいそうだった。三人とも、いつもナツメと一緒に遊ぶ仲間だった。ナツメたちのうさぎ組は、きりん組のひとつ下の年中組だった。
リイチ、マーブル、ちなみがしゃがんだままこっちを見上げている。ナツメとキョウコは、なぜか彼らに近寄ることもできず、ただ黙ったまま突っ立っていた。淡くて大きな影がかぶさるように地面にたれていた。砂を一生懸命に集めていた三人は、ふいに手を止めて、はじめて自分たちのもとにつれてきたキョウコをぼんやりと見つめた。しばらくのあいだ全員が黙っていた。やがてマーブルだけがふっと立ち上がり、もつれそうな足取りで歩み寄ると、砂にまみれた手でいきなりキョウコの腕をつかんだ。それからマーブルは、無言で腕をとったまま、自分たちの作った小さな砂山へとキョウコをつれていった。ちなみはその様子を見てきゃっきゃっと笑い、リイチの背中をぽんぽんたたいていた。ああ、そうだった、ナツメはまた思い出す。そうだ、マーブルもキョウコと同じ、まっすぐにしか瞳を向けられない男の子だった。
今わたしの目の前にいるのは、やっぱり間違いなくキョウコだった。ナツメはもう一度、その身体をじっと見つめる。
知らぬまに、目の前の風景はよりはっきりと形作られていた。コンクリートの堤防、錆びた鉄柵、細い小道、それに沿って並ぶ家々、茫漠の青空。遠くかすれた景色だった。どこかで見たような、なつかしいような。時間も一緒くたに流されてしまったのか、わからないけれど、たしかに見憶えのある場所だと、ナツメは思う。
いつのまにかナツメとキョウコは、お互いが手を伸ばせば届くような距離まで近づいていた。ナツメは何か言おうとしたが、寸前になると途端に小さなよどみが胸につかえて、声すら出なくなった。キョウコはそんなナツメを不思議そうに眺めていた。
行こうよ、ほら。
キョウコは手を差し伸べてきた。とても細くて白い手だ。とまどいながらその白い手を握りしめて立ち上がった瞬間、ナツメは自分の身体がほんの少し小さくなっているようにも感じた。
空の下、ぼうっと突っ立ったまま、ナツメは自分の身体を隅々まで眺めてみた。そのあと、まわりの景色を見渡した。道は、こんなに長かったろうか。空はこんなに高かったろうか。
わたしも、キョウコと同じように、十才だったころの自分に戻っている。
目の前に広がる景色だって、ナツメが幼いときに見た故郷の町、そのままだった。何も変わっていない。過去が変わるはずない。
ナツメ? どこ見てるの。 キョウコは手で首筋の辺りを扇ぐ。そこにはうっすらと汗が滲んでいる。
ナツメはもう一度しっかりと真上に目を向けた。そうして見上げたその先は、彩りのできあがった広い夏の空だった。ひとつのとどこおりもなく、きれいに晴れ渡っていた。
これはわたしの夏休みの記憶、きっとそうだ。 ナツメは思う。
よかった、忘れてなんかなかったんだ。
行こう、ナツメ。 キョウコはもう一度、かみしめるようにゆっくりと言う。
ナツメは自分自身を受け入れるように小さくうなずいたあと、おそるおそる訊いた。
どこへ?
きまってるでしょ、ちなみをさがしにいくの。
ちなみを?
そう。あたしの家に二人でいたんだけど、ちょっと目を離した隙にちなみ、いなくなっちゃったの。……家中をさがしたんだけどどこにもいなくて。
うん。
だから、またいつもの、ちなみちゃんの脱走。
ナツメは、ちなみちゃんの脱走、という言葉をよく憶えていた。いつも、みんなで遊んでいるときに突然行方をくらます。子どもたちだけで何時間も捜索して、ようやく見つけ出されたあと、どうして自分たちを置いて逃げ出したの、と理由を訊ねても、いつも黙ってふるえているばかりだったちなみの姿が目に浮かんだ。
いつものことだから、どこにいるのかなんて、大体わかるけどね。
そう言って、キョウコはひかえめに笑みをこぼす。
ちなみは元気?
……ん、ナツメ、どうかした?
ううん、だいじょうぶ。
ちなみはいつも元気だよ、ばかみたいに。
日の光が当たっても、やっぱり、キョウコの顔はさっきみたいにぼやけたままだった。霧がかかっているみたく、どこも不明瞭でかすんでいる。
でも、また一人でいなくなっちゃったんでしょ? ナツメが訊ねる。
そうなの。……せっかく今日は五人で遊ぶ約束してた日だったのに。マーブルなんてめったに遊んでくれないんだから。
……そうだ、リイチとマーブルは? どこにいるの?
あ、あの二人なら、一緒にちなみをさがしにいったよ。
ナツメは地面に目を落とす。ナツメとキョウコ、お互いのサンダルが視界に映る。焼けついたアスファルトの表面にちらちらと陽光が射す。
蝉の声が、唐突に耳を刺しはじめた。遠くからひびいてくる。そこには公民館と、緑色のネットで囲われた広場と、ナツメたちの通っていた保育園、そして堤防をへだてた先の浦戸湾がある。ナツメは、鳴り止むことのない蝉の声を聴きながら、
不思議な声だなぁ。
そう思う。
うるさくて邪魔くさいのに、なぜかこころが休まるような気がする。
もしかすると、もうずっと前からこの音は聴こえていたのかもしれない。
リイチとマーブルは十階建てマンションの階段にいた。湾に沿うように建てられた白壁のマンションで、階段から外を見ると、いつだって当たり前のように、高いところから町が見渡せた。
リイチの目線の先はいつも山に阻まれる。それは反対側の湾とともにこの町を覆う、ばかでかいカーテンみたいなものだ。小さな町にしか住んだことのないリイチでも、この町は山があるせいでより小さく見えるのだということを、ちゃんと知っていた。
九階の踊り場にいるマーブルは、大きな黒い双眼鏡で町を見ている。リイチはそばの階段に腰かけて、階段に彫られた溝を指でなぞっている。
ちなみは、見つかった?
リイチが問いかけてもマーブルは聴こえないふりをする。マーブルが町の隅々を眺めている双眼鏡は、小さいころ祖父にもらったものだ。首に提げると胸を覆うほど大きいだけあって、数百メートル離れたずっと遠くの景色まで精細に見ることができる。やってみたことはないけど、天体観測もできるらしい。外に出るとき、マーブルはいつでもこの双眼鏡を持ち歩いていた。マーブルが重い双眼鏡を自転車のかごに入れて、よろけながらペダルを踏んでいるいつもの姿を、リイチはできることならあまり見たくないと思う。なんとなく、そう思う。
汗で湿った指先を不器用に動かして、マーブルは双眼鏡のピントを調節している。リイチはそんな仕草を視界の隅に感じる。二人のいる踊り場にもやがて陽光は射してきた。階段の表面には、建物の陰をすり抜けるようにして、いびつな長方形のひなたができた。
ちなみ、もうじきぼくらがあそんでくれなくなるって、思ってるんじゃないかな。
静寂を破るように、リイチが一人呟く。
車が下の通りを走る音。マーブルが何か言ったような気がしたが、その音にまぎれて聴こえない。
だから、また、脱走したのかも。
そう言ったあとリイチは立ち上がり、マーブルに隣り合って並んだ。
双眼鏡で一心に遠くを見ているマーブル、こころまで、その遠くの景色に移し変えようとしているのかもしれない。そんな姿をときおり横目にとらえながら、リイチは身体と同じ高さにある空に目をそそいだ。張り裂けそうに青い空だった。
みつけた。
そう言って、マーブルは嬉しそうに、双眼鏡の奥をいっそう強く覗き込む。
ちなみを?
違う、あいつら。
ん、ナツメとキョウコ?
うん。旧道らへん歩いてる。
リイチはマーブルの双眼鏡をもぎとって地上を見た。双眼鏡の提げ紐を首から強引に引っ張られたマーブルは、窮屈そうにその身をよじった。
どこだよ、いないじゃん。 リイチが言う。
ガソリンスタンドの近く。
……ああ、ああ、いた。
ナツメとキョウコ、二人とも黙ったままで、小さな路地を歩いていた。うしろ姿しか見えなかったけれど、それだけで二人だとわかった。
下から見える信号が赤になって車の音が止むと、やっぱやめた、と言って、マーブルは早足で階段を駆け下りていった。リイチはあわててあとを追う。
ちなみの家はゆるい上り坂の先にあった。坂を上ってそれから右に曲がり、小道に入る。ちょうど、その突き当たりだ。二階建てで、屋根はくすんだ灰色をしている。
チャイムを押したのはナツメ。だけど誰も出なかった。
鍵あいてるよ。ナツメ、入ろう。
だめだよ、おこられる。
こんなのにいちいち怖がってどうするの。勝手に上がったこと、いままでもあったじゃん。
そうだけど……
じゃあ、ここでまってれば?
キョウコはドアを開けて、一人さっさと家のなかに入っていった。とり残されたナツメは四、五分ほど玄関の前でキョウコの帰りを待っていたが、そのうち暑さと心細さに耐えきれなくなって、おそるおそるドアノブに手を引っかけた。
おじゃましまあす。 意識したわけではないのに、小さな声しか出なかった。
なるべく足音をたてずに奥のほうへ歩いていくと、窓辺の日陰に、キョウコが力なくもたれているのが見えた。
やっぱり、いない。 キョウコはしょげたように言う。
そう……
箱型の小さなテレビからニュース番組が流れている。誰もいないのにつけっ放しになっていた。キョウコは窓の外をぼんやりと眺めた。その瞳の先に、雑草の群生した狭い庭が映った。
二階もさがした?
ナツメの問いかけに、キョウコは答えようとしない。聴こえていないのだろうと思ったナツメは、声を張ってもう一度同じことを言った。キョウコははっとして顔をナツメに向けた。
ちゃんと見たよ、でもいなかった。
久しぶりに訪れたちなみの家を、あらためて見渡した。床に敷かれたベージュ色のカーペット、少し奥にある台所、四つの椅子が配置されたテーブル、食器棚、アニメキャラのステッカーがたくさん貼られた冷蔵庫、ナツメの背よりも高い本棚には、難しそうな分厚い本に混じって、ちなみの大好きな絵本が十数冊置かれてあった。そんなものを見ているあいだも、テレビ画面から反射する鮮やかな光は、目の前の壁をほの赤く染め続けた。キョウコもナツメもできるぶんだけ息をひそめていた。この家に残った最後の音みたいに、キャスターは限りなく小さな音量で午後からの天気を唱えていた。眼前で寂しく反響する音、またひとつ、壊れたように低い天井に昇っては、ぼんやりと散っていく。
ナツメ。
うん?
宝島に行きたいって、ちなみが言い出したのにね。
うん。
どうして、一人でいなくなるのよ。 どこか悔しそうに、キョウコが言う。
おしいれの奥までさがしたけれど、ちなみはいなかった。二人は部屋の隅にあった扇風機を勝手につけて、風に当たった。ナツメは床に吸いつけるようにぐっと足を伸ばして、いっそう扇風機に全身を近づけた。肌が汗でべとついている。隣であぐらをかいているキョウコからも、同じような匂いがした。
少し休もうよ。 ナツメは言った。
少しって、どれくらい。
わかんないけど、また歩けるようになるまで。
キョウコは自分の足首を、両手の指を使って無心にこすっている。キョウコの癖だ、行儀の悪い。それでも、ナツメはその痩せた足から目を逸らすことができなかった。黒っぽい垢を指でこすり落としてしまったキョウコ、おもむろに腰を浮かせて、行こう、とナツメに呼びかける。
だけどナツメは、首を振って拒んだ。 ねえ、もうちょっとだけここにいようよ。
どうして。ちなみを一人ぼっちにさせてもいいの?
キョウコはほんの少し強い語調になる。
ナツメは黙したまま、答えようとしない。それでもキョウコは続けて、
ちなみは、早く自分を見つけてほしいのかもしれないよ。
……ちなみが? ナツメは、こころもち首をかしげながら言う。
もう少しだけキョウコと二人きりでいたい。そんな思いがナツメのなかで強くなっていった。ちなみのこともわかっているつもりだけど、どうしてだか、ここから一歩だって動きたくない。とにかく、キョウコをここに引き止めておきたい。
ひょっとしたら、ちなみ、キョウコには見つけられたくないのかも……
そんな言葉が口から出てきたことに、ナツメは自分でもおどろいた。
その直後、ナツメはおもわず、いたいっ、と叫んでしまう。キョウコのほうに寄せていた左腕だった。何が起こったのか理解するのに、数秒もかからなかった。わたしの腕をキョウコがつねったんだ。力いっぱい、爪も立てて。
ナツメはおびえきったまま、おずおずとキョウコを見た。キョウコは歯を食いしばって必死に怒りをこらえているようにも見えた。耳も赤くなって、身体も小刻みにふるえていた。なにより、怖いくらいに汚く顔をゆがめているキョウコが、いつもと変わらないそのまっすぐな瞳を自分に向けているのが、ナツメにはたまらなく悲しく思えた。
キョウコ、
ごめんね、そう言いかけたとき、キョウコは唐突にナツメの左腕をとり、つねられて赤く腫れてしまったところを、てのひらでそっと撫ではじめた。おわびみたいに、いつくしむように、キョウコはナツメの腕にやさしくふれた。ナツメはほっとして、それから黙ってキョウコに身をゆだねた。
太陽がほとんど真上にまで昇ってきた。蝉がいっそう強く鳴きたてた。リイチが木の枝を手で持ってゆらすと、おどろいた二匹の蝉がそこからあわてて飛び去っていった。
リイチとマーブルは、堤防の上を平均台みたいに歩いていった。視界の右にはコンビニや釣具屋などもある四車線の道路が、左には浦戸湾が見える。リイチはそのできそこないの海に目をやる。
それほど遠くはないところに、三つの離れ小島が少しの間隔を開けて、横一列で海に浮かんでいるのが見えた。
一番陸に近い右端の島は、堤防に沿う道と小さな橋でつながれていて、だからか知らないが、ツヅキ島と呼ばれている。そのツヅキ島から五十メートルほど離れた真ん中の島は衣ヶ島といって、ツヅキ島よりひとまわり程度大振りになっている。ツヅキ島と近いこともあって、昼間の干潮時、衣ヶ島はツヅキ島と陸続きになり、両方の島を自由に行き来できるようになる。そして、衣ヶ島からまた少し離れた海に浮かんでいるのが玉島で、名前の通り玉のようにまるい形をしている。三つの島のなかで一番小さいのも、この玉島だ。
この三つの小島のことをナツメたちは、宝島、と呼んでいた。ナツメたちが通っていた保育園の園歌の一節に、宝島という言葉があったことがきっかけになったのだろう。
ぼくらのふるさと浦戸湾
太平洋につながるよ
きれいな緑の ツヅキに衣ヶ島、玉島は
秘密がいっぱい宝島
元気な海の子 浦戸の子……
ナツメ、リイチ、マーブル、キョウコ、ちなみの五人が、大きな声で、掛け値なしに力いっぱいうたえた唯一の歌だった。
この堤防から歩いて数分もかからないところに、五人の保育園はある。
だけど、ちなみはそこにもいなかった。
マーブルが苛立っていることも、リイチにはなんとなくわかっていた。ちなみが見つからないからかもしれないし、もっと別の理由があるのかもしれない。
マーブルは首に提げた双眼鏡で、堤防の上から町を眺めた。釣具屋、クラスメイトの親が経営している小さなレストラン、四六時中閉じている理容室、一度もなかに入ったことのない土産屋、赤や黒や灰色のかわり映えしない自動車、敷地を囲うようにたくさんの旗が立った中古車販売店、それらのうしろには、この町を海とともに囲っている緑色の山々。
マーブルは双眼鏡を首から外して、コンクリートの上に置いた。レンズが太陽を見れるように、慎重に立てて置いた。そこから二、三歩離れた場所で、マーブルはじっとしたまま、空と双眼鏡を交互に眺めはじめた。
リイチは呆れたように、コンクリートの地面に座り込んだ。黒い双眼鏡の表面は陽光のせいでぎらぎらと光っていた。
太陽を見てはいけない、マーブルはいつか誰かからそう教えられた。持ち歩くのはかまわないけれど、太陽をそれで直接見るのは駄目だ、と。もちろん、自分の目でも。
ついでみたいに、マーブルは遠くの海につらなる宝島に目をそそいだ。ツヅキ島、衣ヶ島、玉島、不満そうに三つとも眺めきったあと、マーブルは地面に立てておいた双眼鏡をゆっくりとつかんだ。両手で抱えてみる。ただ持っているだけだとそれは、いやに重たいだけの単なる役立たずに思えた。
一瞬だけ感情がゆらいだ。気がつくと、双眼鏡を海のほうへ投げ捨てていた。力が足りず、海までは届かなかった。双眼鏡は堤防と海のあいだに設置された四角い消波ブロックにごつんと当たり、そのままコンクリートの狭間へ消えていった。
なにしてんだよぉ。 リイチは沈んだ表情を作りながら、そう呟いた。
マーブルは何も答えない。
顔をうつむけたまま、マーブルは堤防をふらふらと歩き出した。波もあふれない平らな海を眺めながら、たいくつだ、と思う。たいくつな海だ。
あっ。 リイチがぽつりと呟いた。
マーブルはその顔をあやしそうに見やる。
ちなみのいる場所、わかったかも。……きっとすぐ近くにいるよ。マーブル、早く行こう。
キョウコの呼び声が、影のように長く伸びてここまでつたわった。ナツメは大きな声で返事をした。
二人は、浦戸湾を少し離れた隣町まできていた。山と水路で囲われた狭い住宅地だった。近道だからとキョウコにそそのかされて、途中まで小山の裏道を通ってきた。そのときずっと脛にさわっていた草の感触が残っていて、まだ少しくすぐったい。
どこも同じような小道が続く。その隙間を縫うようにして、二人は黙々と歩いた。キョウコが先で、ナツメはそのうしろからついていく。キョウコの歩くペースがあんまり早すぎるから、ナツメは疲れきっていまにもへたばりそうだった。
ときおり、坂道に出くわすときがあった。上り坂は一面が太陽に照らされ、いかにも熱がこもっていそうに、銀色に光っていた。足を踏み出して一歩ずつ上るたびに、暑いし息が弾む。上で待っているキョウコに追いつこうとするけれど、途中で何度もこころが折れそうになった。急な下り坂は逆に、足がもつれて転びそうになるのをこらえるのが大変だった。だからナツメは慎重に歩いた。ふちにある白いガードレールを手すりにして。
キョウコは、うつむきがちに坂道を下るナツメをおかしそうに眺めて、
走るのは、もうやめた?
ナツメは少し黙ったあと、首を振った。
走ったことなんてないよっ。……今も、いままでもずっと。
坂は途中で折れて方向を変え、さっきよりゆるやかな下りになった。キョウコは無意識にナツメと歩調を合わせ、隣り合って歩いていた。脇に並ぶ木立の隙間からは公園が見えた。黄色いすべり台、ブランコ、あかりのついていない真昼の街灯、砂利、誰も遊んでいない。
坂道を下りおえてもまた、くすんだ色の住宅ばかりだった。
大きな茶色い毛並みの犬が柵の向こうでほえている家があったけれど、キョウコの袖につかまりながらその路地はなんとか渡りきることができた。わたしの怖がりに、キョウコはいつでもつき合ってくれる。犬におびえるわたしを、笑っていたような、ひややかに見ていたような。
ちなみはまだ見つからない。リイチもマーブルも、もうどこにいるのかわからなかった。
あの二人ならだいじょうぶ。 キョウコはそう言った。 リイチはしっかりしてるから、ナツメの百倍くらい。
ふうん。 ナツメはわかったふりをする。
リイチだって、自分の弱いとこくらい知っているはずなのに。ナツメはそう思う。
あたし、はじめてできた友達はリイチとマーブルだった、たぶん、そう。
保育園にいたときのこと?
うん。……キョウコは、少しおくれて入ってきたよね。
うん。
そのとき、マーブルはまだ、自分のほんとうの名前で呼ばれてたよ。
あたりまえよ、すごくちっちゃいときだもん。
あのね、あたし、ときどきマーブルのほんとうの名前、忘れそうになる。
………………………………
ほんとだよ?
……忘れたっていいんじゃないの、マーブルはマーブルなんだから。
そうかなぁ。
そうよ、きっと。
そう言ったあと、キョウコはナツメにさとられないよう、声を殺してひそやかに微笑んだ。
ナツメ。
…………
あたしこないだね、本を読んでたの。すごいでしょ? 絵本じゃないのよ。
……うん。
自分の部屋のなかで、一人でずーっと読んでた。そしたら急に、ドアの向こうからお母さんの声がしたの。――キョウコ、このワンピース洗濯していいの、って。あたし、顔を上げて大声で、うんっ、いいよ、って言った。本はもう飽きちゃったから、しおりしないでとじて、そのあと窓の外を見たの。そしたらね、窓に、てのひらで隠せるくらいの、ちっちゃな虹が映ってたの。きれいだった、すごく。あたし、その虹のくっついた窓を手で、こうやって、何回も何回もこすったの。けど虹は消えなかった。嬉しくなって、あたし一人でにこにこしてた。神様がわたしに虹をくれたんだ、って。…………でもそのうちに、あれ? おかしいなって、思ってきたの。だって外は雨だもん。虹なんてできるわけない。……あ、って思って、向かいの壁を見たらね、絵が飾られてたの。ちなみの描いた、虹の絵。
キョウコの誕生日に、ちなみがくれたやつだ。
そう、ちなみがくれた虹の絵。壁にかけてあった虹の絵が、窓ガラスに映ってただけだった。
うん。
ね、悲しいおはなしでしょ?
ううん。
え? どうして?
きれいな虹が見れたんだったら……よかったんじゃない、かな。
…………
あたしはそう思う。
しゃがんだまま地面と平行に世界を見ると、水面が限りなく視界と重なった。まるで自分が、海と一緒に溶け込んでいくみたいな錯覚だってしてた。目の前にある海は濃い緑色、あまりきれいにも思えない。遠くの海はとても澄んだ空色をしているのにどうして。
いっそ、遠くのほうへ行けばいいのかな、ちなみはそう考える。でも、それもきっとまやかしなんだ、近くで見ればどうせ、ぜんぶ緑色に濁っているんだ。キョウコが、そう言ってた。
午前中にただよう空気を照らしながら、地面はひたすら熱を集め続けている。日の光は背中に突き刺さる。いたい、いたい、いたい、もういや、戻ろう。ちなみはまた囲いのなかへ逃げ帰った。そこは狭くて暗い場所だった。光は届かなくなった。ちなみはその囲いのなかでいっそう身体をまるめて小さくなった。海の水がほんの少しコンクリートの地べたをひたしている。
ふいに息が止まる。ちなみは一度大きく吐き出す。それでもまだ空気は重い。こんな狭い場所に閉じこもっているからだ。外には海もひなたもあるのに。なのにわたしの今は、くるしい、くるしい、くるしい、くるしい。光を届けてほしい、いたいくらいあついのじゃなくて、なるべくあつくもつめたくもない、いつか感じたようなのと同じ光、そんな光がいい。自分の細い腕や首をさすって、べたべたした熱を払いのけようとするけれど、うまくいかない、こんな場所やだよ。コンクリートで固められた一時の隠れ家は、ちなみが思っていたよりもずっと楽しくないところだった。あつい、あつい、あつい。でも、もう少しがんばって外に出てみれば、そこには広い海がある、ありふれたにせものなんかじゃない、ほんものの海がある。でも、やっぱり行きたくない。こわいからかもしれない。まただ、また、くるしい、くるしい、あつい、こわいこわいこわい。
ちなみの頬からほろほろと涙がつたう。ちなみはかすかにうめきながら、涙がとめどなく流れてくるのにまかせた。呼吸がしづらくなった。放っておくと、ますます嗚咽はひどくなりそうだった。かまうもんか、ちなみはもっとはげしく泣いてしまった。きつくまぶたを閉じると、そのぶん、ほろりほろり。
誰も迎えにきてくれなくても、わたしはずっと泣いてやる。リイチも、マーブルも、キョウコも、ナツメちゃんも、どうせわたしのことなんか忘れて、四人で楽しく遊んでいるにちがいない。わたしのことを憶えている人なんて、きっと一人もいない。ママだって……
いつもと変わりなく、海がゆれている。こんなに広いのにお互いぶつかり合いもしないで、ずっと静かなままで、ゆっくりとゆれている。きれいな青さが、波の泳ぐたびに冴え渡っていく。そうして海の流れをつーっとたどっていくうち、その風景は自然と目におさまっていった。
太陽に照らされているせいでうつろな輪郭しか見えないけれど、遠くに見える、あのみっつ並んだ緑色の島、あれはたしかに宝島。ツヅキ島、衣ヶ島、玉島、大きなまるい影を海に落として、この目の先に浮かんでいる。
やがて潮が満ちれば、わたしのいる場所も海にひたされてしまうのかな、ちなみはそう考える。すると、よけいに怖くなった。はやく、はやく、わたしを見つけて。
でないと、帰る道さえわからなくなってしまいそうだから。
日が暮れるころには、もう涙も涸れてしまう。その前に、海に飲み込まれてしまうのかな。
大好きな、海なのに。
声が聴こえたのは、それからまたしばらくしてからだった。リイチの声だった。見上げると、お日様の道からリイチの顔が見えて、その口が――だいじょうぶ? と動いた。ちなみは考えるまもなく、小刻みにうなずいた。さわがしい足音が次々に聴こえてきて、気がつけば、囲いの外から四人が見つめていた。ちなみが動こうとしないから、みんな囲いのなかに入ってきた。
リイチが言ったの、ちなみはきっと海の近くにいるからって。だから堤防のとこばっかりさがしたのよ。
キョウコはどうしてか息を弾ませている。
何も言わないちなみを気遣ってか、ナツメは、
だいじょうぶ、キョウコはちなみのこと怒ったりしてないよ。
微笑みながら言った。リイチも、そんなことを言いたげな目をちなみのほうへ向けていた。
マーブルはみんなと交わらずに、ただ黙って海を眺めている。
どのくらいここにいたの? ナツメが訊ねても、ちなみは頬をほてらせて黙っているだけで何も答えようとしない。すぐそばでキョウコが思わせぶりなため息をついた。それが合図みたいに、沈黙が五人を包んだ。海がゆれる。水が近づいたり離れたりする音しか聴こえなかった。
言葉を発したのはちなみだった。
ずっと。
どうしようもなく不安定な声だった。いつものちなみの声だ。
ずっと、って……そんなに長いこと、ここに隠れてたの。
ナツメがまた訊ねると、ちなみは、うんうん、というように何度もうなずいた。
堤防の穴ぼこのなかはとても狭くて、熱もこもっていて、よくこんなところでじっとしていられたな、とナツメは思う。同時に、ちなみのことを少し気の毒にも感じた。
同じように、堤防の側面がくぼんで穴の開いている場所がいくつもあって、四人はそこを逐一、ちなみがいないかどうかを確認してまわった。結局ちなみは、宝島が横一列に一番きれいに見える場所にいたことになる。
もう、昼も、すぎたよ。 リイチがそっと言う。
太陽は少し前に昇りきっていた。
まだだいじょうぶ、時間ならあるから。
みんなに言い聞かせるキョウコ。そしてそのまま、薄暗がりのなかで、ちなみにそっとすり寄っていった。
ちなみ、……あたしのこと、こわい?
キョウコは、なるたけやさしくひびくような声で言ったつもりだった。
ちなみは強く首を振った。ほんとうの気持ちだった。
ナツメはほっとしたように、二人が寄り添って座り込んでいる様子を眺めた。
……よかった。 キョウコはそう言って、ほのかに耳を赤くした。
また怒ったのかと心配したナツメだったけれど、違う、キョウコは怒ってるんじゃなくて、泣いてるんだ。顔をそっと片手で覆って、誰にも泣き顔なんて見せたくないとでも言いたげに。
リイチとマーブルの二人はそんなことに気づく様子もなく、お互い勝手に海に見入っている。
ちなみはキョウコの腕を両手で握りしめていた。あついけれど、たしかにやさしい体温が、キョウコの片腕で波打っていた。
海が凪いだ。ゆれ動いていた青い波がもといた場所へ散らばって、宝島が一瞬だけ静まり返った。
五人はツヅキ島の海岸にたどり着いた。やっと目的地にくることができて少しは嬉しいはずなのに、示し合わせたように誰も何も言葉を発しようとしなかった。
島をとりまいている海が、太陽のせいだろう、うっすら琥珀色に光っている。ナツメの目にはそう映り、なんとなくきれいだと思えた。
ナツメ以外の四人も、おもいおもいに海を眺めていた。リイチは海岸線から少し離れたところで腰をかがめて、キョウコとちなみはだらしなく足を海水にひたしながら二人寄り添って、マーブルはそれなりの大きさの岩に腰を下ろして、ときおり思い出したように頭をかきながら。
ナツメは、突っ立ったまま一人で海を見ているリイチのほうへ寄っていった。リイチはちらりとこっちを見たけれど、すぐに目を逸らしてしまった。ナツメは寂しくなったぶんだけ、その横顔をじっと見つめる。こっちの視線に気づいているはずなのに、リイチは反応を示さない。
どこを見てるの? なにを見てるの?
そう言って、なおも懲りずに顔をリイチに向ける。すると、リイチがようやく口をひらいた。
さがしてるんだ、白い大きな船。
そう言いながら海だけを見ている。
白い、船?
うん。ずっと前に一度、見たことあったんだ。たぶん、ここで見れるはずなんだ。ここからかもしれないし、あっちの衣ヶ島かもしれないし、別のとこかもしれない、けど。
ん、どんな船なの、それ。
だから、白くておっきな船だって言ってるじゃん。
リイチはもどかしくなってまた目を逸らし、ふらふらと海岸を歩きはじめた。ナツメもついていく。
ナツメたちが歩くのに引っ張られるように、海の水は、すいすいと光の流れに乗っていった。リイチは小さな石を拾い、海へ放り投げた。ちゃぽんとまぬけな音をたてたきり一度で沈んでしまったから、ナツメはおもわずくすくすと笑ってしまった。
ふと振り返ると、自分たちのいるツヅキ島と、その向こうの衣ヶ島とは、もう陸でつながりかけていた。
ねえ、リイチ。
ん。
たぶん今日は、白い船、見れるよ。
白い船、じゃなくて……白い大きな船。
そう、白い、大きな船。今日はぜったいに見れる。
どうして?
だって。 ナツメは一瞬だけ、空を仰ぐ。 だって、海の光がこんなにまぶしくて白いんだよ。ここから見える船なら、たとえば真っ黒い船でも、さーっと光って、ぜんぶ白く見えるよ。
遠くからキョウコの声がした。たぶんナツメを呼んでいる。困ったようにリイチの顔を覗き込んだ。すると、
行こう……早くしないとキョウコはうるさいから。 そう言ってリイチは、歩いてきた道を引き返しはじめた。
ナツメは立ち止まって、なんとなしに耳を澄ました。リイチが貝殻の混じった砂を踏む音、海水が動くかすかな音、風の音、ゆっくりと身体中に染み渡っていった。
海岸線にみちびかれるように、ナツメの足は再び、水のあるほうへと向かっていった。
リイチはひと足先にキョウコとちなみのもとへ戻っていた。キョウコ、ちなみ、リイチは水際にたたずんで、お互いに顔を見合わせたり、首をかしげたりしながら海を眺めていた。
さっきまで見えたのになぁ。 キョウコはなぜだか、誰にともなくそんなことを呟いていた。
衣ヶ島が真ん前に見えている。潮が目一杯に引いたところに現れた陸地が、ツヅキ島から衣ヶ島への道を作っていた。
あれっ? ねえリイチ、あの船。
ナツメは沖にある港を指差す。リイチにも見えるかな、と思う。
とてもゆっくりした速度で、大きな貨物船が港を出ようとしていた。リイチは、陽炎の先の貨物船にまなざしを向けた。いつになく素直な態度だったように、ナツメは思う。
そのうちナツメは、自分が早とちりをしてしまったことに気がついた。水面を流れていくそれが、リイチの言う白い大きな船とはほんの少し違う色をしていたからだ。
わかっていたはずなのに、リイチは怒りもしないで、ただ貨物船に目をそそぎ続けていた。
つられて一緒に見ていたキョウコが、急に口をひらいた。遠くにある船を見つめて、
あたし、あの港からおっきな船に乗って、浦戸湾の向こうに出ていったことあるのよ。
貨物船の背を包むように、入道雲がくっきりと空にかかっていた。
うそだぁ。 ちなみが声をあげる。
ほんとなのっ。
まるで自分に言い聞かせるみたいに、キョウコはその主張を曲げようとしなかった。
ナツメは腰をかがめたままで、貨物船の出港を見届けた。船は太陽の光に溶けて、いまにも海に混ざり合いそう。そのうち、大きな細長い貨物船は衣ヶ島のうしろに流れて、島陰に姿を隠してしまった。
ふいに背筋をつたって流れたもの、その冷たさに、ナツメはおもわずうわずった声をあげた。振り返ると、ちなみが両手を水に濡らしてにやにやと笑っていた。本当に楽しそうに笑っている。ナツメもつられて笑う。
それから、ナツメとちなみはお互いの身体に水をかけ合って遊んだ。水滴がキョウコにもリイチにもかかった。
冷たい。 キョウコはやけに弾まない声で言う。
リイチもこくりとうなずいた。
空中に放たれるたび、水滴はかすかな影をおびて銀色に光った。あっというまにナツメとちなみの服はびしょ濡れになった。それでも二人は水をかけ合って遊び続けた。
楽しそう。
うん、楽しいよっ。 ナツメは、呆れた様子のキョウコに答える。頬を上気させて、息も上がっている。
ちなみは、ナツメの背中にまた水をかける。冷たさで首筋がふるえる。そのせいでまた元気をとり戻したように、ナツメは片手を払って水を飛ばした。ちなみは声のない笑みをこぼす。いつの日からか、ちなみは笑うときに声を出さなくなった。だから、そのぶんまでナツメはたくさん笑う。両手にあふれるくらいの水を掬って、ちなみの華奢な身体に浴びせかける。そうすると、ちなみがまた満ち足りたように音もなく笑う。水が夏の空を飛びまわる。
さっきよりたくさんの水を掬って、ちなみに浴びせようと大きく一歩踏み出した。だけど欲張りすぎたのか、二、三歩歩くなり、ナツメは地面に足をすべらせて転んでしまった。
キョウコがあわてて駆け寄る。
だいじょうぶ?
うん、へいき。ちょっとすりむいただけ。
すこし休みなよ、ね、ちなみも。 キョウコが心配そうに、二人に声をかける。
ちなみは寂しそうにこっちへ顔を向けた。ナツメはその瞳を一瞬見たあと、すぐにうつむいた。
――遊び相手がいなくなった。ちなみは、ナツメが転んだことよりも、そっちのほうが心残りだった。
木陰にしゃがみ込んだナツメとちなみ、少しのあいだそこで、ぼろぼろになった身体を休めた。息をととのえたら、二人ともすぐにまたはしゃぎ出すつもりだった。
あー……
ちなみがふいに声をあげた。その視線の先には、マーブルが一人で衣ヶ島のほうへ歩いていく姿が見えた。孤独そうなうしろ姿だったけれど、ナツメは別にそれ以上どうしようとも思わなかった。マーブルはいつもそんな風だ。リイチとも似ているけど、やっぱり少し違う。
リイチとキョウコは、水際に散らばった貝殻を眺め続けていた。二人とも何を話すでもなく、地面に散らばった冴えない色の貝殻にひたすら目を転がしていた。二人の影は白昼の真ん中にくるまれている。近くにいるのに重なることもない。
かすかな視線のようなものを感じて、リイチはおもわず顔を上げた。案の定、マーブルが離れた場所からこっちにまなざしを向けていた。だけどリイチと目を合わせた瞬間、そっぽを向いて、また衣ヶ島へ歩き出した。キョウコもその様子を見咎めていた。リイチとキョウコは再び地面に目を向ける。
海風が二人の膝をかすめていった。
リイチは振り返って、ずっとうしろにいるナツメとちなみを見た。ちなみはリイチに気がつくと、にこにこ笑いながら大きく手を振った。
それから目をもとの場所へ移すと、キョウコが視界からいなくなっていた。ほんの数秒だったのだろうけれど、あわててきょろきょろと辺りを見まわした。なぜかどこにもいないで、リイチが隠していた不安は、ひと息で鼓動のようにふくらんだ。
こころのなかだけで、その名前を何度も呼んだ。
すると、ふいに背中を小突かれた感触がした。うしろを振り向くと、キョウコがいたずらっぽく笑っていた。安堵しすぎたのか、リイチは腰からくずおれてうしろに倒れそうになる。咄嗟にキョウコはぼくの腕をとって、支えてくれた。それでも軽く尻餅をついて、ほんの少しズボンが水に濡れた。キョウコの細腕の隙間から空の境目がたしかに見えた。影がいくつも折り重なって遠くの山の稜線は墨のように暗い。そのふちで、光がひそやかに滲んでいた。
そそっかしいの、いけないのよ。お母さんそう言ってたもん。
キョウコの声。まだ、ひとりごとのように続いていて、
あたしたち、この五人じゃなかったら、たぶんみんな一人ぼっちだったよね。
リイチはようやく反応して、ん、と声をもらした。ちゃんと聞いてるんだ、とキョウコは勝手に解釈する。
この五人が、あたしをいつも、こわいものぜんぶから目をふさいでくれたから。
………………
みんなで手をつないで輪になって、みんなで背中をお日様に向けて。そしたら、こわいものが見えなくなる。きれいなものだけ、その輪のなかには集まってくるの。みんなとあたしはね、いつもそうやって一人ひとり、守り合ってるの。
手なんか、つないだことないよ。
ばか、リイチ。見えないだけで、ほんとはずっとつないでるのよ。あたし、そう思ってる。
…………
……ナツメはね、あたしの長い話をいつも聞いてくれるよ。むずかしい話しないで、っていつも言われるんだけど、それでも、最後までちゃんと聞いてくれる。
ふうん。
マーブルは?
え。
マーブルは、リイチになにをしてくれる?
別に。……勝手に、あいつがついてくるだけ。
キョウコはにやにやしながらそれを聞いていた。
あたし、この五人でここにこれて、よかった。
マーブルはすでに衣ヶ島のはしに近づいていた。みんなはもう気にもしていなかったけれど、ちなみだけが唯一、心配そうにマーブルのうしろ姿を見つめていた。
リイチ、ねえ。
呼びかけられて振り返ったリイチの顔に、キョウコは手で掬った水を浴びせた。
…………なに。
きゃはは、とキョウコは笑う。もうちょっと反応してよぉ、あたしがいじめっ子みたいじゃん。
そう言ってしゃがみ込んだ。
ほらっ。 キョウコは再び、リイチに水を飛ばした。
もうそれに見向きもせず、リイチは一心に沖へ目を向けていた。
……ごめん、リイチ。
え?
…………ごめん。
あ。
ん? どうしたの。
あ、違うんだ。
うん?
今、白い船が向こうを流れていったように見えたから。
ツヅキ島を半輪状に囲む道がわりの小さな橋を、ちなみはナツメをつれて歩いていた。
キョウコとリイチだぁ、ほらあそこ。 ちなみは嬉しそうに、遠くの岸辺にいる二人を指差す。
うん。
ちなみの顔が、急に視界の真ん前に現れた。びっくりしたついでにナツメが笑うと、ちなみは満足したように相好を崩して、またふらふらと歩みはじめる。おぼつかない足取りで、風みたいにナツメの前を通りすぎていく。
あれ? とナツメは思う。ちなみのうしろ姿があんまりきれいだったからだ。ナツメはその背中に、光の受け皿のようなものを見た気がした。
やがてちなみは立ち止まり、その場にしゃがみ込んだ。
ちなみっ。
ナツメが呼びかけるとすぐにちなみは振り向いた。
あのね、ちなみの背中に、光がおんぶしてたの。
ぽかんとしたように、ナツメを見上げている。
さっき。
ますます、わからない顔をする。
きれいだった。
首をかしげる。
ちなみの背中が、うそみたいに、きれいだったよ。
そう言うと、ちなみは安心したように笑った。声は出ない。とてもやわらかい微笑みだった。
ありがとぉ。
ちなみの声はまだふるえている。だからナツメは、いっそう丁寧に自分の声をつむいで、
どういたしまして。
それからしばらく、二人で、そこから見える景色だけを眺めていた。
沖にある港からまた貨物船が出ていった。山の緑と青い空は一度も溶け合うことがなかった。車が流れている橋も見えた、街は遠い。白い鳥の群れがその遠い街をよぎる。街を飛んでいたかと思うと、いつのまにかずっと手前の衣ヶ島の前を通りすぎていく。今度はもっと遠い工業地帯のクレーンを追い越していった。遠近感がわからなくなる。自分が今立っている場所をナツメはたしかめた。ああ、こんなに遠いところに、わたしとちなみはいる。
ずっとまえね、この海に、猫、おとしたの。
ちなみの声が聴こえた。
猫? 理解が追いつかずに、ナツメはそのまま言葉を返した。
うん。うちで飼ってたの。名前は、ミミっていうの。
その猫を、海におとしたの?
うん。
飼い猫を海に落とした話。ちなみはそれをゆっくりと語ってくれた。
ミミね、トラみたいな色してた。女の子だった、けど、大人だったから、女の人?
うん。
あたしが小さかったときね、ミミ、死んじゃった。
うん。……どうして死んだの? 事故? 病気?
わかんない、忘れた。
うん、そっか。
ミミのおとむらいをしようって、ママが言ったの。それで、その日、タオルでぐるぐる巻きにされたミミをつれて、ママとここにきたの。
うん。
ミミが海へ、ぽんって、投げられて。ばしゃんって、ミミのからだが海に当たって。ミミ、そのまま海にずっと浮かんでた。もう、動かないから、海にずうっと、まるまったまんまで浮かんでた。
ミミを海におとした人は? ちなみのお母さん?
ううん。
ちなみ?
ううん。おぼえてないの。ママか、あたしの、どっちだったか。
そう。
ミミをくるんだタオルが水を吸って海に沈むまで、ちなみは母に倣い、両手を合わせておいのりを続けた。ちなみの憶えている感覚では、海は今よりももっと大きくて、橋ももっと高いところにあったような気がした。そんなちなみのたどたどしい話を、ナツメは何度もうなずきながら聞いていた。
目を瞑ったまましゃがんでいるちなみを、じっと見つめる。まつげの先にさえ白い光が見えた。
ミミ、今も――あたしたちのかわりに――海のなかでおやすみしてるのかなぁ。
いつもリイチやマーブルがやるみたいに、何度か海へ石ころを投げてみた。
石が水を撥ねた瞬間だけしか、時間は動いていないように思えた。もう少ししたら、きれいな広い海は今以上に澄みきって、限りのないところへとつながっていくだろう。
ナツメ。
その声はキョウコのものだった。
ちなみもリイチも、衣ヶ島にわたっていっちゃったよ。やっぱりマーブルのこと好きなのね、二人とも。
そう。
どうする? ここにいたい?
ううん。
ナツメはもう、とまどいはしなかった。
行こうよ、キョウコ、あっちまで。みんながいるところへ。
その言葉を聞いて、キョウコは安心したような微笑みを浮かべた。
リイチ、マーブル、ちなみの三人は、衣ヶ島を囲む海岸線をたどった先の磯辺にきていた。ごつごつした岩で地面は覆われていた。真ん前には緑色の玉島が見えた。
岩と岩との隙間に、透明のガラス瓶が落ちているのをマーブルは発見した。酒か何かがなかに入っていたのだろう。ラベルは水に溶けて、ほとんどはがれ落ちている。
マーブルはそれを拾い、まじまじと見つめる。
リイチは相変わらず白い船を待っている。そのそばにちなみもついて、二人、飽きもせず海に目をそそいでいた。
マーブルはガラス瓶の首を持って、丹念に眺めている。うっすらと青みのかかった海が瓶の向こうから透けて見える。マーブルの指の裏側までくっきりと映した。
光がガラス瓶に当たった。すると、瓶の向こうの海岸線の景色は急に白く濁り、かすんでいった。マーブルは瓶をかたむけたり、振ってみたりして、再びそこに景色が映されるのを待ったけれど、いつまでたっても元通りに透けないで、やがてガラスの表面は、すべてが白い光に包まれた。
それからしばらく待っていると、ガラスがまた別の光を放った。その光が閃いた途端、ひとつの景色がガラスのなかに映し出された。
海岸でも、自分の指でもない。マーブルはその飴色の光の奥に、自分だけしか知らないはずの景色を見た。
ガラスの表面には、ジャングルジムがひとつ映っていた。マーブルが通っていた保育園にあった、青いジャングルジムだ。
ずっと小さいとき、マーブルはその頂上から落ちてけがをした。頭を何箇所か打ってたんこぶがいくつもできた。まだみんなも揃っていない朝早く、園の庭で一人で遊んでいるときだった。パチンコ玉みたいにジャングルジムを転げ落ちたあと、自分がそこから落下したことを確認すると、途端に目尻から涙が湧いてきた。痛みを感じ出したのと、ほとんど同じ瞬間だったように思う。しばらくすると、泣いているマーブルを見つけて女の先生が駆け寄ってきた。先生は、声に出して泣くといいよ、と言った。そうしないと、泣いているあなたを見つけられないからね。
そこで映像は途切れた。マーブルの記憶に残っているそのままの光景が、ガラス瓶に映し出されていた。
やっと見つけたんだ。 マーブルはそう思う。 これが、さがしてたものなんだ。
ちなみがこっちに歩いてきた。マーブルの隣にしゃがみ、ねぇ、とささやく。
リイチがね、すごくおもしろいお話、してたよ。
マーブルは、瓶だけを見ながら適当に返事をする。
なあに? それ。 ちなみは目の前のガラス瓶を指し示す。
これ?
ちなみはうなずく。
見せつけるようにして、瓶をぐらぐらと小刻みにゆらすマーブル。ちなみは首をかしげる。
わかんないか? マーブルが訊ねる。
ちなみは不安そうに、こくりとうなずいた。
そっか。
突然、マーブルはちなみの目の前で、そのガラス瓶を岩にたたきつけた。ガラスの破片がいくつも飛び散った。ちなみはあまりおどろいて、ひとりでに涙ぐんでしまった。
マーブルは粉々に砕けた何枚ものガラスのなかからひとつを選んで、とまどうちなみの手に持たせる。
ちなみ、ほら、これ、のぞいてみなよ。
リイチは遠くから不思議そうに二人を眺めていた。
散らばった破片は三人で懸命に集めて、ひとつずつ海のほとりに積んでいった。やがて、そこにナツメとキョウコが合流した。ちなみは二人を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきた。
ちなみっ、そんなに走ったらあぶない。
キョウコがたしなめると、ちなみはびくっと身をふるわせて、
ごめんなさい……
反省したようにゆっくりゆっくり、ナツメとキョウコのもとにすり寄ってきた。
なんで、ガラスなんか集めてるの?
ナツメが訊いても、ちなみはにやにやするだけ、何も言わずに歩き出して、手招きしながらガラスの積んであるところまで二人をみちびいた。細かく砕けたガラスは何十個もの破片になって積まれていた。
キョウコは呆れたようにそのガラスの山を見つめて、小さな声で何か言ったけれど。
手にとって、見てみなよ。 マーブルは額にかかる汗を拭う。
ナツメはマーブルの言う通り、てのひらにガラスを乗せてみた。そしてそれをじっと見つめた。
透明なガラスのなかに、ひとすじのゆがんだ線が映し出された。それはひどく緩慢な速さで表面をつたい流れていく。やがて線と線は結ばれ、色づいていった。閉ざされていた空気がよみがえり、光たちが水のように混ざり合った。
徐々に景色が映し出されてきた。八才の誕生日、ナツメが家族でファミリーレストランに行ったときに見た景色だ。
外食に行ってもデザートを頼んではいけないというのが、家族のなかでの暗黙の了解だった。だけどその日だけ、ナツメの誕生日だけはそれをゆるしてくれた。ナツメはチョコレートパフェを頼んだ。ほかのみんなも食後のデザートを頼んだ。ナツメは嬉しくてしかたがなくて、幸福に包まれながらかき込むようにパフェを食べた。だけどあんまり量が多くて、結局、最後まで食べきれなかった。ナツメのこころは、いままでに感じたこともないような、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
そんな情けないわたしを見てさえ、きっとみんなは笑っていた。家族の顔までははっきりと映らなかった。見ようとしなかっただけなのかもしれない。
その様子を見ていたみんなも、それぞれのてのひらにガラス片を乗せて、太陽に透かして、自分だけにしか見えない記憶の景色を映そうとする。
ちなみのガラスからは、小さいころの自分が近所のスーパーマーケットで迷子になっている景色が見えた。平日でぽつぽつとしか人はいなかったが、それでもなかなか母を見つけられなかった。通りすぎる人たちはみんな、自分よりずっと背が高かった。
リイチに見えたのは、大きな白い船がゆっくりと動いている場面だった。母が運転する自動車のうしろの席に乗って、港を通りすぎようとしていたときに見た白い船だ。船体には太陽のマークが描かれてあった。リイチはそれを見て、この船はどこにいくの、と訊ねた。
マーブルは、年長組の部屋に迷い込んできたとんぼを必死で捕まえようとしていた。やけに大きな羽音が、園児だったマーブルには少し怖く思えた。リイチも手伝おうとして両手を天井に向けた。じゃまするな、とマーブルは大声で叫んだ。その瞬間、とんぼは部屋の窓から外へ逃げていった。
ナツメは公園でキョウコと遊んでいた。ブランコの柵の上をキョウコが慎重に歩いている。煙草の匂いがしたから反射的に振り返った。茶髪の若い男がベンチに座って、気持ちよさそうに煙草を吸っていた。
リイチはいとこの家に家族で遊びにきていた。大人は大人同士、テレビを見ながら土地やお墓のことについてぼそぼそと話し合っていた。リイチといとこの子どもたちは、トランプをしたり、外に出て駐車場でサッカーをしたり、限られた時間のなかで精一杯に遊んだ。いとこはみんな小学生で、女の子が一人と、男の子が二人。一人っ子のリイチは何かを吐き出すように、陽光が染みたボールを一身に蹴り続けた。
キョウコはベランダで煙草を吸っている母に、新しい服を買って欲しいとねだっていた。お金がないからだめよ、そう諭されると、キョウコはわんわん泣きながらベランダと居間のあいだの窓をたたいた。そんなことをすれば怒られるとわかっていたのに、何度も強くたたいた。母は長い髪をきつくしばっていた。
ちなみはナツメたちの目を盗んで逃げ出して、知らない路地裏まできていた。汚い水が流れる水路に小さなカニが群れていた。捕まえようと手を伸ばしているうちに日は暮れて、いつのまにかナツメとリイチが目の前に立っていた。
ナツメは祖父の家の庭で草むしりを手伝っていた。たまった雑草は祖父が火をつけて燃やした。白い煙が高く昇り、ナツメは誘われたように空を仰いだ。
小さいころ、BB弾を集めることに熱中していた時期があった。家にあったタッパーに色とりどりのBB弾を目一杯詰め込んで、いつでも大事に保管していた。ある日、マーブルは自分の家の冷蔵庫と壁の隙間に手を伸ばした。何かが見つかる予感がしたからだ。配線と埃のなかをよく漁ってから腕を引っ込めると、汚れた手のなかには、ずっと欲しがってさがしていたクリアレッドのBB弾が握られていた。
日曜日の昼ごはんはミートソーススパゲッティだった。思えばキョウコの家では、日曜の昼は大抵、ミートソーススパゲッティか焼飯かオムライスしか食べさせてもらえなかったような気がする。別のものを食べたいとは思わなかった。特別おいしいわけでもないのに。だけどその日はナツメたちと遊んだあとで、とてもお腹が減っていたから、つい――おいしい、と口にしてしまった。テーブルを囲んでいるのは、わたしと母と、ふたつ年上のお兄ちゃん。
マーブルは祖父のバイクに乗せてもらうのが好きだった。祖父母が二人で住んでいる家につづくちょっとした坂道をゆっくりした速度で下ってゆく。風はなまぬるく、祖父の背中も同じような感触だった。
春がはじまるころちなみの家族は墓参りに行った。誰だか知らない親戚の墓は小山を削って作られた場所にあって、桜と木々の緑が溶け合うなかうぐいすが啼いた。そのことを母や祖母に伝えたけれど、さえずりが聴こえたのはちなみ一人だけだったらしい。
公園につづく階段を使って、マーブルと二人でどちらがより高いところから跳べるかを競い合っていた。リイチははじめのうちこそ楽しんでいたけれど、負けず嫌いのマーブルがとんでもない高さから跳ぼうとしたので途端に気持ちが冷めた。止めようとはしなかった。昨日の雨で濡れていた手すりにもたれると、シャツが水を吸って背中をひたした。
冬の日の朝、キョウコは窓を開けて身を乗り出してみた。新聞配達のバイクが狭い路地を走り回っていた。窓は結露していて指でなぞるうちパジャマまでびしょ濡れになった。寒くなってきたから、太陽が出るのを待たずに窓を閉めて、それから隣で寝ている家族を起こした。
ナツメが母と手をつないで歩いて家まで帰っているとき、ふいに大きな自転車が目の前を突っ込んできてぶつかった。相手は謝りもせずそのまま向こうへ消えていった。暗がりで外灯と母の顔だけがぼんやり見えた。母はけらけらと笑っていた。頭がずきずきと痛むのに、母はかまってくれない。ナツメは苛立ってきてますます泣いた。よく泣く子だとそのときも言われた。
島に張り出した木々が何の前触れもなくがさがさとゆれたから、ちなみはこわがって、ガラスを握ったままリイチのうしろでに身を隠した。リイチもさっきゆれた枝葉に目を向けた。
鳥だよ。 マーブルは呆れたように呟く。
そのあと、一羽の大きな茶色い鳥は木々の隙間から抜け出して、もどかしそうに海へ飛び去っていった。ちなみは安心したようなため息をつく。汗だか涎だかわからないようなものがちなみの口元を濡らしている。
ちなみはリイチの背中にしがみついて、一向に離れようとしなかった。両手でシャツを押さえつけられているから、それが引っ張られるぶん、リイチは少しの息苦しさを覚えた。陽光が同じ場所を熱し続けていた。動かないと、ちなみまで暑くてたまらなくなる。海はそこにあるのに、もったいない。
ちなみの重りを解いてやりたいと思う。どこにあるのかもはっきりしない、夜の影みたいな重りだから、どうやって外せばいいのかもきっとわかってないんだ。
走ってもいいよ。もう、こわいのはいないから。
リイチは、背中にいるちなみに呼びかける。見てもいないのに、ちなみがゆっくりとうなずいたのがわかった。
さっきまで鳥がいた木々に向けて、マーブルはずっと石を投げている。投げ捨てているようにも見える。
背中にふれる感触が、いつのまにかなくなっていた。海岸線の波に空の色が透き通る。
ついてきて。
声がしたかと思うと、もうリイチがどの手を伸ばしても届かないくらい、ちなみは遠くにいた。しきりに手を振ったり、笑いかけたりしている。ぼくに、だろうか。なんて自由な仕草だ。
そのあとを追って、リイチは水に濡れた岩場を歩んでいった。ときおり足の下から、何かが壊れたような、がちゃりという音がする。貝殻でも踏んだのだろうと思う。あるいは、そうじゃないのかもしれない。
ついてきてっ。 ちなみの声が一段と大きくなったから、ふいに目がさめたような気がした。岩と岩との隙間を縦横に縫いながら、ちなみはおぼつかない足取りで海岸のふちを進んでいった。
おいてっちゃうよっ。
日の光が風景のすべてにまき散らされた。ちなみの身体もまぶしく照らした。
マーブルの手には角ばった石がふたつ握られている。陽光が石にもマーブルにも射していた。鋭い光は、マーブルの身体を星が瞬くよりも早く切り裂いてしまうと、たちまち空を反転させて、緑の葉のひとつにおぼろな影を投げ出した。いつのまにかマーブルはまた石を投げている。枝葉の群れに当たると、さっきと同じようにがさがさと音がしたけれど、遠くにいるちなみには聴こえないはずだ。
ついてきて、おいてっちゃうよ、ついてきて、おいてっちゃうよ。
リイチの耳に、ずっと鳴り続けていた。地面を小さく蹴って、その声のするほうへ駆け出した。
またそんなとこに一人でいる……
木々が日陰を作っている場所で、島に寄り添うようにぽつんとしゃがみ込んでいるマーブルを見たキョウコ、呆れたように言う。
ほら、海ならもっと近くで見ようよ、一緒にいてあげるから。
だけど、マーブルは首を振って拒んだ。キョウコが何度誘っても同じことだった。しかたなくキョウコは、
いいかげんにしなさいっ……
マーブルの細い腕を、両手で持って引っ張った。ぜんぜん動いてくれないで、逆にこっちの腰が浮くばかりだった。
力ないね、キョウコ。
そうやってばかにされても、まだ懲りずにマーブルの腕を引っ張った。やっぱり石みたいに重くて、一向に立たせることができない。
あれ? いま、あたしのこと、キョウコって言った?
うん。
うそよ。だって、マーブルが名前呼んでくれたのなんてはじめてだもん。
さざなみが風をはらんで音を作った。汗が身体からするりと逃げていくくらいの風だった。
キョウコは片手でマーブルの腕をとったまま、ぽかんと立ち尽くしている。マーブルは日に焼けたキョウコの素肌を不思議そうに眺めながら、本当に、ずっと名前を呼ばないでいたのかな、と考える。
キョウコがすぐ隣に腰を下ろした。いやがって地面をすって離れようとしたけれど、咄嗟に腕を押さえつけられて、マーブルはその場に動けなくなった。
沈黙があったときに限って、近くで蝉が鳴いている。キョウコはマーブルの腕をつかんだまま、空を見上げた。
たまらなくなって何か言おうとしたマーブルだったけれど、それよりも早く、キョウコのくちびるが自分のものにふれた。
そのあと、何事もなかったみたいにキョウコは立ち上がって、
早くしなっ。ほら、一緒に歩いてあげるから。
ナツメはずっとガラスのなかを見ていた。
色んな人の姿が、どの景色にも映っていた。そこには四人の影もあった。光るガラスのなかで、霞のようにずっと浮かんでいた。
三着ほどしか見たことのない、リイチがいつも着ている安っぽいTシャツ。マーブルの首にたれ下がった重たそうな黒い双眼鏡。困ったときのちなみが無意識に出す、あーとかうーとかいううなり声。キョウコの首筋からわずかに流れる汗。
それぞれ、身体の一部分だけ。ナツメがその目で見たままの、四人の姿だった。かすかな景色は記憶の隅っこで、忘れられたりしないよう、たえず出たり引っ込んだりを繰り返している。
リイチは息を切らしながら走った。遠くを走るちなみは、海岸の隅から隅を飛び跳ねるように動いていく。白い陽光が蓋を開けて、たちまちリイチの目をくらませる。ちなみの淡いシルエットが、分厚い光に包まれて見えなくなった。
リイチは立ち止まろうとしない。
マーブルはどうやっても動こうとしない。逆らうことに疲れたりしないマーブルであることを、キョウコもよく知っていた。それとも、すねちゃったのかな、と少し考えてしまう。
あきらめたふりをして、キョウコはそっとマーブルのうしろにしゃがみ込んだ。不機嫌そうにまるまっているマーブルの背中に、自分の手を置く。シャツが汗を吸って湿っている、あつい背中。いくらふれても、マーブルはなぜか抵抗もしなかった。
海岸の片隅で、二人の影だけがゆらいでいる。
あたしね、今でも、海になりたいって思ってるよ。
すぐうしろにいるのに、まるで遠くから呼びかけられているようなキョウコの声が、身体を包む。振り向きたいとも思う。だけど、海から目を逸らしたくはない。
ちっちゃいときからずっと変わらないの。たぶん、もうちょっと大人になったら忘れちゃうだろうけど。だから、マーブルだけに言うね。あなただけに、よ。ちゃんとわたしの言葉、憶えててね。ね、やくそくよ。
キョウコは小さな声で話しはじめる。
海に帰りたいって思うの。
あたしたち、生まれるまえはみんな、きらきら光る海にいたのよ。ね、わかる?
きっと、生まれる前からぜんぶを見てきたの、あたしたち。
だからあたしは、いつか大きな海に帰って、またいちから、色んな景色を見てみたいの。
はじまりもおわりも、海のなかで。
それがあたしのねがい。
マーブルは静かに目を閉じた。まぶたの裏側からも、やさしい光がふれていた。
おれの目をふさいでくれたのは、だれだ?
マーブルはそんなことを思う。
もうすぐなんだ、もうすぐで追いつける。
リイチがちょっとでもそう考えるたびに、ちなみのうしろ姿はたちまち遠のいてしまう。いくら走っても距離が詰まることはない。水際をちなみが駆け抜けると、たくさんの水しぶきが光りながら跳ね上がって、雲のはしまで届きそうに伸びた。
まってよっ、ちなみっ。
そう叫ぶと、ちなみはようやく立ち止まって、リイチを振り返った。
地面にうずたかく積まれたガラスの山。
海岸線をふちどるようにして、誰かの遠い声がひびいたような気もする。
ナツメの瞳に映る海が、思い出したように再び透明にきらめいた。
ナツメはガラスをひとつ手にとった。おきざりにされた景色が、またひとつ表面に映し出された。
一時の眠りからさめた直後、そこは車のなかだった。前の座席で運転しているのは父親、助手席に座っているのは母親。二人とも無言のままだ。スピーカーからは当時の流行歌が流れている。きんきんと鼓膜にひびく女性歌手の声だった。起きてまもない夢うつつのまま、ナツメは窓の外を見た。夜の高速道路のようだった。家族旅行の帰りなのだろう。メーターが徐々に右へふれて、スピードが増していく。眼前の薄暗い景色がどんどん流されていく。外気が車の表面をきつくかすめる。だけど車内は、そんなこととはまったく関係ないかのような、ゆるやかな時間に満ちていた。旅のおわりの空気は、いつだって穏やかだ。
母は父にガムを差し出す。父はそれを受けとって、サンキュ、と一言だけ。青い扇形の弓矢が描かれた煙草の空箱が、サイドブレーキのそばでひしゃげていた。
そこで映像は途切れた。ガラスから目を離すと、どこまでも膨張する光る海が眼前に飛び込んできて、たちまちナツメの視界を覆った。一瞬、ナツメは寝てもいないのに、まるで自分がもう一度覚醒したかのような感覚を覚える。そうやって目ざめるたびに、記憶は少しずつこぼれ落ちていく。宝みたいに抱え込んでいた記憶さえ、時間の箒で散らされて。やさしさもゆりかごも全部忘れて、あとには争いだけが残ってしまう。
ナツメはガラスの山を見つめる。重なり合ったそのどれもが、夏の光を集めて等しくかがやいていた。そこから離れた地面にも、足跡みたいにガラスはぽつぽつと落ちていた。何もないところが光っていると思ったら、みんなそれだった。
ナツメは山のてっぺんに積まれていたガラスを手にとって、そのままぽとりと下へ落としてみた。ガラスは地面に落ちた途端、溶けてなくなってしまった。石ころみたいな小さな光をこぼして、ナツメの世界から消えた。ナツメは腰をかがめて、さっきガラスが落ちた場所に目を向ける。もう、何もないのに、光だけは消えずにいた。手を伸ばしても、つかめないでいる、その小さな光。太陽がふれる場所に、ひとつだけ残されていた。
もうひとつ、ガラスをつかんでてのひらに乗せた。じっと見つめていると、ガラスの破片はある瞬間ナツメの手を離れて、ゆっくりと空へ昇っていった。ナツメはぼんやりと青空を見上げる。また同じように、ガラスは天上に溶けて、そこだけにぽつんと光をともした。
いつものやさしい声、リイチの声だ。
やさしい声より、自分を怖がらせる声のほうが多く聴こえるようになったのは、いつのころからだろう、とちなみは考える。背が伸びていくにつれて、そのありふれた声たちについていけなくなった。まわりのみんなは笑い顔を作って、それにも混ざっていったけれど、わたしはそうすることができなかった。たぶん、ここにいる四人も同じだと思う。
リイチの声だけがこんなにもやさしくひびくのなら、わたしはずっとこの宝島にいたい。
自分が走ってきた岩場を目でたどる。あ、ナツメちゃんだ、遠くのほうに一人きりでいる。たくさんのガラスを花束のように抱えて、おぼつかない足取りで歩いている。重いんだろうか。だけど、嬉しそうに笑っているようにも見える。
いつしか空には、小さな光がいくつも瞬いていた。まるで真昼の海のように、かがやいて。
ちなみっ。 また、リイチの声がした。わたしを呼んでるのかな。
ナツメは衣ヶ島の外周をゆっくり歩きながら、両腕にいっぱい抱えたガラスを、空や海にまいていった。そこにガラスを放てば、光はともった。冴えないでいた景色にも、薄暗い遠くの影にも。ナツメはそればかりを繰り返した。ガラスが埋め込まれるたびに、それぞれの景色は、忘れていた純粋さを一瞬でとり戻していった。
きれい。
ナツメはひとりでにつぶやく。きっと、みんなだって喜んでくれるだろう。
そう思うと、まるで自分がしあわせを配っている人みたいで、どこか誇らしいような気持ちさえしてきた。保育園の文集に書いた将来の夢、たしかケーキ屋さんだった。わたしが今していることだって、おんなじようなことだよね。
空、海、山、船。ガラスはどこへでも飛んでいった。目に見えるだけの景色、みんなわたしの景色。
家にいるときの母はいつもとてもいそがしそうにしている、とリイチは思う。ずっと昔に離婚しているので父親はいない。母がいつも何かに追われるように家事をこなしている姿を、リイチは少しかわいそうに思っていた。だけどそれを口に出して言ったことはない。かといって何か手伝いをしようとしたこともなかった。ご飯を食べおわると床に座り込んでテレビをつける。リイチはそれを見ているふりをしながら、台所で食器を洗っている母の横顔を眺めている。ほかの女の人のことはよくわからないけれど、と、リイチはテレビと母を交互に見ながら思う。あの横顔はたぶん、誰が見たってとてもきれいに映るはずだ。
これ、見ていい?
母に訊ねた。リイチが手にとったのは、今より少しだけ若い母と、それでしか見たことのない父の顔が映っている、二人の結婚式のビデオだった。
やめて。 母はくすくす笑う。 違うのにしてよ。ほら、魔女の宅急便を録画したのがあるじゃない。
まだ母は穏やかに微笑んでいる。自分のほうだけを向いて、ひそやかに語りかけるみたいに。その顔を見たいだけなんだ、とリイチは思う。
今、海岸のはしでこっちを見ながら、そのときの母と同じような顔をして微笑んでいる人がいる。
誰だろう?
こっちきてっ、もう走らないからっ。
リイチは一歩ずつ、それに近づいていった。
大声でみんなの名を叫んだけれど、返事はない。水がこすれる音しかひびかなかった。
片手に残っていた数枚のガラス、海へ放った。ガラスがゆるやかな弧を描いて落下したその場所から、海は光の粒を散りばめてきらきらとかがやく。辺り一面を懸命に照らそうとしていた。
みんなでずっと海を見ていようよ。わたしたちの海だよ。
自分の片手に、どこかなつかしいような感触がふれた気がした。見ると、指先に細い糸が一本、いつのまにかつながれていた。その糸は虹のようなあざやかな色をしていて、地面と平行にぴんと張ったまま、ナツメのうしろでにどこまでも長く伸びていた。ナツメはうしろを振り返り、自分の指につながれた細い糸の先を目でたどる。島の裏側までずっと伸びていて、どこまで続いているのかもわからない。きっと、どこまでも伸びているんだろうな、とナツメは思う。海だって越えるくらいに、どこまでも長く。
いつのまにかキョウコたち四人は、ナツメのもとに集まってきていた。
ちなみは壊れたようにずっと笑っている。マーブルがそんなちなみをうっとうしそうににらむ。ちなみ、と声をかけたのはリイチだった。きれいだろ、そう言って貝殻か何かを見せている。キョウコが息を吐くたびにどこかの陽炎がゆれている。それぞれの影がつらつらと動く。
ナツメの指先につながれた虹色の糸、何もしていないのにふいにきらめいた。太陽の光が当たったのだろう。ナツメは自分のうしろでにずっと続いている虹の糸を、何の気なしにくいっと引っ張った。
すると、キョウコ、リイチ、マーブル、ちなみの四人は、たちまち飛び散るようにして駆け出し、ナツメのもとを離れていった。ナツメがおどろくまもなく、みんなが勝手に、どこかへ逃げ去ってしまった。
ナツメはその光景を見て、なんとなく、この糸が自分の指につながれた意味を理解した。
今度はわたしが、みんなをさがす番だ。
それからナツメは、長い時間をかけてゆっくりと島をまわっていった。太陽が沈む瞬間は、近い。
最初に見つけたのは、ちなみだった。
ちなみは、いつか話してくれた、あの猫を落とした橋のたもとに立っていた。ナツメは嬉しくなってちなみに手を振った。気づいているはずなのに、ちなみは手を振り返してくれない。
少し寂しい思いをしながら、それでも橋まで歩いていった。一歩ずつ近づくにつれて、ちなみの両腕が何かを抱えていて、それが胸を覆っていることに気づく。
ナツメはちなみの隣まできて、
なにを抱いてるの?
目に映ったちなみは、さっきよりもずっと幼い姿をしている。たぶん、四、五才くらいになってしまったんだろう、虹の糸が伸びたせいで。きっと、わたしだって同じくらい小さくなっている。
ちなみはどこかうわずった声で、ナツメに答える。
猫のミミ。今日の朝ね、死んじゃったの。
足場の下で、島影に包まれた薄暗い海がゆれている。
ずっとおびょうきだった。
かすかに涙ぐんでいた。
ナツメはその真っ白いタオルに包まれた猫に目を向けた。するとちなみは、ミミを守るようにさっと背中を向けた。
ごめん、もうみないから。
ナツメがあやまると、安心したように、また身体と猫をこっちに向けた。
おかあさんは? ナツメは記憶だけを頼りにして、ちなみに訊ねる。
ママ?
うん。
いないよ。
…………
いない。
ミミのひからびた、だけど不思議にやわらかそうな顔が、タオルの隙間から覗いている。目の辺りに、焦げ茶色の大きなあざが見えていた。
一人できたの?
こくりとうなずく。
それからナツメは、ミミが、ちなみの手で海へ放たれるのを見届けた。
ナツメちゃん、ミミが海へかえってったよ。
うん。……きもちよさそうだね。
うんっ。
ミミは水面にぷかぷかと浮かんだまま、次第に沖合へと流されていく。
あっ、……あたし、ミミにさよならいうの忘れてたっ。
そう言うと、ちなみは橋のたもとからぐっと身を乗り出して、
さよーならーっ。ミミっ、また会う日までーっ。
そのとき、ナツメの指につながれた虹の糸がまた光った。
すぐに会えるよ、きっと。 ナツメは微笑みながら言った。
どうして?
ちなみはとても無邪気に問いかけてくる。
ナツメは自分の肘を小さく上げて、虹の糸をちなみにも見せてあげた。
わぁーっ、きれい。
ちなみは目をぱちぱちさせて、糸に目をそそぐ。
これがあるから、あたしたち、もといた場所にいつでももどれるの。
ほんとに?
ほんとうだよ。
それじゃあ、もういちどミミとあそべるかなぁ。
ナツメはこくりとうなずいた。
やったあっ。
ちなみはナツメの身体に飛びついてきゃっきゃっと笑う。ナツメもつられて笑う。虹の糸は果てしなく遠くまで伸びている。
だからっ、早くナツメとちなみをつれてくるのっ。
キョウコの声が空気に弾む。
やだよぉ、キョウコが行けばいいじゃん。 リイチが言う。
だめなのっ、だーめっ。
そう言ってぱちゃぱちゃと海水を踏みつける。水しぶきが跳ねる。
マーブルっ! 今度はしゃがみ込んで、両手でしぶきを散らした。
おっきい声だすなっ。いま、船をみてるんだから。
マーブルはうっとうしそうに言う。すると、誘われたようにリイチがそばに寄ってきて、
どこにあるの?
マーブルが指差した先に、その白い船はあった。
ぼく、もっとかっこいい船みたことあるよ。あんなのよりもっとおっきくて、かっこいい船。
何色?
白。だけど、白よりもっと、真っ白い色。
なんだそれ、いみわかんない。 吐き捨てるようにマーブルは言う。
船のおはなしはいいのっ。二人でナツメとちなみをつれてくるのっ。
わめくキョウコにシャツの背中を引っ張られたマーブルとリイチは、二人ともよろけて体勢を崩した。しゃがんでいたマーブルが、ころんと仰向けに転んだ。
あはははははっ。 キョウコはけらけらと笑う。
マーブルはよほど恥ずかしかったのか、顔を赤くしていきなりキョウコに飛びかかった。押し倒されたキョウコは急に涙ぐんで、それから数秒もたたないうち、火のついたように泣き出した。マーブルは手を離した。
たちまち宝島は、キョウコの甲高い泣き声でいっぱいになった。
リイチはマーブルを諭すように、
女の子を泣かせちゃいけないって、お母さんがいってたんだ。
うるさいっ。 感情のやり場もないマーブルは、苛立ちにまかせて両手で地面をたたく。
マーブルがいくら、
泣き止めっ。
と叫んでも、キョウコの嗚咽が止まることはなく、リイチと二人で困り果ててしまった。三人とも、ナツメやちなみと同じように、幼い目が似合う小さな身体に戻っていた。
それ、もたせてあげたら。
リイチは、マーブルが首に提げている大きな双眼鏡に視線を向けた。
やだよ。
誰にさわらせたこともなかった。たとえキョウコが泣いていたって同じだ。だけど、いつもキョウコがその双眼鏡を欲しそうにしていたのを、二人ともよく知っていた。キョウコはまだぐずぐずと泣いている。
白い船は湾から離れず、いくらでも待ち続けている。たしかに海を流れているのに。
凪の訪れ。すべての水面は、一様にひとつの音もたてなくなった。
ナツメちゃん。
なに?
あたし、しずかな海はこわい。
ちなみはナツメの前に手を差し出した。
ナツメちゃん、おてて、つないで。
日が落ちてくるにつれて、青く澄んでいた海はうっすら暗緑色に染まってきた。
つないで。 ちなみはもう一度言う。
ナツメは彼女の小さな手をとって、そっと握りしめた。
いこう、ちなみ。
うん。
二人は衣ヶ島へと歩き出す。ちなみは半歩ほど下がって、ナツメの背中に身を隠すようにして歩く。昼ごろまでは大きくふくれていた白雲、次第にふやけていく。知らぬまに空へぼんやり染み出していた。
あのねナツメちゃん、 と、ちなみのか細い声。 しずかな海はこわいけど、好き。
海に映る淡い影は、こぼれ落ちてきた鏡みたいに。
どうして好きなの。 ナツメはささやくような声で訊ねる。
誰かが肩をたたいたから、キョウコは双眼鏡を目から離して振り返った。そこにはナツメとちなみが立っていた。
いつもと違う人が持っている双眼鏡をナツメがじっと眺めていると、キョウコは弁解でもするみたいに、
あのね、マーブルがかしてくれたのっ。
そのあと、つけたすようにくしゃりと笑った。なにかみえる? ナツメは訊ねる。キョウコは小さな声でその問いかけに答える。ナツメはキョウコを気遣うように何度もうなずいた。きっと、マーブルもおなじものをみてたんだよ。
さっきからずっと、双眼鏡とキョウコを交互に見ているマーブル。早く返して欲しいのだろう、身体が小刻みにふるえている。キョウコはようやくそれに気がつくと、あわててマーブルのもとに駆け寄った。
ありがとうと呟き、双眼鏡を返すキョウコ。ナツメの瞳には、その少女が、いままでで一番小さく映った。
どうしたの。白い線がつーって、ほっぺたのとこ。
ナツメがキョウコの顔を心配そうに見ていると、リイチがかわりに、
マーブルとぼくのせいで、キョウコが泣いちゃったんだ。
そばに寄ってきたちなみが、キョウコの頬をつたう涙の跡を指でなぞり、拭いとろうとする。
やめてっ、くすぐったい。 キョウコは、咄嗟にちなみの手を払いのけた。
ちなみはまた寂しそうな顔になった。それをすぐに見てとったキョウコは、
あ……ちなみ、ごめんっ。わるいのはね、ちなみじゃなくて、リイチとマーブルなの。
マーブルは木の枝で砂を掘っている。飽きもせず、こころから退屈そうに。マーブルが掘る穴から小さなカニと船虫が這い出てきた。日の光を浴びた小さな生き物は、まるで機械のように、マーブルの手元から素早く四散していった。
手をつなごうっ、みんなで、ねえ、ほらっ。
キョウコがみんなの肩をたたいてまわる。もう十分に元気をとり戻したようだった。
はやくしてっ。太陽がしずまないうちに、はやくっ。
そう言ってナツメの手をとり、空いた片手でリイチの腕をとった。
なにすんだよっ。 迷惑そうにリイチが言う。
みんなで手をつないで輪になるの。……そうしなきゃだめなのっ。
リイチの手に熱がつたわる。なぜだかリイチは、その手を振り払う気になれなかった。
はやくキョウコのいうとおりにさせてあげようよっ。 ナツメが誰にともなく声をかける。
すると、ナツメの片手にちなみが飛びついてきた。
おもしろそうーっ。はやく、マーブルもっ。
そう言って、空いた片手を伸ばす。マーブルは自分に向かい伸ばされたちなみの手をじっと見つめる。しばらくためらっていたが、そのうちにマーブルは、おずおずとちなみの手をとった。もう一方の手はリイチにつなぐ。これで、キョウコの望んだ通りの輪が、五人によって作られた。キョウコから時計まわりに、ナツメ、ちなみ、マーブル、リイチの順番で。
ちなみが楽しそうに腕を振るから、ナツメの指につながれた虹の糸は、何度もきつく引っ張られた。そのせいか、また一段とみんなの顔が幼くなってきたようにも見える。
誰も笑っているけれど、やっぱり、ちなみの笑い声は海に一番よくひびいた。
虹の糸はナツメの背中のまわりでただよいながら、ひとりでに光を浴びてきらきらとかがやいていた。様々な色がたえまなく、まぶしく瞬いた。
五人の腕を結んで作った大きな輪のなかに、沈む手前の太陽の光がぼんやりと映った。みんなが息を呑む瞬間だった。消えないように、はぐれないように、五人は日の光を受けた地面を、輪の中央にとり囲む。
みえる? と、キョウコが言った。 太陽は、みんなのまんなかに、みえる?
みえるよっ。すごく、きれい。 ナツメは息を弾ませて言った。
ちなみはまぶしそうに、その光に見入っている。
輪のなかの小さな太陽は、黒い砂の地面を覆って、あたたかそうにゆらめいていた。五人で作ったその円環のなかだけでまるくなって、ずっと静かな光を集めている。
やがて太陽は決まりごとみたいにすうっと落ちて、雲に隠れてしまった。そんな風にして、五人の輪に守られていたはずの淡い光は、あっけなく姿を消した。
あーあ、おわっちゃった。 キョウコがぽつりと言った。
ちなみはまだ一人で笑っている。
リイチはほうっと息を吐く。
一番寂しそうに見えたのは、マーブルだったように思う。
等しく絡み合っていた腕は、誰からともなく自然にほどかれた。
雲の合間から紅色の光が滲んでいる。今立っている場所だって、ほのかに暗くなりつつある。もうじき日は暮れる。
空を仰いだナツメは少しだけうしろめたい気持ちになる。他のみんなも遊び疲れて、海岸のまわりをぽつぽつ歩いたり、遠くの山を眺めたり、涼しい風に身体をまかせたり。銘々がおわりの時間を待ちかねているみたいに見えた。
影は大きくふくらみ、たちまちナツメたちにかぶさってしまう。ツヅキ島に戻る道も、潮が戻ってきたせいで徐々に細まり、浅く水も張ってきた。
履いていたサンダル、泥や海草がぐちゃぐちゃにひっついて汚れている。ナツメはそれを脱いで、そばの海水ですすいだ。手でのけないと、ひとつも落ちなかった。
水の反映にリイチの身体が映った。ナツメが振り向くと、うしろに立っていたリイチはばつが悪そうに目を逸らした。ナツメは手招きしてリイチを呼ぶ。寂しそうなその目だけで、ナツメの呼びかけに答えるリイチ。
こっち、きて。
いやだ。
いいからっ、リイチのも洗ってあげるから。
風がリイチのTシャツをほんの少しゆらす。
ちなみとマーブルの手は、爪まで泥だらけになっていた。何を作るでもなく、二人してずっと無心に泥を撫でていたら、どうしてか、こんなに汚れた。
ちなみはおかしくなって、マーブルに両手を見せて笑う。
マーブルも小さく微笑む。息をわずかにもらすような、遠慮がちな笑い方で。
するとちなみは、
おかしいの?
マーブルの顔をまじまじと見つめながら、そう呟いた。
マーブルはあわてて口元を締め、もとの無表情に戻った。ちなみから目を逸らせて、地面に顔を伏せて、さっきの出来事をなかったことにしようとする。おどけたように首をかしげるちなみにも、もうとり合おうとしない。
マーブルが立ち上がって逃げようとすると、ちなみはあわててその裾をつかんだ。二人の動きが止まったあと、ちなみはマーブルの耳にそっと顔を近づけて、ささやいた。
だれもみてないから、だいじょうぶ……
静まり返った海だから、誰かがちょっとでも動くたびに音が聴こえた。裾がすれ合ったり、蚊に刺された腕をかいたり、ため息をついたりする、それだけで。
ようやく隣にしゃがんだリイチをみとめると、ナツメは安心したように息をひとつもらした。
西の空が遠くの海に映り、水面を赤く染めている。
あれがゆうやけだよ。 ナツメは言う。
リイチはうなずく。
血のいろも、あんなにきれいだったらいいのに。 そう呟くリイチの声が、かすかに聴こえた。
昼間のまぶしくて強い光がうそのように、海岸は急速に色を失っていった。
かえりたい?
キョウコの声がした。振り返ると、目の前に澄まし顔のキョウコが立っていた。ナツメはきょとんとして、そのまま首をかしげた。
かえりたい?
もう一度、みんなに聴こえるように声を大きくして、問いかける。みんなはゆっくりとキョウコのもとへ集まってきた。
一番最初に口をひらいたのはちなみだった。
かえりたーいっ。だって、パパとママがしんぱいするもん。
日が落ちるまでが家の門限なのだと、ちなみは言う。
マーブルもリイチも答えようとしない。ナツメは何を考えるでもなく、ぽつりと、
もうちょっとで、夜がくるんだね。
キョウコはまたナツメに向けて、ねぇ、かえりたい? と問う。
だけどナツメは、答えられずに黙ってしまう。
少しのあいだそんな沈黙が続いたけれど、ふいにキョウコが話し出した。
あたし、ここにいたい。
かえりたくないの? と、ナツメが訊く。
あー、もうっ。ナツメ、ちがうっ、ちがうのっ。あたしのかえるところは、ここなのっ。
ここって?
だからっ、ここ。たからじまにいたいの。
二人の言葉が飛び交う最中、急にリイチの長い影が動いた。
ぼくも、ここにいたい。ここ、きれいだから。
そう言って、雲ばかりになった空を仰ぐ。
キョウコは誰にともなく微笑みかけてから、確認でもするように言った。
このたからじまに、あたしとみんなを、きれいなままでとじこめておきたいのっ。
虹の糸がまた光った。わずか数回にぶく明滅しただけで、その光はすぐに消えた。マーブルの手が見える。砂にまみれた、あのころのままの幼すぎるマーブルの手だ。誰かが忘れていった、みんなの手。
ずっとあそぼうよ、みんなで。 キョウコが言う。
マーブルがやっと口をひらく。
夜がきたらどうするんだよ。あかりがないと、なんにもみえなくなるのに。 みんなに言い聞かせるように、淡々と。
だいじょうぶ。 ナツメは、キョウコのかわりになったつもりで答えた。 みんなでねがってたら、こわい夜なんて、いつまでたってもこないから。
五人の淡い影は水面にそっくり映し出されている。静かな海の胎動に、すべてをまかせきっているような。
そのうち、赤や橙色をした遠くの街のあかりが、徐々に目立ちはじめてきた。
かくれんぼがいい。 キョウコは言った。
さんせーっ。 渇きを癒すように、ちなみはありったけの大声を出す。
わたしは走ることができなかった。
駆け足で島中に散らばっていくみんなを見ても、わたしの足は動かなかった。
リイチとキョウコは同じ方向に駆けていった。
ちなみは木々をつたってふらふらと奥へ歩いていった。
マーブルはやっぱり、どこに行ったのかわからない。
みんな、どこへ行ったんだろう。みんなは、ちゃんとみんなのことを思いあっているのかな。
もういいかい?
ナツメの声は空に散る。誰の返事もひびかない。
もしも夜がこなかったら、またここに集まって、みんなで、知ってるおうたをうたおう。海にもきこえるくらい、おっきな声で。
キョウコは最後にそう言った。
リイチは息を切らして走り続けた。途中で何度も足をすべらせて転びそうになったけれど、そのたびに足は空気をはらんで、地面をしっかり踏ませてくれた。まるで何かに守られているみたいだ。だからリイチはいっそうスピードを上げていった。そんなに大きくはない島のはずなのに、いつまで走っても果ては見えないし、誰かを見つけることもなかった。さがしものが多すぎたのかもしれない。ぼくはそう思う。色んなものを、見た日のままでこころの隅に置いて。その感触のままのものを見つけようとして。
海岸の道は細く狭まっていく。目につく景色は徐々にばらばらになって、簡単な、一色ですむようなものに作り直されていった。
お菓子の袋、ペットボトル、空き缶、レジ袋。たくさんのごみが、ぱらぱらと捨てられている。砂に埋もれそうになっているものもある。潮の際でいつまでもただよっている赤いビニール袋、ひっくり返った黄色いカップ麺の器、そのそばには手持ち花火がいくつも。キョウコはそれをひとつ手にとってみた。指でつまんで、慎重に。
ばっちい。
すぐに放り投げてしまった。そのままへたりと地面に落ちた。先端が焼け焦げていたが匂いはしなかった。こんなことしてないで、早く先に行ったリイチを追いかけなきゃ、そう思う。――それから、みんなでゆっくり、おうたをうたいたいな、と思う。
大人になったら歌手になる。キョウコは、親にも、保育園の先生にもそう言っていた。海みたいに、いつでも自分の一番得意な歌だけを、うたえるような。
打ち上げ花火はこの湾から上がる。夏の花火大会、キョウコは色とりどりの花火を、毎年、自分の家で家族と一緒に眺めた。ときどき、おおきくなあれ、と叫ぶ。そうすると、澄みきった夏の夜空に、さっきより大きい花火が打ち上がることも。きれいな円に広がる、大きな花火。大きい花火が見たくて、おおきくなあれ、と叫ぶんじゃない、大きな花火が上がったあとに、母が――ほんとうだ、キョウコの言った通り、おおきな花火になったね。 そう言ってくれるのが嬉しいから、おおきくなあれ、とわたしは大声で叫ぶ。暑い夜の空気に、キョウコのちっぽけな声は吸い込まれていった。
おおきくなあれっ。
暮れなずむ海に向かって叫んだ。何かを期待しているわけじゃない。おおきくなるものが何なのかも知らない。小さな風が跳ねるたび、水面にいびつな波紋が広がった。
おおきくなあれっ、おおきくなあれっ――
止める人がいないから、一人で叫び続ける。時間がゆるしてくれるまで、ずっと。
ナツメは両腕を懸命に空へ伸ばして、分厚い雲のなかに隠れた太陽をかき出そうとしてみる。空とともに視界に映る虹の糸が、指先からゆらゆらゆれる。最初に見たころよりもずっと細く、色もあせてきているように思う。たぶん気のせいだ、ナツメは自分に言い聞かせる。
風がもうずっとこない。誰かのいたずらかな。
みんなは今でも、このからっぽの島を走っているのに。
海だけがときおり薄く光る。まばたきした瞬間、もうそれをおえている。
マーブルは一人で岩場を歩いている。そこからは、玉島とその向こうの港もよく見えた。岩には白い貝殻のようなものが無数にくっついている。なんとなく腰をかがめて、それらをなぞってみるけれど、指先が少し濡れて磯くさくなるだけで特にどんな感情も起こらなかった。そのうえ、動きを止めてじっとしているだけでも身体には熱がこもる。冷たい風がおりよく吹くわけでもない。目のふちがべとべとしてきたのは、まさか涙なんかじゃないだろう。どうせまた、汗が顔を湿らせているんだ。マーブルはおもむろに立ち上がって、対岸の工業地帯にあるクレーンが発する、赤い粒状の光を瞳に据えてから、また苦しそうに歩みはじめた。
どのくらいか歩いたとき、突然、マーブルのこめかみに硬い尖ったものが当たった。小さな石ころだった。飛んできた方向に目をやる。だけどそこには小さな海しかなかった。マーブルはその海をにらみつける。すると今度は海の向かいの島側から、小石が脇腹の辺りに飛んできた。その直後、二、三個の石が再び海から飛んできて、マーブルに当たった。
マーブルは声を押し殺して、ただ唇を強くかむ。瞬間、思い出したくもない怖さがよみがえってくる。
やがて石は、徐々に数を増して、あらゆる方向からマーブルに向けて無数に飛んできた。マーブルは立ちすくんだまま、頭を手で覆って必死に耐えた。こんなことをやるやつはわかってるんだ。マーブルはそう考える。瞬間、石を投げつけてくる無数の人々の顔さえ浮かんできた。
思った通りだった。おれをいつもいじめてたやつらだ。苦痛と、絶望しか与えてくれなかったやつら。あのころ、ようやく持てたひとつだけの夢、それすらも踏みにじったのがお前らだ。小学校、中学校、高校、たぶんもっと前からも――
唇のはしに尖った石が直撃して、マーブルの口元からはひとすじの血が流れる。それでもマーブルはじっとして、
はーっ、はーっ、はーっ、はーっ。
こんなときは、つらいときは、死ぬ間際みたく、呼吸だけに気を遣っていればいいんだ。それが、ずっと生きてきたなかで学んだ唯一の対処法だった。
いつのまにか、たくさんの人がマーブルを囲んでいる。その全員が、手に握った石をマーブルに向けて乱暴に投げつけた。
こんなガキになっても、おれを追っかけてくるやつらがいるなんて。まさか、一生逃れられないわけでもないだろうに。何十個、何百個の石がマーブルのまわりを飛び交っては、ときおり身体にぶつかっていく。
だいじょうぶ、あと少し耐えればいい。
待ってるんだ、リイチが、キョウコが、ナツメが、ちなみが。マーブル、なんておかしな名前で呼んで。誰が最初につけたのかも、もう忘れたけれど、思えば変な名前だ。それでも、侮辱のためにしか使われなかったほんとうの名前よりは、幾分ましだろうな。マーブル、そうだ、おれのほんとうの名前を、いつかほんとうにマーブルにしよう。そしたら、あいつらとずっと一緒にいられるかもしれない。
全身に血やあざが滲んできた。頭や額に石が当たるたび、こつっ、という乾いた音が耳のすぐ近くでひびいた。
もう少し、耐えるだけでいい。
マーブルはそれでも、一瞬だけちらりと前を見てしまった。嘲笑を浮かべながら石を投げつけてくる群集のなかに、いっとう見慣れた顔がいた。それがリイチだった。
見間違いかと思い、再び同じほうに目をこらす。たしかに、リイチの顔だった。一度も見たことのないような、侮蔑のこもった目で、おれを見ていた。
動物が鳴くみたいに叫んでしまった。こころの底から出た声だった。もう、逃げるしかないと思った。
マーブルはあまった体力を振り絞って、そこから一目散に逃げ出した。思っていたよりも身体は素直に動いた。そうやって三歩目を踏み出した瞬間、マーブルの足から、ふいに地面の感覚が抜けた。景色は一瞬で回転して、目の前に真っ白い雲だけが広がった。マーブルの足先のはるか下に宝島の全景があった。身体はふうわりと宙に浮いている。海の音も気にならない。ぽかんとしているひまもなく、すぐにマーブルは地上へ引き戻された。見ると、大きな手がマーブルの脚をつかんでいまにも引きずり下ろそうとしている。あっ、と思う。そして、真っ逆さまに落ちていった。そこはさっきの岩場だった。マーブルは頭蓋を岩にたたきつけられて、その場に伏した。動かなくなった。
おれは飛べなかった、と、かすれていく景色のなかでマーブルは思う。血が流れつづけ、そのまま地面に染みていった。
おぼろな影が水面に浮かんでいる。自分の顔にも似ているような。それはとても深い緑色をして、風もないのにゆらいでいる。腰までつかったけれど、一向に水のなかにいる気がしない。もっともっと身体をひたせば、きっと何かが変わるだろう。わたしはそこへ、ただの一瞬も笑みをたやさないままで沈んでいくんだ。この世の幸福を、唯一見つけてしまった人みたいに。
遠くのほうでナツメちゃんの匂いがする。
ちなみは咄嗟に振り返る。あ、ナツメちゃんが歩いてる。
大声で名前を呼ぶ。ナツメちゃんっ、ナツメちゃんっ。あなたの名前しか知らないでいい。
リイチはまだ走り続けている。空も海も見ずに、ひたすら走り続けている。あるいは、逃げている? 違う、逃げてなんかいない、ぼくは見つけるために走っているんだ。
かくれんぼの鬼は、ぼくでよかったのかもしれない。いつもキョウコがほめてくれるみたいに、ぼくは何かを見つけることのほうが得意だから。
みつけちゃだめなものもあるのっ。
そんなキョウコの声が聴こえた気がした。
リイチは立ち止まった。瞬間、身体中に抱えていたものがあふれるみたく、呼吸も体温も乱れはじめた。急に身体のあちこちが動かなくなった。リイチは必死で息をしながら、感覚に従うまま地面にへたり込んだ。空が見えたと思ったら、いつのまにか地面に仰臥していた。目を閉じた。
それからしばらくは、そのままの体勢でいた。海のざわめきに囲まれて、何を考えるでもなく、リイチは静かに呼吸を続けた。
やっと起き上がる気になってふと目を開けると、キョウコがしゃがんだまま、ぼくの顔を覗いていた。
やっぱり、キョウコの声だったんだ。
キョウコを見咎めたあとにリイチがそう言うと、まるで何か不服でもあるみたいに、
なに? あたし、なんにもいってないよっ。
疲れ果てたリイチの目に、キョウコの姿は影ごとかすんで映った。ちょうど、そこにあるにび色の海と同じように。
キョウコはリイチのそばに腰を下ろした。
すっごく遠くまできたね。あたしいっぱい歩いたよっ、しんどかったぁ。
マーブルはどこにいった? リイチが訊ねると、
しらない。どこかで、一人ぼっちであそんでるの、どーせ。
そのうちキョウコはリイチのもとを離れて、水際まで歩いていった。
そこには誰が集めたのか、山のように積まれたたくさんのガラスの破片があった。キョウコの背丈と同じくらいの、高い大きなガラスの山。近づくと、キョウコの顔や指先がわずかに湾曲して映った。
キョウコはそのガラスをひとつひとつ手にとっては、きれい、と呟く。
リイチっ、すごいよ、とうめいのガラスがこんなにいっぱいっ。
はしゃぎ出したキョウコを、いつまでも目で追っていた。
ハートのかたちのガラスもあるのかなぁ。
そんなことを言いながら、キョウコはガラス山の奥にまで手を突っ込んだ。ガラスとキョウコの腕がすれるたび、ぱらぱらという音が海のほとりにひびく。何かよさそうなものをつかんだ感触だけを頼りに、ひとかけらだけ握って、腕を引き抜いた。すると、
うそ、信じられない。 キョウコは、こころのなかだけでそう呟いた。
本当にあったんだ。
キョウコの赤い血に染まったぶん、それはもっとみがかれて、とてもきれいになった。
大事そうにポケットにしまって、リイチを振り返った。
それから二人は、そのたくさんのガラスを海へ捨てていった。最初のうちはひとつずつ海に投げていたが、そのうちに要領を覚えて、一気に両腕で抱えたぶんのガラスを、海にまいていく方法に変えた。長い時間をかけて、ガラスはすべて海に帰した。海は、いつのまにか一面がガラスの破片で覆い尽くされていた。
太陽さえ出ていれば、もっとかがやいていただろうに。
徐々に海の奥へ流されていく破片を見つめている。きれぎれの言葉がこだましてあぶれる。
ながされていく。 リイチの声。
うん。
――キョウコの声。
ゆっくり、ながれていくんだ。
――リイチ。
呆れるほど長い時間、二人してずっと、それを見守っていた。
たくさん遊んだ海、悲しいけれどまたいつか。
ナツメちゃーんっ。
その声で、ナツメは海のほうに首を向けた。
暗い海のなか、お腹まで水につかったまま手を振っているちなみが見えた。
ナツメちゃんっ。
性懲りもなく、またナツメを呼ぶ。
ちなみの声はいつも、おかしいくらいによく届く。聞き慣れた声、ナツメはその声をいちから思い返す。あるときはうっとうしく、耳障りにひびいた。逆に、今日だけはその声にすがりたい、そんな気持ちになるときもあった。
なあにー?
遠くのちなみにも聴こえるよう、ナツメは大声で叫ぶ。
こっちにきてよぉ、一緒にきてよおっ。
ちなみはそう言って意味もなく笑う。笑い声がここまで届いているような気さえした。ナツメはこぶしをぎゅっと握る。握った手をはじまりにして、汗が全身につたっていく。
はやくっ。 ちなみは何度もそう言ってナツメをせかす。
はやくっ、はやくっ、はやくっ。
そう遠くないうちに、その声がまた耳障りになりそうで怖かった。
濃い影が次第に海全体を覆い尽くしてきたぶん、そこに浮かぶちなみの姿は、信じられないほど遠く、小さくなっていった。それでも、ナツメを呼びかける声だけは、いつまでたっても同じ調子、同じボリューム。
ナツメちゃんっ、はやく。
手で水をかいているのか、ちゃぱ、ちゃぱという静かな音も一緒に。
指先からうしろへ伸びている虹の糸を見る。もう、光も色も完全に失って、糸はナツメの手のうしろで寂しくひからびていた。ちなみの声は際限もなく、ずっと遠くのほうで。
ナツメちゃーんっ。
これ以上苦しくならないうちに、ちなみの身体や顔をちゃんと見ておいたほうがいいのかもしれない、と思う。ナツメは海に目をそそぐ。一瞬、ちなみがどこにいるのかわからなくなって、あわてて目をあちこちに向けた。広い海の真ん中に、ぽつんとちなみは立っていた。楽しそうにも見えないし、悲しそうにも見えない。
ちなみの腕が少しだけ動いたのがわかった。そのとき、ほんの一瞬だけれど、ちなみのいる場所から何かが光った。ナツメが目をこするまもなく、それはまたもとの通り、さっと消えてなくなった。
光、そういう大それたものでもなくて、なんだろ、あんまりきれいすぎて、言葉にはできないけれど。――ちなみはきっと、小さな記憶を集め続けた末に、それをそっと海へ放ったんだ。
落としてしまう前に、なくしてしまう前に、海へ帰してしまったんだ。
ここから光って見えたものはきっと、わたしたちがそれぞれに抱きしめていた、たくさんの記憶。
泣きながら色んなことを知って、大きくなった、わたしの里の景色。
それじゃあ、もしかすると、
あれが、光だろうか。
ナツメはもう一度ちなみに目をそそぐ。ちなみが見せてくれた光は、もうそこにはなかった。きっと、二度とまた現れることなんてない。
ナツメはちなみを置いて駆け出した。あっ、とおもわず叫ぶ、小さなちなみ。
待って、ナツメちゃん。
ナツメには到底聴こえないくらいの声で、そう呟いた。
そうして、時間もすぎていく。
ちなみは重たい足で一歩ずつ、沖のほうへと歩いていった。
身体をひたす海の水は、まだおへその辺りでゆらゆらしている。お気に入りの服、ぐしゃぐしゃに濡れている。
もういいかな、と思う。そろそろナツメちゃんも心配して、わたしをたすけにきてくれるだろう、と。
ほんのちょっとの期待をしながら、ちなみは島のほうへ振り向いた。
島には、ナツメはもちろん、誰の姿も見えなかった。どこかに隠れている気配もない。
何を考えようともせず、ちなみはがらんどうの宝島を仰ぐ。ほのかな闇のなか、藍で塗り潰した半月みたいに、衣ヶ島がぽこりと海に浮いてる。わたしは境界に立っている。海と、どこかの。
心細さがいっそうつのった。みんな、わたしをおいて先に帰ったのかもしれない、と。ちなみは口をきっと結んだまま、青黒い海の水を両手で掬ってみる。それを目の高さまでかかげる。指の隙間から水がこぼれる。影ごとつれて玉を流して、古びた銀のしずく、誰にも知られずてのひらへ落ちた。
お椀の形にすぼめていた両手をほどく。瞬間、その水はさらさらと流れ落ちて、もとの海へ。
そうか、わたしの帰る場所、ここなんだ。
みんなもきっとそう、ひと足先に海へ帰り着いて、待ってくれてるんだよね。
きゃっきゃっと声をあげて笑った。もう、みんなの名前を呼ぶ必要もない。
日は、そう遠くもないころから落ちていたらしい。あとほんの少しで、空は限りのない闇に染まる。ちなみは手でも水をかきながら、重たい足を動かした。歩くたび、かすかな水音が羽みたいにざわめいた。一歩、二歩。水は冷たくもなんともなかった。
平たい影を乗せた水面の波紋がわずかに動く。だけどすぐに止まる。歯車を忘れたように静まった海。立ち止まったのは時間とわたしだけ……
いつだって、おいてけぼりでいる。
海を越えた先にあるまばらなあかり、音もしない、身体を射しもしないのに、そのわずかな光だけで、そっとちなみを呼びかけた。
すぐに気がついた。
嘘でもいい、そこに光があるのなら。にぶった意識のなかでも、まだわたしは、そんなことを思ってた。
ちなみはゆっくりと顔を上げてみる。
まもなく瞳のなかに映ったものは、遠い対岸にある、たくさんのきらめきだった。
――街だ! わたしの生まれた街。
ずっと遠くの海の先にそれはあった。いくつもの光が瞬いて、暮れ残る街を照らしていた。
やっと、帰れる。
ちなみの手にはガラスの破片がひとつ握られている。そこには、ちなみがいつか見た街の景色が、はっきりと映し出されていた。
水かさは急にちなみの頭を越えた。声も何も残さないまま、ちなみは暗い海に包まれて、少しずつ、静かに沈んでいった。
きれぎれの意識のなかで、ちなみが願ったこと。
どうかわたしに――わたしたちに、幸福なおやすみが訪れますように。
落日の天上はとても暗い。藍色の空は、雲と空の境も曖昧にしてしまう。りんりんと虫が鳴く。どこから聴こえるんだろう、呼応するように、その鈴のような虫の音は数を増し、大きくなっていく。ナツメはそんなことにもいちいち怖がっておびえる。暗がりのなかをきょろきょろと見渡した。そこでゆれているのは、海だろうか。
色を失った糸が、きつく締め上げられる。もうこの糸はどこにもつながらないんだ。日の当たる場所にいたときは、わたしが歩くぶんだけするすると伸びて、世界の果てまで続きそうに思えたのに。
潮が満ちてきている。水がくるぶしまでひたっていた。水はナツメに近いところだけやけに黒く見えた。気をまぎらすように空を見る。薄い雲は、隅から隅まで世界を包んでみんなを隠してしまった。太陽は沈んでいた。放っておいても夜はくる。
背が低くなったぶん、目線は水面へとだんだん近づいていった。わたしがもっと小さくなれば、もっと、それこそ限りなく、水面へこころが近づく。
海になる。それは、きっとそういうことだ。
もう少し歩かなくちゃ。景色が見えなくなるまで、どこにも何もなくなるまで。糸がきしんでにぶい音をたてはじめる。それでもナツメは、とぼとぼと海岸を歩き続けた。
自分の影だけが目の前をさえぎって、悲しそうにわたしを眺めている。ときおり風が吹く。海をほんの少しざわめかせる。
空の藍色がまたひとつ深まる。
糸が伸びているほうの指先が、ふいに――これ以上前に進めないよ、とでも言うみたいに、うしろからきつく引っ張られた。ナツメがその手を前へ動かそうとしてみても、固くて一向に動かない。ナツメは力いっぱい糸を引っ張った。指がうしろに反り返って痛くなるくらいに、必死で、身体ごと腕を前に押した。
糸が切れた。瞬間、分断された虹の糸がうめきにも似たかすかな音をたてた。ナツメは前へつんのめって倒れた。
そこで夜は落ちた。すべての景色が真っ暗になった。雲はかきむしられて散らばって闇に消えた。虫が眠りついて、羽音すらしなくなった。そこかしこに捨てられていたごみだって、視界に映らなくなった。海はナツメの背丈にとても近いところで、ただ流れる音だけをたてた。みんなみんな、落ちてしまった。
ナツメは声をあげて泣いた。誰も見ていないのに、ばかみたいに泣いた。自分の身体を両腕で抱きしめながら、うめくように泣いた。
歩きつづけていた。道なんてはじめからなかった。みんなまやかしだった。
何かを信じたかったけれど、やさしい人はみんな消えてしまった。
はだかのままで歩きつづけた。やがて、少しずつ、皮ははがれていった。
少しずつ、わたしは景色のなかへ入っていった。そこには、はじまりがあった。
夢を抱える器があったから、わたしはそれにいっぱい詰め込んだ。
最初のうちは、みんな褒めてくれた。いくら詰めても、なんにも咎められたりしなかった。
長いこと歩くたびに、器の中身は増えたり、減ったりしていった。
そうしたらいつのまにか、底が見えるくらいに、わずかしか残っていなかった、夢。
それはきっと、わたしの最後の夢だった。
はじまりとおわりだけでしかない、最後の夢。
あれ?
まだこんなところに、一人でいたの?
もう、泣かなくていいのに。荷物だって、なんにもいらないんだよ。
だから、帰ろう。
だいじょうぶ、わたしの言ったとおりにして。
目を瞑って、呼吸をするだけ。
誰かがそうしてたみたいに。
もういいかい? まだだよ。
もういいかい? まあだだよっ。
もういいかいっ?
もういいよ、目を開けてみて。
ほら、もとの場所だよ。
糸屑のような埃が眼前の空気を泳いでいた。ほんの少し光をおびているようにも見える。もう、色づくことも忘れているんだろうな。――だけどなくなることもない。わたしは、手を伸ばしてそれをつまんだ。
天井が見えた。くすんだ茶色い壁に、まだついていない照明。気がつくと居間に寝そべっていた。どのくらい長いあいだ、わたしはそうしていたんだろう。部屋のなかは空を映して薄青い。
背の低い本棚とテレビが見える。ビデオデッキが床にそのまま置かれている。フローリングの匂いがする。誰かの足音がドアをへだてた先の廊下からひびく。声もする。だけど、何をしゃべっているかは聞きとれないでいる。それほど、部屋に届く声は小さい。
静寂と、ぼそぼそとしたやわらかい話し声。それぞれかわりばんこに聴こえてくる。わたしはぼんやりと天井を仰ぎながら、この日最初に姿を現した赤い太陽の光をほのかに感じていた。まだ、届いてもいないのに。
それからはずっと、太陽だけを見ていた。窓の向こう、色も浅い空にひとつだけ浮かんでいる。長い時間をかけて、ゆっくりと大きくなった。誰かが一緒にそれを見てくれていたような気もする。小さな傷口から綿がはみ出たソファに座って、その人は何も言わず呼吸だけを繰り返した。わたしもそれに倣った。
ゆっくりと、大きくなった。やっと窓のはしまで光が届き出したころにはもう、朝がはじまっていた。
ああ、光が目に染みる。はじまりはたしか、こんなだったかな。
澄んだ空気はいまにもひび割れそうで、そんな不安がいつか神経にもつたわったのか、足先はかすかにふるえていた。わたしは目の前の空気に身をゆだねる。やさしい匂いがした。日の光が蒸されてちぎれたような。
フローリングに寝転がったまま、目をぱちぱちさせたり、あるいはゆっくりと瞑ったりする。鳥の声が聴こえた、朝に鳴く鳥。窓越しだからいっそうやわらかいひびきで、耳を澄ませると、もっともっと、溶けていくように。そのうち、自動車が家の前を通りすぎる音もいくつか聴こえてきた。みんな、いそがしいのかな。
いつのまにかテレビがついて、部屋には家族が集まり出した。なじみのある風景。いつか見ていたような、少し違うような。だけどみんなそれぞれ、穏やかに話をしている。自分の話をしたいだけの人、人の話を聞いてあげるだけの人、両方ともする器用な人。
わたしはやっと起き上がろうとする。
ずっと床にくっつけていた片方の耳は、少し聴こえにくい。
おはよう。 と、誰かが言った。
誰かが廊下に出ていった。トイレはどこにあったろう。
わたしも、ここにいていいのかな。
きょろきょろと辺りを見渡す。うちわがふたつ、しなびたように床に落ちている。漫画の単行本もそこらに数冊転がっている。ゲーム機、鉛筆立て、コンセント、ティッシュ箱、セロハンテープ、新聞。水の入った銀色の器は、猫が飲むのだろうか、角っこに置かれている。
網戸から涼しい風が通った。
やがて薄日が射してきて、窓際はぼんやりした日溜まりで満たされた。わたしはそこに行って、太陽のおこぼれにあずかろうと、座ったまま身をすり寄せる。
髪が日差しにふれた。あたたかい空気だ。幸福にも似て、とてもあたたかい。
みんなは退屈なおしゃべりを続けている。朝の鳥がまた鳴いた。蝉だってもうすぐ鳴きはじめるだろう。
わたしは、あくびをこらえたまま伸びをしてみる。その様子を見ていた誰かがわたしに笑いかけた。わたしも笑ってみようかな。怒られたりしないかな。
カーテンがさらさらゆれた。その生地の隅っこには、茶色い小さな染みがついていた。
誰かがカップに入れたコーヒーを飲んでいる。かすかだけど、啜る音が聴こえる。わたしも飲ませて、そう言ってみようかな。たぶん、最初は駄目だってたしなめられて、あとからこっそり、もらえたり……
目の前にあるもの、何でもいいから手にとってみようかな。
小さな部屋でも、してみたいことはたくさんある、きっと。
また風が入ってきた。少し肌寒いくらいに思えた。
そばにあった水色のタオルケット、頭からかぶった。なつかしい感触が身体を包んだ。目に映っていた部屋の景色がその生地に覆われて、途端に見えなくなる。どこもかしこも傷んで、糸もほつれて、ぐしゃぐしゃになっている、わたしのタオルケット。ずっと小さいころから、夏はこれにくるまって寝ていたっけ。
寒さはちょっとだけやわらいだ。
わたしはしばらくそのまま、タオルケットをかぶり続けていた。そのなかはとても居心地がよかった。だって、まわりにはみんながいる。顔が見えないぶん、わたしは自分の耳や鼻で色んな感情をさぐった。ことん、ことんと音がするのは、フライパンを動かしているせいかな、それとも食器を出しているのかな。足音もする。床が小さくきしむたびに、誰かが近づいてきたり、離れたりする。その誰かの影に覆われて一瞬なくなったけれど、それでもまたすぐに届いた。そうやってわたしの身体を包むのは、夏の光だ。身体がふさがれていても光は穏やかに入ってくる。ときおり、目の奥を薄く染めた。
あ、朝ごはんの匂い。もうじき、それをみんなでそしゃくする音だって聴こえてくるのかな。
みんながみんな、とても静かで満ち足りていた。きっと、その安らかな時間のどこにも、おわりなんてないんだろう。それは、みんなと、そこにいるわたしが、永遠という真っ白なお皿に乗った瞬間だったように思う。夏の空気に身をひたすと、いっそうたしからしくなった。ここにいるだけでいい。わたしはここにいることをゆるされている。
誰かのささやくようなおしゃべりは、まだぽつぽつと続けられていた。澄みきった薄い光の部屋、声は何度でも流れて消えた。
その声のひとつだった人が、すり足でわたしに近づいてきた、そんな気がした。その人はほんとうに、わたしのそばにきて、しゃがんで、わたしの背丈に顔を寄せたはずだ。
タオルケット越しに、何かあたたかい感触が頭を包んだ。
誰かのやわらかい手のぬくもりだった。
わたしは黙って、その感触に身をまかせる。繊細に、まるで愛でるみたいに、わたしの頭を撫でてくれる人。いつだって同じ愛をくれる人。
ママ?
わたしがそう呼びかけても、まだ、おんなじように撫で続けている。
ぬくもりがタオルケットをつたって、わたしの肌にまで届いた。あたたかそうな身体はそこにあった。やっと、見つけたよ。
時計の針が動かないうちに、そっとそのぬくもりにふれてみた。手ざわりと一緒に、かすかな声が聴こえてきた。胎動のような、ずっと昔から空にひびいていたような声。だいじょうぶ、いやがられたりはしない。どこまで踏み込んでもいい。わたしはいっそう身体をこすりつけて、目を瞑ったまま、そこにある体温に身をゆだねようとする。きっと、喜んで迎えてくれるはずだ。わたしだけに微笑みを散りばめて。
その人はいつものように笑いながら、わたしのタオルケットをゆっくりはぎとった。
おかえり、みんな待ってたよ。
その人はわたしの顔をまっすぐに見て、そう言った。
この手を伸ばせば、すぐに届くだろう。
初出:神谷京介 Works 2026年1月26日
脱稿:2009年11月