「なに、汚れてた?」
「ううん」
「あーでもいつもやってるよね、それ癖なの?」
きみは笑ってる。
玄関、お気に入りの帽子をかぶる直前、さかさまに向けたあと内側を覗き込む、そんなわたしのしぐさを見て。
「ううん」
ちがうよ、汚れたのでも、癖でもなくて。
ちゃんとした理由があって、だけどきみには話さないってだけ。
ずっと、ずっと前にね。
◇
あの日の帽子の中、それはそれはもうたいへんなことになってた。
駄菓子、もう遊ばなくなったおもちゃ、帰り道で拾ってきた小枝や小石、斜めに欠けたおはじき、伸びきった輪ゴム、色水が染みたティッシュペーパー。
最後に、ほしいプレゼントを書いたメッセージカード。底にしのばせて、玄関の扉の前においておく。
わたしと、三つ年下の弟からのプレゼントを受け取ってくれるサンタさんの姿を想像しながら。
◇
「おねえちゃん」弟の呼ぶ声で目を覚ました。「おねえちゃん、サンタさん、みてきて」
「なに? みるって」
「いま、げんかんにいるの、かんじるんだ」
涙をためてる。
「みるもんじゃない」
「でも……ぼくのプレゼント、もってかえってくれるとこ、みたいもん」
「うーん」
なんだ、三つしかちがわないのにわたしは大人のふりをしてたんだ、なんて。その一言、目が覚めたみたいだった。
目をぱちぱちさせたまま、真っ暗な廊下、忍び足で、玄関まで。
◇
手つかずのまま、メッセージカードも開かれず、満たされたままの帽子を胸元に抱えて、真っ暗な廊下に立つ弟。それを見てるわたし。
「ぼく、きのうもきょうも、ちゃんとごはんのこさないでたべた、おもらしもしなかったよ」
目を赤くはらして、ほっぺを真っ赤にして、ぐすぐす。
雪のように白い肌は、なぜだかわたしに似ていない。
その弟が、そんな風に言うから、わたしもどうしようもなくなって。
「じゃあ、わたしにいく? まだこの町にいるでしょ。きっとちょっとまちがえちゃっただけ。サンタさんもね、それはそれはいそがしいの」
「それはそれは?」
「うん」
「なに?」
「めっちゃいそがしいってこと、だって今日はクリスマスなんだから」
「うん」
大人、大人だなぁわたし。
弟がうらやましい。でもこの役割だって悪くはない。
「ほら、上着はちゃんと着て、おくつしたも」
ぐすぐすの弟の支度、わたしもコートを着て。
星で満たされた帽子を抱えたまま、わたしたちは家を出る。
◇
田舎町の夜は静かなものだ。周りには家と酒屋と公民館しかない。イルミネーションなんて、お金持ちのだれだれくんのおうちだけ。それはとなりのとなりの町。こちらにはなにも。
ここは錆びついた、凍てついた町。凍てついた町の、細く鈍く光る銀色の凍てついた旧道を歩く。
羽虫が光る外灯、弟はわたしの影を踏みながらついてきて。
当のわたしは帽子を抱えたまま。あてなどなにもない。
いつだか大人になったころ、美術館で見た絵のような、たとえばわたしたち二人のほかに、この町にはだれもいない、そんな空想。
ほら、今だとこんな風にさらっと語れるけど、そのときはね、ほんとうに、今すぐわたしたち、次の一歩を踏み出したその瞬間、煙になって消えてしまうかもって思ってた。
◇
かじかむ頬と手と耳、たえかねて、二人はうずくまって、ついには動けなくなる。
消えたくない、消えたくないって思いながら。
この帽子の中の、わたしたちの宝物を、わたしたちの星を、サンタさんにとどけなきゃ。
何度も何度も、真っ暗な空にかざす。
凍てついた路上の影、ぐすぐす顔のわたしたち。
◇
指先が夜空に引っかかった。
つーっと鋭い音、気づけば、わたしたちは空を泳いでる。
灯りのひとつもともらない、静かで凍てついたこの町を、わたしたちは見下ろしてた。
おもちゃみたいな町。そのおもちゃは、だけど動かない。
ただ見えない羽に包まれてるだけ。帽子の中身が光っている、それだけ。
やがて夜は流れていき、一歩ずつ大人になった。
一秒前がずっと昔のよう、閉ざされた記憶がページをめくり、そのページは次の瞬間、見えない。たくさんの夜と、たくさんの子どもたち。
帽子をさかさまに向けた。
星がわたしたちの手元から、町へと落ちていく。
星が降りしきる。
わたしたちのあの町に。
「あれ? もうなくなっちゃった?」
弟は首をかしげる。あっというまに帽子の中、からっぽになってしまったから。
「ほんのすこしだったよ?」もう、かけらも残ってなくて。「みんなのもとへ、ちゃんとぜんぶ、とどけたかったのに」
「ね、ちょっとしか、だった」
「おねえちゃん、ぼくたち、サンタさんになれなかったね」
それが、長い時間の果てのこと。
そう、わたしたちは、なれなかったね。
◇
大人のわたしたちに夜は長い。
長く悲しい夜の窓、灯りがともってる。
近づいて、窓越しに部屋の中を覗いてみる、あのころのわたしへ、声をかけてみたけれど、ガラスが白くくもるだけで。
でも、わたしのことは見えてないみたい。
荷物を段ボールに詰め込んだとき、母と二人で学習机を運んで粗大ゴミに出したとき、はじめて山手線に乗ったとき、一人ぼっちの家ではじめてお酒を飲んで顔がぼおっと赤くなったとき、とってもよく似た帽子を見つけて、うれしくて泣いてしまったとき。
ひとしきりのしあわせは、こうしてなくなっていくけれど。
からっぽになってしまえば。
窓をそっと開けて、帽子を返した。もうあのころの家じゃなく、わたしは家族とともにいない。帽子だけが、そこにおかれた。
◇
窓をたたく音。ちいさく、コン、コン、と。
その音を、わたしは気づかない。暖房もヒーターもつけて、足元に毛布をかけてテレビを見てる、ただそれだけ。机の上におかれた雑誌、ちいさなクリスマスツリー、ただそれだけ。
窓際、サッシのそば、さかさまになってひしゃげた帽子。
振り返って、見つけて。
笑ってしまった。
でも思い出せない。
泣きたいのに、涙は涸れて、笑ってしまう。
ふとすれば、帽子の中を覗いてる。なにかを期待して、だけど奇跡は起こらない。偶然だってべつに起こらない。間延びした、いつものわたしたち。
いつか、星でいっぱいの帽子。
ずっと、ずっと前に。
初出:note (2020年頃)