The Third Path(仮題)_1_下書き

1.水の街にて

1.
 目を閉じた先にある世界を、わたしはもっと見たい。それはいつも遠くて、ぼやけていて、蜃気楼のようで、そこにとどかなくて苦しい。朝起きると忘れてて、学校の時間になって、同じ道を通って、同じ電車の中でぎゅうぎゅうになって。かばんにかけたストラップが外れて落ちた。そのとき思い出した。彼女が海に落ちていくその瞬間で、もうたくさんの人の足元の中で、きっと踏まれたり蹴られたりして、わたしも次の駅で降りなきゃで、忘れたふりをしようとしたらほんとうに人は忘れるから、その日ずっと忘れてた。でも言われた。あれ、ないよって。そしたらわたしは「忘れたよ。そんなのあったっけ?」って言った。でも家に帰ってからそれはあったよって思って、ぐぐ、って目の奥から涙が出そうになった。カーテンを光らす西日がまぶしくて、終われ終われってだれかが叫んでる。この日とか、この世界とか。苦しくて恥ずかしいことよ、ぜんぶぜんぶ、終わってしまえって。それはわたしが叫んでたことかもしれなくて、わたしは、目を閉じた先にある世界のことを、忘れようとしていたことを、どうしても今、思い出したくなった。夢でもなくて、幻覚でもなくて、妄想でもない。そこに生きていた彼女のことをわたしは見ている。針の穴がすり鉢状に広がっていく。見える、きっと見える、手にはつかめない蜃気楼の世界で。

2.
 その子はわたしと同じ十七才。ルルと呼ばれている。水晶のような瞳がきれいな女の子。今、ルルは手に一冊のノートを持って、細い下り道を歩いている。曇り空が壁のわずかな隙間からこぼれて見えて、また遮られる。一人のクラスメイトのあとを追っていた。忘れ物だよ、と声をかけてノートを返したいのに、彼の歩く速さにずっと追いつけない。速く歩こうとするほど、足が重たくなってしまった。彼は道ではなく、地面に張り巡らされた配管の上を歩いた。給水塔が密集しているこの場所は街の外縁にほど近く、フェンス越しに光のきらめく夕刻の海が顔を出した。その後もはしごを登ったり、ダクトの継ぎ目に足をかけて渡ったりして、給水塔の頂上にたどりついた。
「どこまで行っても、この街から抜け出せない」
 と彼は言った。
 頑強なコンクリートの壁が行く手を阻んでいる。ちいさく揺れ動く波の音は、そこまで来ていた。がたん、と音がした。彼は思いがけず片足を踏み外した。足元にはフェンスもなく、解体されかけたまま放置された鉄パイプの足場がわずかにかかっているだけだった。雲間からほんのわずか、夕日が射し込む。その光が地上よりよほど近づいていた。その足元の空白をたしかめたあと、彼は足をもとの場所にもどした。
 ようやく追いついたルルに、彼は微笑みかけた。
「よくここまで来れたね、ルル」
「ディジェリドウ・アライブ・ネムさん」とルルは彼の名前を呼んだ。「わたしはガーデンにもどらなければいけません。忘れ物です、受け取ってください」
 ルルは、ネムにノートを差し出した。ネムはそれを受け取ったあと、ノートをつまんでいた手を離した。ノートは数百メートル下までまっすぐに落ちていき、すぐになんの形も見えなくなった。
「いらないんだ。僕には」
「ネムさんはノートを落としてしまいました。ガーデンにもどったらわたしのノートを貸すので写してください」
「ううん、もういらない」
「明日の授業までに予習が必要です」
「今のきみにはわからない、わかるときが来る」
 ネムは、彼のフローコードが外れかけている可能性について述べようとした。それを遮るように、
「じゃあまた、どこかで必ず」
 彼が足を一歩踏み出すと、もう彼の身体は見えなくなった。ルルは真下を見下ろした。巨大な空洞がそこにあるだけで、落下していったはずの彼の姿を目で追うこともできなかった。空は薄暗くなりつつあった。
「ネムさんが落下しました。ネムさんのノートも落下しました。わたしは給水塔の頂上に立っています。わたしはマルクリノ・サッド・ルルです」
 雲が黒く染まっていく。それははじめて見る色で、学んだことのないものだった。黒い雲は給水塔の真上の空を覆い、辺りがいっそう暗くなった。ほんのわずか、黒い粒のようなものが落ちてきた。それはルルの身体に当たると、浸透するように消えていった。ルルは目を閉じた。真夜中、担任の教師のアゼンタマイノ・ワーズ・アコがルルとネムを探し回っていた。アコは給水塔のそばの道で眠っているルルを見つけ、肩をゆするとルルは目を覚ました。
「帰ろう?」
「アコ先生、給水塔の頂上からディジェリドウ・アライブ・ネムさんが落下しました。ネムさんのノートも落下しました。わたしは給水塔の頂上に立っています。わたしはマルクリノ・サッド・ルルです」

3.
「マルクリノ・サッド・ルル」
 自分を呼ぶ声がして、はっと顔を上げる。ルルは自分を見つめている、しかめっ面の教官、ラダと目を合わせた。
「返事をなさい、マルクリノ・サッド・ルル。フェイブス・マルクリノ地区の991番の子のサッド・ルルよ」
「はい、教官」
「お答えなさい。左か右か」
 そのとき、フローコードがかちりと合わさって、ルルはその流れのままに答えを吐き出した。
「右です。すなわち、バルブを閉める際には右、バルブを緩める際には左に回します」
「そのとおり」
 この質問は授業内容と関係ない場面でもたびたび行われる。その合図によりフローコードの調整が行われるのだと思う。ラダは授業中、生徒たちを見回しながら外れそうな生徒に同じ質問をする。
「では授業を再開する」
 天井を這う配管から絶え間なく水の流れる音が響く中、講壇に立つラダは金属の指示棒を指先でなぞり、卓上に配置された学習用のバルブの模型を指す。それらは内部構造がわかるように断面を切り取られていて、四つ並べられている。
「ゲート、グローブ、チャッキ、バタフライ」ラダは声を張る。「これら四つの弁体は、わがグランウォルスで最も普及している。あなたたちはいずれ、これらの開閉を司る者たちになるのです」
「ゲート弁。グランウォルスの上下水道、熱源水、揚水、それらの出入口となる巨大な引き込み管の開閉を担う。これらがもしも閉じれば、グランウォルスは一夜にして崩壊する。従って、ゲート弁の前には最高司祭が常に佇まれており、一瞬の流れの違和も見逃さんと目を開いているのです」
「グローブ弁。内部はこのように曲がりくねっている。しかしこの構造により、流体の流量調整が容易となる。わがグランウォルスでは主に空調用の熱源水の流量管理に用いられている。これらの調整は福司祭が司られているのです」
「バタフライ弁。わがグランウォルスで最も多く使用されている小型の弁。これらは見習い司祭でも扱うことができますが、構造を知らぬままふれることは許されません。内部はこのように、弁体にぴったりはまる円盤が収められています」
「実際に扱う際、この模型のように内部を見ることはできません。すなわち、あなたたちの手から弁体内部へ感覚を延長して、フローコードを読み取り、フローコードに従い、それを開け、それを閉じなければなりません」
「弁体は世界を律する道具。あなたたちのフローコードも、時々に弁体が組み込まれている。いずれ弁体を操作する司祭になるであろうあなたたちは、しかしながらフローコードによって自らも流体として律の中に組み入れられていることを忘れてはいけない。律から外れる者は、命からも外れる。あなたたちの命を守るためにフローコードは現に存在しており、あなたたちを、そしてグランウォルスの人々すべてを守っているのです」
「ルル、あなたのそのフローコードはなにを示していますか?」
 かちり、とフローコードがはまる音がした。ルルは答える。
「はい。これら三つの弁体の特徴をノートに書き取り、まもなく授業を終え、次の授業の準備に移ります。休み時間にクシュタイル・クロノス・ミオさんに話しかけられます。彼女はわたしに先ほどの授業について質問をし、わたしはそれに答えます。その後……」
「よろしい」
 ラダのその言葉を聞いたルルは黙ってうつむき、先ほどの内容をノートに書き留めた。

4.
 ※未執筆だが、ルルがクラス全体の律に従わない様子の描写(暗唱をさぼる、椅子をもとにもどさないなど)

5.
 授業の終了を告げるチャイムが鳴り、次の授業は外での実技のため、クラスメイトたちは廊下に並びはじめる。クラスメイトの一人、ミオがルルに話しかける。
「ルルさん、難しい授業だったね」
 ルルはなにも答えなかった。ミオは少し言い直して、難しい授業でしたね、ルルさん、と言った。
「弁体の中にはいろんな部品があります。正確に覚えることが必要になります」
 ルルはその後、ミオがどのような言葉を返すかを知っていた。だけど、そのとき、かちりと音がして、律が外れた。
「ルルさん、あそこの席に座ってた子、名前知ってますか? ディジェリドウ・アライブ・ネムくん」
 先ほどの授業の話を自分から遮るようにミオが言った。
「はい、わたしは知っています」
 とルルは答える。
「どうして、だれもそのことを知らないふりするのかしらね」とミオは言う。「わたしは知ってる、ネムくんは」
「ディジェリドウ・アライブ・ネムは給水塔の頂上から落下しました」
「あ、知ってたんだ」
「はい、わたししか見てません、わたしは彼のそばにいました」
「ふうん……」と、ミオはルルを見定めるように言った。「これで落下死者はうちのクラスで三人目なの、みんな気づいてないけれど」
 そのとき、天井から耳をつんざくような轟音がひびいて、そのあとぱらぱらと埃が落ちてきた。みんなが呆然としている中、だれかが、おそらくウォーターハンマー現象です、上階の給水がなんらかの理由で停止したのではないでしょうか、と言った。
 ラダ教官が教室にもどってきた。
「みなさん、先ほど起こったこともフローコードの通りです。次の授業の準備をなさい」
 それだけ言うと、少しあわてるように早足で去っていく。
 ここ最近、ガーデンの中でもいくつかこのような不具合が起こる。今までにないことだった。
「ねぇ知ってる? 落下死者はこれでうちのクラスでも三人目なの」騒ぎが収まったあと、ミオは先ほどの話をつづける。「次はだれだと思う?」
 ルルはなにも答えない。
「ルルさん、わたし怖い」
「あ、感情」ルルは、ミオの律は”怖い”という言葉に反応した。これを消去しなければならないから。「クシュタイル・クロノス・ミオのコードより、ストレーナー処理を開始せよ。異物を取り除きたまえ」
「やめて!」
 ミオは叫んだ。そのとき、廊下に並んだクラスメイトたちが一瞬だけ、教室内の二人に視線を向けた。
「ごめんね、またあとで会おう? あなたのフローコードに書き込んであげる、その場所へ。放課後ね」
「ストレーナー処理」その言葉は、勝手に口をついて出る。だけどミオはもう意に介していないようで、廊下へと歩いていく。

6.
 目を閉じた先にある世界、わたしが見ているその街はグランウォルスと呼ばれている。巨大な海にぽつんと浮かんでいる人工島で、その外には陸地がどこかにあるのか、ほかの国があるのか、それすらわからない。グランウォルスの三万人の住民たちもきっと知らない。住民はすべて地区名を含めたコードネームで管理されていて、出生後はただちにフローコードを割り当てる儀式が行われる。
 グランウォルスから水の供給がもし一秒でも途切れたら、たちまち街中の機械が止まり、すべてのインフラはシャットダウンされるだろう。
 都市の規模からすれば無限ともいえる大量の海水を利用した揚水発電がすべての電力を賄い、給電されたポンプが海水を引き込み、街中の水路に流れていき、それらの支流から給水、下水、空調設備に使う冷温水、ボイラーを通した蒸気などが汲み上げられ、大量の配管が網の目のように広がる。
 ルルたちの通うウォルスガーデンは、子どもたちの教育施設であり、都市の全水流を統括管理する中央監視施設でもある。都市の最上層に位置していて、監視塔からは街の全景が見下ろせると聞いた。たしかに、ルルが見ている街の景色はいつも見下ろすような視点ばかりだった。揚水発電を利用するため、まるで巨大な山のような高低差がある。司祭候補であるルルたちはウォルスガーデンの寮で暮らしていて、彼女たちの家族も司祭の出自が多く、比較的上層の街で暮らしている。下層に降りるに従って街のようすは変わってくる。水路も配管も、整備が行き届かずつぎはぎで、あちこちから漏水や蒸気漏れ、結露が起こっている。水路を挟んで両脇に屋根付きの商店がいくつか並んでいて、圧力計やバルブ、継手などを売っているが、きちんと整備されたものはなく、どこからか調達してきた中古品だ。この街は自分たちで機械類を製造する術を持たない。本国から放棄された日は遠い昔のことだ。いずれすべてが壊れていくのだろうけれど、その日までグランウォルスは動きつづける。下層の街はすでに限界を迎えていて、壊れた下水管からたえまなく汚水が吹き出し、蒸気が灰と混じりもやのように漏れ出てて空気を汚し、水路からあふれた水が居住区を浸している。鉄のゆかは錆びついてしまい、苔も生え、汚水と混じり合っている。汚水の回収人や清掃人、補修人といった職能の人々がこの下層地区で暮らし、終わりのない作業をつづけている。水の流れがあるかぎり、人々は上から下まで手を止めない。最下層の濁った水は海に排出され、一部は浄化槽を通してまた最上層まで上り、ふたたび水路を流れる。その繰り返しが人々を今日まで生かしている。
 正門をくぐって外に出た。ルルのフローコードには、ウォルスガーデンの外周を散歩して寮にもどるだけだと刻まれている。ミオとのことが頭をよぎったので、自分にストレーナー処理をしようとして、またなにかが頭をよぎった。
「黒い雲」
 とルルはひとりごとのようにつぶやいた。昨日見たあの黒い雲を見た場所。
「ストレーナー処理」
 もう一度、繰り返した。だけど律は整うこともなく、どこか澱のようなものが残ったままで、だけどその感覚をルルはわからない。ただ歩いて、水路と並行して鉄板が張られたやや湾曲した下り坂を降りていく。何人かの人を見た。律の調整をしているのか、からからと頭の奥から音を立ててゆっくり歩いている。ルルは大通りから外れて、脇道を通っていく。人通りが道端に少なくなり、狭い道端にはポンプの残骸や壊れた配管、置き去りにされた工具が捨てられている。道を塞ぐほどで、ルルは踏みつけて進んでいった。壁のように反り立つ配管の隙間から、光がうっすら見えた。どうやらそれは海の光のようだった。


初出:Works 神谷京介 2025年12月26日掲載