2.自己乖離
1.
配管の隙間の海を、ミオは眺めていた。来てくれたの、ありがとう、とルルに微笑みかける。
「ミオさん、あなたはわたしのフローコードを改竄している可能性がある。わたしはそれをこのあとラダ先生に報告し、わたしは自ら再教育を受けます」
「だめ、そんなこと言うから、わたしはまたあなたのフローコードをさわらなきゃいけなくなるでしょう?」
「でしょう?」
ルルははじめて、疑問、という行動を行った。フローコードにはそれがない。このミオという少女は、なぜ、ここにいるのにフローコードに従わないことができるのだろう。そして、その姿を見ているルルが徐々に混乱していく様子をわたしは見ていた。
「わかる?」と、ミオは海のほうを指さす。「光」
「光」
と、ルルは復唱する。
「光、が」とミオはつづける。「きれいね」
と言い、ミオはまた微笑む。
ルルは黙ったまま、何度かまばたきをした。
「ルルさん、なぜグランウォルスで落下死が増えているのか、わかる?」
「これは授業ではないので、答えることはできません」
「わたしたちのクラスで三人目なの。そして律によればね、次はわたしなの。そしてその次も知っている。だからあなたに話している。つまりそういうこと、わかるでしょう?」
「わたしがミオさんの次に落下死するということです」
「あ、ちゃんと答えてくれた。ようやく操作が効いてきたみたいね。じゃあ、ルルさん、わたしの大切な友だち。わたしの記憶をあげる。こっちにおいで」
ミオはそう言って、まばたきをつづけるルルの身体に両手を回して抱き寄せた。そのときやっぱり、ルルはなにかを感じたのだと思う。やわらかい身体の線とか、汗の混じったつむじの匂いとか。
わたしはきっとそうだと思った。ルルの口から「はっ」と吐息が漏れたとき、それは彼女(わたし?)にとって、はじめての”驚き”という第一の感情だった。
2.
同じころ、放課後の薄暗い廊下。教室の扉が開き、ラダが一人で出てきた。教室の中にいる二名の生徒の声は聞こえなかった。ラダはほんの少しうつむいたまま廊下を歩いていく。そのとき一人の女性教師が向かい側から歩いてきて、二人はすれ違った。
「ラダ先生」と、女性教師は言った。「また落下死者が出ました」
「聞いています。クシュタイル・クロノス・ミオは最も危険な人物の一人でした。律もそれを感じ取ったのでしょう」
「なぜ彼女を守らなかったのです?」
「アゼンタマイノ・ワーズ・アコ先生、そんな言葉を使ってはいけない」
「そんな言葉とは?」
「今あなたがおっしゃったでしょう。”なぜ”というその言葉です」
「わたしの律に記されているとおりの言葉を述べたのです」
「であれば、あなたもそのうち、彼女らと同じ道をたどります。その先にあるのは落下死です」
二人はその後、お互いの表情を一瞬だけ見ると、ふたたび別々のほうへ歩きだした。
3.
ルルはミオが先導するのにまかせて、道を下って行った。途中、何度も道はなくなり、倒れたフェンスや配管の残骸だけでできた足場をつたっていく。
「これは非常に不安定に見えます。落ちませんか?」
「だいじょうぶよ、下層の人たちは毎日ここを通ってるんだから」 そう言って、軽く配管の残骸の上を飛び跳ねる。「わたしが子どものころからあるもん」
下っていくにつれて、徐々に上方は配管や足場で塞がれていき、光が届かなくなる。水がしたたり落ちてくる。上の配管からの漏水だとミオは言った。補修しようにもどこから漏れているのかわからないのだと言う。網の目のように張り巡らされた大小の配管群は、この場所にとって空の雲のようなものなのかもしれない、とルルは思った。
「下層の人たちにとっては、これが空の雲なのかもしれません」
「あ、言葉がでた。そう、それでいいの」
道路といえるようなものはもはやなにもなく、鉄板や残骸が地面の代わりに埋め尽くされ、その隙間からは暗い穴がどこまでもつづいていた。人一人分よりも大きな隙間もいくつかあり、下層の人々は下を見もせず器用に歩き渡っていく。泥と油がまじったような黄土色の排水があちこちに広がっていて、足をすべらせそうになる。家々はそれぞれの境目がわかりづらく、ベニヤ板やスチールの足場板をくくりつけているだけの空間に人々が行き来している。彼らの仕事はもっぱら上層から落ちてくる漏水や排水の処理。子どもや若者以外は、たいてい、ひどく腰が曲がっていた。棒の先に鉄板をくくりつけたような道具でひたすら地面の排水を掃き、暗い隙間に落としていく。
「わかる? フローコードなど存在しない。ここに来ればわかるでしょう?」
くちびるをぎゅっと?み締めたあと、ミオはルルのほうに顔を向けて言った。
「ミオさん、わたし、昨日、黒い雲を見ました。この場所の光のとどかない空を見て、黒い雲を思い出しました」
それを聞いたミオの口元がふと笑ったように見えた。ミオは「黒い雲を見たの?」とたしかめるように尋ねた。
「はい、わたしはたしかに見ました」
「ルルさん、あなたはガーデンにいるべきじゃない。わたした……わたしと一緒にガーデンを出よう?」
「それはできません。また、わたしはここで起きたことや見た光景を教官たちに報告します」
「それはわたしが消すからだいじょうぶ。あなたはなにもしなくていい。じゃあ、いったんガーデンにもどっていいから、明日でも明後日でも、放課後、滝の裏に行ってみて。蠅のような模様のサインが壁にいくつかあって、翅の向きをたどっていけば滝の裏に行ける。そこでまた、あなたは新しいことを知ると思う」
「新しいこと、を知ること」
「そう、人にはそれが必要なの。新しいことを知る」
「新しいことを知る」
「そう」
4.
ミオは次の日からガーデンから姿を消した。教官たちは彼女を探し回っているらしい。落下死の報告はいまだになく、まだ下層のどこかに身を潜めているのかもしれない。捕まったら再教育が待っているのを知っているだろうから。ルルはミオが言った言葉を思い出していた。グランウォルスの中央を流れる人工の巨大な滝、その滝の裏。新しいことを知る、そのことについて。ある日の放課後、司祭のところへ修理した圧力計を届けに行くように言われた、と正門に立つ教官に言って、外に出た。はじめてうそをついた、と自分でも思った。すると律が外れる音、パキパキというなにかが朽ちて欠けるような音が鳴っていた。滝の周辺にあるコンクリートの壁の、足元に近い場所をよく見るとたしかに白いチョークで蠅のような形のサインが描かれていた。その翅を示す向きをたどるとまた蠅のサイン。見たことのないトンネルのような場所を通っているあいだ、滝の流れる音が間近に聴こえていた。さらに少し歩くと、薄暗い中で照明が三灯だけともる狭い部屋にたどりついた。黒いフードを被った二人の男がルルのほうをじっと見て、なにもしゃべらずにいると、奥から別の男の声がした。下げていい、と二人の男に指示した。それから、こちらに来させろ、と言った。黒いフードの男の一方が、ついてくるように、とルルに目線で示し、滝の音がまだかすかに聴こえる中、部屋の奥までたどった。燭台が周りにともった棺にも見える黒い箱の前に、一人の男が座り込んでいた。座ったままでも頭が部屋の天井までとどきそうなほどで、そんなに巨大な人間をルルは今まで見たことがなく、肌が粟立つような感覚がする。それは体躯というよりも、彼の周りを飛び交う無数の黒い蠅が輪郭となって、大きく見せているのかもしれなかった。
「律を信じない者か」
と、その男は言った。
「律はそこにあるものと教えられています。わたしはグランウォルスガーデンの高等二年生の、マルクリッド・サッド・ルルです。黒い雲を見ました」
「見える者か」
「黒い雲は見える者です。また見えるかはわかりません」
「なぜここに来たのか」
「新しいことを知りたいから」
「新しいものはない」
「わかりました」
「これでよいか」
「……わたしにとっては、おそらくすべてが新しいことです」
ルルがそう言うと、男はそれ以上問うのをやめた。
「お前が、どのような目的であろうと、たとえ黒い雲派を殲滅するために送り込んだスパイ、で、あろうと、黒い雲はなにも変わることがない、だから、それについて、知ることは、お前が、そう思うのなら、できる」
「わたしは? そう思う?」
「なぜ自分に問うているのか、ブラーは、計りかねている」
律が外れる音。その上、頭が割れるように痛くて、でもルルはそういうとき、泣いたりわめいたりすればいいのか、わからなくて、ただ黙ったまま痛みに耐えている。それから、少し間をおいたあと、ルルはブラーに言った。
「わたしも? はかりかねている。あなたのお名前は、ブラー、と言うのですか?」
「それがなにを指し示すかという用途があるのなら、そうだ」
「ブラー、わたしに教えてください。黒い雲のことを、です」
ルルがそう言うと、ブラーは黒い棺のほうに見定めた目線を、一瞬、背後のルルのほうに向けようとしたのか、その大きな身体がずそっと動いた。でもそれきりで、また棺のほうに向きなおってしまった。
「ブラーはそれを人間として教えることができる。すなわち黒い雲は、人智には理解しがたい、できない。しかしブラーたちの知りうるかぎりのことであれば、知りたいと思う人間に、秘匿する理由はない。黒い雲派は、上級の者たちが、律と呼んでいる、その教条を、信じることができなかった者たちの集まりだと、人は言う。しかし律自体は、司祭たちも、それを信じろ、とは言っていない。ただそこにある、それだけだと。黒い雲は、ある、という人智を否定する。ある、ない、はだれが決めるものでもない、ゆえに。黒い雲、は、教条を作らない、それは、人間にとっても、ほかの生物や無機物にとっても、等しく、なんの呵責もない。因果は、ない。それは人間が律として作り出したもの、ゆえに。黒い雲は、なにも、ない。なにもないということを、人間として、ならば、ブラーたちにそれを、教えている。ルル、見るならば、ブラーは動けない、足や手は、人智でないならば、ない、ゆえに」
「ブラー、あなたには大きな手と足があります」
「ない」
「えっと、つまり」
「ゆえに」
「理解しました」
「つづける、ならば。見る、ならば、ブラーたちが案内する。黒い雲を呼ぶ、そのための、人智でしかない、ゆえに」
先ほどこの部屋まで案内してくれたフードの男の一人が、今度はさらに奥の部屋をルルに案内した。広い空間の中、蒸気管が縦に何本も並んでいて、中央には冷温水発生機のような大型の機械が轟音を上げている。黒い煙のようなものが辺りを漂っている。それは目を凝らすとひとつひとつがちいさな黒い蠅であり、ルルが黒い雲を見たあの日に、見たものだった。巨大な製図版にはグランウォルスの街の全景の図面が広げられていて、何か所かに印がつけられている。
「黒い雲は、ここから撒かれるのですか?」
ルルがフードの男に尋ねる。フードの男はなにも答えない。
「わたしは、黒い雲を身体に取り込んでしまった。だから今、律が外れようとしている、ちがいますか?」
フードの男はやはりなにも答えない。
ブラーの部屋にもどると、彼は座り込んで、相対的に小さく見える黒い棺を開け、その中にあるらしいなにかを啜っていた。棺の中を掬っていたブラーの右手が砂のように崩れ、大量の黒い蠅が床に落ち、もがきながら燃えて灰になっていく。ブラーがルルのほうを振り返ると、その頭部も同じように半分ほどが崩れていき、黒い蠅が床に落ちて燃えていく。ひとつひとつが種火のようになって、ほかの蠅たちを燃やしていき、その無意味な抵抗を見ると、そのときだけそれは生きているように見えた。
「ブラーは真実ではない、律の者はそう言う。ゆえにブラーは、真実などない、律の者にはそれが邪悪なる虫に見える、と言う」
「わたしは蠅を邪悪とは思いません。蛆の萌える場所は汚泥を飲み込み、もとの清い水に還ります」
「それは、だれに教えてもらったのか、と、ブラーは首をかしげている」
「あ、感情」と、ルルは言った。「それはわたしの中にありました。遠い昔、見たことがあったのかもしれないと」
「ルルは黒い雲ではない。ルルは、ここにいるべきではない。ここは、このグランウォルスは、すべてを黒い雲に還す。破局は、すべての地上をならす、ゆえに、人間が作った階級、富、名誉、偏在していくことに価値を有するすべては、ならされ、黒い雲に還す。破局的な暴力は、偏在を無に還す、ゆえに」
「わかりました」
「わかったか」
「わかりました、わかりません」
「目を見せてみろ」
ブラーは腰をかがめ、ルルに顔を近づけた。ルルは少しだけ背伸びをして、目を彼のほうに向けた。顔全体を覆う黒い蠅の塊がぼとりと落ちて、小さなブラー自身の顔が見えたようにも見えた。
初出:Works 神谷京介 2026年1月5日掲載