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 昼下がりがこぼれ落ちて、水面に浮かぶ日溜まりは再び形を変えた。茫洋とした海から溢れる光のまぶしさが染みてそっと目を伏せると、誰もいない岸壁の上には様々な音が響いた。
 静羽は風に揺られながら慎重にしゃがむ。長い髪の毛が垂れて視界がふっと遮られた。
 地面にローソンのレジ袋とおにぎりの空袋が転がっていたので、静羽はそれを海に落とそうとして軽く息を吹きかけたが、おにぎりの袋さえ、息だけでは傾きもしなかった。陽光を小さく浴びてレジ袋の下に淡い陰が映る。コンクリートの地面が光の領域に入り静羽の曲線を帯びた陰も一緒くたに暖かな色に連れ去る、それでも粒子のような暗色の陰は光と等分されて確実に岸壁を覆っていた。冬の光は鏡でもあてられたようにいつだって輝いているが、熱はけして帯びない。やがてレジ袋とおにぎりの袋が風に吹かれてめくれるように飛んでいった。レジ袋が岸壁から離れて空に浮かぶ瞬間、乾燥した空気がひび割れるような音がした。それはきっと、自分のからだや頭を優しく破いてくれる音だ、静羽はそう思った。しかし、この音をいつまで憶えていられるのだろうと思うと、途端に得体の知れないさみしい気持ちに襲われた。
 さみしいことが静羽はなによりも嫌いだった。
 小学生の時にいじめを受けてクラス中から疎外された頃から、その思いは静羽の中でいっそう強くなった。いじめを受けてからは人見知りをしなくなったが、より相手と距離を置くようになった。要するに人を信用しなくなっただけなのだが、静羽は自分自身そのことに気づいていないし、いじめられていた頃の記憶すら忘れようとしている。
 辺りに人影は見受けられない。静羽が訪れた時の漁港は、夕刻でも夜でも常に森閑としていた。
 この漁港は静羽の通う高校からの帰路にあった。林立する漁船を囲うように岸壁が建っていて、その岸壁の上を歩きながら静羽は飽くこともなく海を眺めていた。海に聳え立っているようにも見える岸壁の、足場から二メートルほど下には、静かな海面が永続的にゆらいでいる。
 空が銀色に透き通っていく様子を静羽は見た。
 息を吐く、その息は冷えきった空気に溶け合って白く濁る。冬がだんだんと近づいているんだな、と静羽は思う。
 静羽はほんの少しだけ首を傾げてみる。岸壁が埋まっている場所は小さな船舶が出入りする港湾だから、静羽がこの細いコンクリートから少しでも足を踏み外すとたちまち海へ投げ出されてしまうだろう。日の光が雲のあいだから射して海を輝かせる。きれい、と呟いたつもりだったが静羽の口から声は出なかった。
 同じクラスの折原さんからメールが届いたので、静羽は地面に腰掛けて文面を読む。明日の時間割教えて、というそっけない一文だった。今漁港に一人でいるので時間割はわからない、と言うわけにもいかず、仕方なく家に帰ることにした。この漁港から静羽の家までは自転車でほんの五分ほどの距離だ。耳が寒さで突き刺さるように痛い。息を吐いた、白い、静羽は自分の腕を軽く振った。片腕の隙間から湾に架かる橋とその向こうにある灰色一色の街が見えた。
 
 静羽が母親と中学三年生の弟と共に住んでいる小作りなアパートの一室は、冬になると湿気が溜まって窓に水滴が張り、窓枠が水浸しになった。静羽はそんな小さなことでも堪らなく嫌になる時があった。
 だから静羽は、水浸しになった窓を眺めながら、一人ぼっちで「永遠」について考える。
「永遠、え、い、え、ん」
 誰もいない部屋に静羽の声だけが浮かんでいた。不意に恥ずかしくなって、これ以上声に出すのはやめようと思った。
 だけど頭の中では常に、少年の口から出る「永遠」という言葉が反芻され続けている。
 永遠って何だろう?
 ある日少年にそう問われたことがあった。
 だが静羽は、何も答えることができなかった。細長い白い指をした少年は、
「僕も、僕だって当然答えられないけど、死ぬまでには絶対に答えることができるようにするよ。『永遠』が、どういうものか」
 そう、小さな声で言った。

   十二月十二日 11:13 pm
 夜空は真っ暗なように見えて実はほのかに青く色づいている、静羽がそういうことに気がついたのも、少年とこの岸壁で会うようになってからだった。
 漁港を縁取るような細長い岸壁の上を静羽はゆっくり歩き、尖端へと向かった。夜闇に自分の足がまぎれることがある、外灯がともすのは周囲のほんの少しの空間だけで、あとのことはあまり期待できない。
 先に来ていた少年が岸壁の尖端で静羽に向かって手をあげている。静羽も少しだけ手を浮かして答える。
 こんばんは、と静羽が言うと、少年も、こんばんわぁ、と返した。
 静羽は少年の隣に腰掛けた。暗い海は静かにゆらめいていた。
 少年は静羽と同じ高校生で、この町から一番近い高校に通っているらしい。静羽はこの漁港から自転車で三十分かかるくらいの進学校に通っていた。進学校といっても県内でも中途半端なレベルのところなので、課題や宿題の多さに悩まされるような日々はそう多くはなかった。
 少年は黒のダウンジャケットにベージュのニット帽を被っている。それが彼のいつもの格好だった。静羽はこの岸壁にいる時の少年しか知らないので、黒のダウンジャケットにベージュのニット帽以外の格好をした少年を思い浮かべることができない。
 少年の顔は闇にまぎれていて、よく見えない。静羽は顔を覗きたいと思うが、そんな勇気がないことも自分で把握していた。
 二人は黙ったまま海を眺めていた。海のさざめきが下のほうから聴こえてくる。遠くに赤や緑の明滅する光の粒が見える。クレーン車か何かだろう、と静羽は考えたが、そうでなくても別にいい、とも思いながら音を立てないよう慎重に洟をすすった。
 少年は静羽のほうに顔を向けた。静羽は目をほんのちょっと開いて少年のほうを見るが、彼が何も言わないからどうしていいのかわからなくなった。静羽はまた洟をすすった。少年はその様子を見て、何かの確認でもするように「寒いね」と言った。
「うん」静羽は少しまを置いてから、「風も、冷たい」
 手をついている地べたも冷たい。氷を張ったようだと静羽は思う。ふと自分が辿った道を振り返り、岸壁をなぞるようにして向こうのほうを見れば、六畳間くらいの大きさの漁船がオレンジ色の外灯に照らされていた。同じような型の漁船が岸壁と平行に連なって無数に並んでいた。灯りは光源から波紋のように広がっている。
 静羽は俯いたまま暗がりで何も見えないような地面を見ていた。時折、少年が着ているダウンジャケットが地面か何かに擦れて音を立てる時があった。静羽はその音をじっと聴いていた。
 葉山くん、
 静羽が呼んだので少年は振り向いた。静羽の目には、少年がかすかに笑ったように映る。
「冬っていつまで続くんだろう、ね」
 静羽の問いかけに、少年はいつも真摯過ぎるほどに言葉を選んでから答える。なので考える時間が極端に長くなるが、静羽はいつもじっと待ってやっていた。
 少年は「色が変わったら春になるんだよ」と言った。「だから色の変わらないあいだは、ずっと冬」
「色って?」雲とか、空とか、木の葉とか?
 少年はまた十数秒黙ったのち、ゆっくりと口を開いた。
「フィルター自体が変わるから……だから雲とか空とか地面とか、全部の色がちょっとずつ変わるんだよ、たぶん」
 長く伸びた街の灯りが暗い海に反映している。左端から順番に、オレンジ、赤、青、白、オレンジ、赤、緑、オレンジ、オレンジ、
 静羽は遠くにある山の稜線に目を向ける。真っ黒い尾根は高いところだけしか見えない。空疎な世界を覆うように、ただ連なっている。

      ❖

「静羽、あんたやっぱり髪伸びるの早いねえ」
 ドアを開けて静羽を見るなり杏里さんは言って、静羽の髪を撫でた。朝の光が玄関先の観葉植物を平らに照らした。空気の澄んだ日曜の午前だった。
 杏里さんは赤茶けた壁をしたアパートの301号室に一人で住んでいる。三階建てで各階に部屋が三つしかない小さなアパートだった。二十八歳だというが静羽にはもっと年を取っているようにも見えた。髪が黒いからかな、と静羽は思う。
 おじゃまします、と誰にも聞こえないくらいの小さな声で言って、静羽は部屋に入った。玄関からまっすぐに歩くと六畳くらいの台所に突き当たる。静羽はそこの中央に置かれた小作りな丸テーブルの傍に腰をおろした。部屋には余計なものが一切ない上に不自然なほど完璧に整理されているので、静羽は時たま、この部屋に訪ねて来る人はひょっとして自分しかいないんじゃないか、とも思った。杏里さんが先日貸してくれた文庫本はバッグの中に忍ばせてあったが、返すタイミングを損ねていた。
 杏里さんはキッチンに向かいお茶の用意をしている。
「静羽ちゃん」
「なんですかぁ」
「あは、相変わらず語尾ぐだぐだ」
「いや、意味わかんない」
「そんなのいいから、静羽」いつのまにか杏里さんは髪をくくっていた。「あのね、コンソメスープ作ったんだけど、食べたい?」
「うん」
 オッケ、と杏里さんはこっそり呟く。
 静羽の下に湯飲みに入ったジャスミンティーが運ばれてきた。静羽はこのあいだまで借りていた文庫本を手で持って示す。ああ、置いといて、と机に顎を向けて言うので静羽はその通りにした。
「ねえ、杏里さん」
 うん? どうした? 杏里さんは静羽の声のトーンから何かを読み取ったようだった。
「また葉山くんに会ったんだけど」
「うん。そんで?」
「いや……何ていうか、上手く言えないんだけど、……永遠って、どういうものなんだろうな、って、思って。杏里さんだったら何か答えてくれるかなって、思って。あ、けどやっぱいい」
「は?」
「もういい」
 杏里さんは、はぁ、と口を開けたまま発音して、「学校の宿題じゃないよね」
「うん。葉山くんが言ってたの。永遠って何? って」
 杏里さんは息を小刻みに抜いていくような彼女独特の笑い方で、くっひひっ、と笑う。
「二人で探しなさい」
「馬鹿にしてる。子供だと思って」
「そんなことないよぉ、静羽ちゃん怒んないで」

 ドアを開けて外の通路に出た途端に、乾燥した空気が静羽と杏里さんの咽喉を通った。陽光が階段を斜めに照らしていた。隣の部屋は小さな子供がいるらしく、カラフルな三輪車や泥のついたボールや黄色い風呂桶が通路の片隅に置かれていた。
「じゃあね、また来てね」杏里さんが言う。
 別れの挨拶を告げ、小さく息を吐きながら静羽が階段をおりている時、突然、杏里さんに上から呼び止められた。
「静羽ちゃん、ちょっとそこ立ってて」
「そこって、どこ?」
 杏里さんはどこかを指し示しているようだが静羽にははっきりと見えない。
「まあとにかく下おりてよ」
 アパート前の駐車場までおりてから上を向くと、杏里さんは二階と三階を繋ぐ階段の踊り場から外に顔を出して、微笑みながら大きく手を振っていた。静羽も少し戸惑いながら振り返した。踊り場にいる杏里さんの半身は光に照らされて今にも消えそうなくらいに霞んでいる。集まった塵が風で散っていくみたいに、光は色んなものを消していくんだろうな、と静羽は思った。
「静羽」杏里さんは手に赤いハンカチを持ってひらひらとさせる。「これ、下に落とすからぁ、……キャッチして」
「なにそれ」
「いいから」んふ、くっひっひ、杏里さんはまた変な笑い方をした。「静羽ぁ」
「はい」
「このハンカチが自分にとっての一番大切ものだと思って捕んの、ね」
 杏里さんはまだ赤いハンカチをひらひら泳がせている。
「一番大切なもの」
「そう。わかった?」
「はぁい」杏里さんを見上げながら気だるく返事をする。
 風が吹いた。
 落ち葉が風を受けて羽のようにざわめいた。
 杏里さんは小さな声で鼻唄を歌っていて、その歌声は静羽の耳にもかすかに届いていた。
「早くしないの?」
 そう言って静羽はハンカチを指差すが、杏里さんは一向に鼻唄を止めないので仕方なく、それ、聴いたことあるんだけど何ていう歌? と訊ねた。
 マイウェイ。
 え?
 すっごく昔の歌、杏里さんはそう言ってまた歌い出す、「Ive lived a life thats full.……

 Ive traveled each and evry highway;
 And more, much more than this,

 I did it my way.

 高い音程のところは裏声でカバーしていたが、杏里さんの咽喉から漏れ出る裏声は、今にも空気に磨り潰されてしまいそうなくらいに小さくて儚かった。
 一通り歌い終えてしまった杏里さんは、声を出さずに笑みをこぼした。今笑ったの見えたかな、静羽のとこから、と杏里さんは思った。空色のマニキュアをした手から赤いハンカチが離れた。
 何も言わずにふっと手を離されたから、ハンカチが本当に地に向かい落ちているのか、最初のうち静羽にはよくわからなかった。だから静羽は目を凝らした。ハンカチは杏里さんの手を離れ確実に下へと落ちていた。空気をはらんで柔らかに形を変えながら赤いハンカチは空を遊泳した。光が射してうまく見えない、静羽はすぐにハンカチを見失ったが、慌てて空を見回すとまだハンカチは空気の中、ヴェールのような風が受け止めて、また上へ上へ昇っていく、静羽はふらふらと駐車場を歩いて、時折足がもつれそうになったがそれでもハンカチはおりてこないから、ずっと捕る心構えだけをしてただぺたぺたと歩き続けた。ハンカチはやがてゆっくりと地上へおりていった。アパートの壁の作り物めいた赤茶色に、ハンカチの赤い色が一瞬だけ被さった。
 杏里さんは、ハンカチを見ながら滑稽に歩き回る静羽の姿を眺めて、――わたしがもしあの子だったなら――その風景すべてに蓋をして閉まっておきたいんだろうな、と思った。そしてまた声に出して笑った。

   十二月十五日 11:21 pm
 杏里さんから借りていた小説の話をした。静羽は記憶をたぐりながら少年にたどたどしくあらすじを聞かせていたが、ようやく静羽がすべて語り終わると、少年は、
「でも、それ読んだことあるよ」
 今まで一生懸命話を伝えようとした努力を無下にされたような気がして少し腹を立てたが今更どうすることもできず、仕方なしに声も出ない苦笑いをした。
「だって葉山くんは小説家になるんだもんね」そりゃ読んでるに決まってるよ、と静羽は思った。
 少年がくるりと背を向けて海のほうを向いたので、静羽の目に映る彼の後ろ姿はまた無機質な黒いダウンコートだけになった。
 耳を澄ますと、風の音だけが途切れとぎれに響いた。その風は静羽の身体を何でもないもののように通り抜けて、また海の真ん中へ投げ出されていった。静羽は寒さでおもわず身体を震わせた。
「静羽さん、あそこ見て」
 少年は広い海のある一点を人差し指で指し示す。静羽は目を凝らしたが、そこは何の変哲もない海で特に変わったところもない。
「見えない?」
 見えない、と静羽は言った。
 見えるよ、ちゃんと見れば。
 静羽は僅かな戸惑いを感じながらも、少年の傍へゆっくり擦り寄ってから再び海の一点を空ろな瞳で見つめた。少年はもう別のことを考えているのかもしれない、しかし静羽は、何かを見つけるまでそこから目を逸らす気にはなれなかった。暗い海はただ箱の中でゆれているみたいにゆっくり、静かにさざなみを作っていた。静羽には少年の示す海の先が他の場所とどう違うのかまだわからない。少年はすぐ隣で海を見つめている静羽の横顔を少しだけ覗いて、こぼれ落ちたようなため息をついた。静羽が少年のため息を聞いて振り返ると、少年は気を遣ってか、首を傾げてかすかに微笑んだ。
「ねえ、何かあったの? あの海の先」
 少年は何も答えないでいる。
 静羽はまた視線を海へ戻した。
 視線を留めて同じ場所だけを見ていれば、夜の海はその存在理由自体を失い、ただの水でしかなくなる。静羽はもうまばたきすらしたくないと思った。海を囲む山や岸壁が視界から排除されて、それはやがて、海でも水でもない何か別のものになった。静羽は穏やかな水の流れの中心にある驚くくらい静かな色を見つけようとする、死んでるみたいに心を澄まして、確かな色の存在を見つけ出そうとする。そういうものがあることを信じて静羽は海を見続けていた。
 ひょっとしたらすべては、海とか山とかじゃなくてもっと単純な、もっと不安定なしくみの下で動いているエネルギーの塊のようなものなのかもしれない、よくわからないけれど、それはたぶん風のような空気のようなものにくるまれて穏やかに自らの形をなしている、じっと目を凝らしながら、静羽はそんな空想を抱いた。

      ❖

 聴いたこともない洋楽のクリスマスソングが流れた。
「これ『RIVER』だ、静羽知ってる? ジョニー・ミッチェルの」前を歩く折原さんが静羽に訊ねる。
 静羽は首を振る。折原さんに誘われて学校から近い小さなスーパーマーケットに来ていたが、静羽がすることといえば、ショッピングカートを押して折原さんについていくことぐらいだった。それでも、自分の仕事があるだけまだマシだ、と静羽は思う。
 折原さんはクラスでの唯一の話し相手だった。仲良くなったきっかけは、たしか学校のスポーツ大会で卓球の班に入っていた時だったかな、と静羽は折原さんの背中を見るともなく眺めながら考えていた。静羽のクラスの卓球班は特にスポーツが得意な人で構成されているというわけではなかったので、トーナメント方式の団体戦ですぐに破れ、終日続くスポーツ大会の中、午前のうちに仕事を終えていた静羽たちの班は暇をもてあましていた。
 折原さんは卓球の団体戦を一人で眺めていた静羽に突然声をかけてきた。
「三戸さん、三戸さんって下の名前なんだったっけぇ?」
 シズハ、と、唾を飲み込んでから慎重に答えた。それからだった。
 小さな子供が試食コーナーのオレンジを二個続けて口に入れた。つまようじが用意されているのに手づかみで食べた。カートを押している母親は何も言わない。
 意思の疎通がうまくいかないことを考えると不意に怖くなる、だからわたしは、人並みの人付き合いを拒んできたんだ、と静羽は思う。
 まただ、静羽またぼーっとしてる、折原さんがスナック菓子を取ってカートの籠に入れながら口を挟む。静羽は折原さんのほうを向いて少しだけ怪訝そうな顔つきをする。
「何よ、ぼーっとしてたんだからそう言っただけじゃん」
「……してないよ」
「してたよ」やっぱ変な子ぉ、そう言う折原さんの語尾は、いつも滑らかにさっと上がる。
 折原さんは自分のペースで店内をさっさと進んでいく。静羽は黙ってついていった。さっきから店内をぐるぐる巡っている男子学生の一人がまた静羽の眼前に現れて、すぐにまた横へ逸れていった。その手には箱型のヘアワックスが握られている。静羽はスーパーをぐるりと見渡した。まばらに歩いていて、たまに商品を手に取っては籠に入れるつまらない人たち、折原さんの他は人間だって単なる風景だと静羽は思う。自分にさえ関係がなければ……
 折原さんが静羽のほうに向き直って、
「あのね、RADWIMPSが高知に来るんだって」
「この前アルバム出したから?」
「うん」
「ふーん」
「ね、静羽、一緒に行こうよ、ライブ。チケット取れたんだよすごくない?」
「えー……だって、あたし……」
「行きたいもん、だって」
「あたしは、いいよ」
 折原さんはそっぽを向いて、「じゃ、いい。他の人と行く」と言いながら水色の携帯を開いて何かを確認するように「でもさ静羽、そういう時、ウソでもいいから行くってゆっとくもんだよ、普通」
「うん、そうだね、ごめん」
「ほらまたすぐに謝る」
 折原さんはまだ何か言いたげだったが、目を穏やかに細めたきり、再び前に向き直って歩き出した。
「折原さん」
「ん?」
「あたし、うまく人に言葉が伝えられない病気、とか、そんなの持ってるのかな」
 静羽がそう言うと、折原さんはくっくっと何かを堪えるように小さく笑った。
「あんた、病み過ぎ」
 静羽と折原さんはしばらく言葉も交わさないまま無言で店内を歩いていた。
 ぼーっとしていたことなんて、ない、と静羽は思う。自分だって考えている、それを伝える術は持ってないけれど。
 冷凍食品のコーナーにカートを押しながら来た時、一瞬だけ静羽は、岸壁にしかいないはずの少年の姿を見たような気がした。視界の端から端へ、少年はすっと静羽の目に映ったかと思うとすぐ左端の商品棚へと消え去ってしまった。静羽はそれを見て、
「ちょっ……と行って来る」
「は? どこへ」
「トイレ」静羽は早足で少年を追った。
「え、え?」静羽、ちょい、折原さんが止める間もなく静羽はどこかへ隠れてしまった。
 静羽は、葉山くん葉山くん、と小声で呟きながら少年の跡を追った。しかし、確かにいたはずの少年の姿は影も何もそっくりなくなってしまっていて、静羽が何十分探してもどこにも見つからなかった。狭い店内をあてもなくぐるぐると回って、そうしたら、いつのまにか折原さんさえいなくなってしまっていた。
 静羽は少年がいなくなったことにもいくらか安心したように思えた。店内の一番端にあるパン屋の前で、静羽は不意に立ち止まって辺りを見渡した。一定の音圧で響いてくる掠れた足音の群れを聴くと、――ああ、やっと一人になれたのかも、
 その時、背後から声が聞こえた。
「見つけたあ」
 その声は折原さんではない。もっと幼いものだ。
「ずっと歩き回ってんだもん、ついてくの大変だったのよ。……あなた、静羽さん? でしょ、そうだよね?」
 静羽は少し当惑しながらその少女を見つめた。地味な灰色のコートに、マフラー、頭には黄緑のニット帽、中学生くらいに見えたが、その割にはどこか落ち着いた雰囲気がある、と静羽は思った。
 あ、あたしね、葉山真一の妹なの、彼女は言った。
 え、それって葉山くんのこと?
 そうだよ、たぶん。
 △△高校二年生の? と静羽が確かめるように問い質すと、少女はためらいもなく頷いた。
 静羽は少女の全身をぼんやりと眺めた。
「何? 何で固まってんのぉ? いいからお話しようよ」少女はそう言って笑う。
 それから静羽とその少女は、店内にあるベンチに隣り合って腰をおろした。
「お兄ちゃんを探してたんでしょう。残念、もう帰っちゃった」
「あ、じゃあやっぱりいたんだ、葉山くん」
「いたよー」両足を交互にぶらぶら動かしながら、それとも、まぼろしでも見たって言うの?
 そうかもしれないってちょっと思ってた、静羽は天井の照明辺りを見ていたが、ふと少女に目を移す。
「名前、なんていうの」
 静羽は少女の小さな顔を覗き込みながら言う。
「あたし?」
「うん」
 少女は俯いて数秒だけ黙っていたが、やがて顔を上げた。「名前はねぇ……えーっとね」
 しばらくのあと「ロッテ」と少女は呟いた。
「お菓子のロッテ?」と静羽が訊ねると、
「ちがうちがう、小説に出てくる人の名前」
「はぁ」
「ほんとの名前だと思う?」
「うん」
「じゃあ、そういうことにしといて」と、眉根を寄せて困ったような顔をした。
 人がたくさん集まっている一角は、おそらくケーキやお菓子のクリスマス関連の商品がある場所だろう、と静羽は思う。
 そんなものを静羽と一緒に眺めながら、ロッテと名乗る少女と静羽は、ひとつひとつ丁寧に話をしていった。それはほとんどが他愛のない当たり障りのない会話だった。学校でのこと、バイトのこと、近所にオープンした美容室のこと、一緒にスーパーを巡っていた折原さんのこと、家族のこと、会話を交わしながら静羽は、この少女が「葉山くんの妹」である証拠なんて何もないことに気づいてはいたが、あえて口にせず、ただロッテの話に相槌を打っていた。でもさ静羽さん羨ましいな、そういうちゃんと話を聞いてくれる友達がいて、ねえ、あたしのクラス馬鹿な子ばっかりなのよ、あたしそんなくだらない人ならいらない、だから友達が一人もいないの、そう言ったあと、ロッテの耳の辺りはほのかに紅潮していた。静羽はどうしていいのかわからなかった。
 ロッテは、ふうっとひとつ息を吐いた。
「お兄ちゃんね、どうして小説を書くようになったか知ってる?」
「知らない、です。知りたい、教えて」
「弱いからよ」ロッテは続けた。「弱くて根暗だからよ。だから才能もないのに小説なんて書いてるの」
 静羽はロッテの顔をじっと見ながら無表情で頷いていた。
「怒った?」ロッテは少しだけ低い声で言う。
「別に、ぜんぜん」
 ロッテはまた足をぶらぶらさせながら、言葉で何かを埋めるみたいに「でもあたしお兄ちゃんのこと好き。あたしもお兄ちゃんくらいに弱い人だったら、小説だって書けるのになぁ」
 数メートル向こうの右手にある自動ドアが開くたびに、冷たい風が吹きつけてきた。寒いね、静羽が言ったがロッテは無言のままだった。代わりに、ロッテは静羽の頬に指先でそっと触れた。そうして静羽が嫌がらないことがわかると、右手で頬を覆うようにして、「いい?」
 静羽は頷く。 
 ロッテが頬から手を離さないままずっと俯いているので、ひょっとして泣いているんじゃないだろうか、と静羽は思った。頬にあてがわれていた手はいつのまにかふたつになっていた。隙間風がどこかから吹いている。今流れているクリスマスソングは静羽も知っている曲だった。
 
   十二月十八日 11:03 pm
 沈黙の時間が長いと、その分だけ、少年は何を思いながら海を見ているのだろうと、浅薄な好奇心が静羽の頭をよぎった。それは葉山くんだって同じことかもしれない、と静羽は思った。どうしてわたしたち、こんなにも口が重いんだろう。
 聞こえなくても別にいい、と思いながら、小さな声で「ねえ」と少年を呼んだが、案の定彼は気づいていない。もしこっちを向いてくれたとしても、ただ「『RIVER』っていう曲、知ってる?」とか、そんなことを言いたかっただけだ。
「静羽さん」
 静羽は「はい」と咄嗟に応える。
「今何考えてた?」
 遠くの橋では際限なく車が走っている。橋が見えているのではない、アーチ型に配置された小さく鋭い光の粒がそれを橋だと思わせるだけだ。真っ暗な海の遠方に浮かぶ橋のシルエットも、その平坦な道を走る車も、限りなく小さな橙色の光で作られていた。
「葉山くんは?」
「何考えてたか?」
「うん」
「ん……あの、小説のこと」
 そうだと思った、静羽は顔を伏せて微笑する。
 魚が跳ねているのだろう、時折海から、ちゃぽんという間の抜けた音がする。

      ❖

 学校の帰りに約束した通りの場所に行くと、ロッテがにこにこしながら静羽を待っていた。
「この前蛇いたから気をつけてね」ロッテが少しも表情を変えずに言い、緑色の低い柵を乗り越える。背中越し僅かに見えたロッテの頬に、白いもやのようなものが一瞬通り過ぎた。
「ねえ、ロッテちゃん、勝手に入って怒られないのかな? ほら、入り口の柵に立ち入り禁止って書いてあるし」
「さあねぇ」
 静羽もロッテに続き、『立ち入り禁止』の柵を跨ぐ。
 ロッテは、白い金網に囲まれた空き地の中を弧を描くみたいに歩いた。静羽はその背中を見ながらずっとついて行った。ロッテは時々静羽のほうを振り向いては不思議そうな顔をした。
「静羽さん、寒くない? マフラーないと、ねえ」
「ああ」そうかもね、静羽は首を垂れながら言う。
「自分のことなのに……いいよ、今度買いにいこう? ね」
「マフラー?」
「うん」
 静羽さん何色が似合うかなぁ?
 鋭い空風が二人の脚をかすめていった。
 寒いっ。 うん、寒いね。二人は手で空気を仰いで、共有しているはずの冷気を確かめ合う。
 枯れた木立が柵の外をぐるりと囲っている。その下には乾いた朽葉が溜まっている。話し声の余韻で冬木立がゆれる、響いたつもりの枝葉の欠片が薄い空の色に漂う塵になって密やかに舞う。ロッテが不意に駆け足になる。とんとんとん、と間の抜けた音がロッテが踏んだ地面から漏れる。静羽は仕方なしにあとを追ったが、走るたびに肌に寒気がまとわりついて震えるほどになったので、すぐに立ち止まった。ロッテは楽しそうに広場を走り回っている。ロッテは自分の瞳にできる限りの景色を焼き付けてしまいたいと思いながら空き地を駆けていた。白い金網、その上にかかるネット、地面に広がる真っ白い砂利と暗緑色したちびの雑草、低空を横切る茶色い小鳥、ようやく色が薄らいできたように思える重なり合ったふたつの山、等間隔にみっつ並んだ白いベンチ、野球の得点ボード、隅っこのほうにある錆びたドラム缶、ぼーっと突っ立ってる静羽さん、誰かが置いてったバスケットボール、今にも壊れてしまいそうなくらいきれいな青い空、
 遠景に映る木の葉が風に吹かれているように、
 駆け回るロッテはちょうどそんな風に静羽の目に映った。

 十数分もすると、ロッテは力尽きたように地面にへたり込んだ。
 静羽はゆっくりと彼女に歩み寄って、
「疲れた?」と声をかける。
「うん。静羽さんも座りなよ」
 静羽はロッテの隣に体育座りで腰をおろした。ふと空を仰ぐと、もう暮れかけていることに気づく。
 ロッテの頬や鼻はほのかに紅潮していた。彼女の息は外に漏れた途端白くなってしまう。
「ロッテちゃん肌きれい」
「そんなことないよ」
 ううん、ほんとにきれいなんだから、そう言いたかったが、静羽は口をつぐんだ。余計な確認を促すような、そんな無意味な馴れ合いは嫌だ、と思ったからだ。
 代わりに心の中で、本当にきれいだなぁ。
 地べたに生えた枯れ草がかすかに肌を刺した。
「静羽さん」
 静羽はロッテの横顔に目を向ける。
 ロッテは何も言いはしなかった。
 だけど静羽には彼女の言いたいことがわかったような気がした。静羽はロッテの頭をそっと撫でた。
 小さな枯れ葉が空気に漂っている。

   十二月二十日 11:43 pm
 頬の辺りを夜露が濡らした。雨が降っている? 静羽はそう思ったがやがて、それは風に乗ってきた潮の粒のようなものだと気づく。
 五分後、少年がやって来た。静羽は手をあげる。少年は気づいているのだろうが、何の反応も示さず静羽のほうへ歩いて来る。
「ねえ、ポケットに手突っ込んだまま歩くの、危ないよ」
 そうかもしれない、少年の反応はまたしてもそっけないものだった。
 少年は長い息を吐きながら岸壁の上に深く腰掛けた。
 十分ほど、二人は言葉も交わさずただ銘々に海を眺めていた。葉山くんの調子が悪い時はいつもこうだ、と静羽は思う。あなたと話したいからここに来てるのに、
 静羽は、いつか少年が指し示した時のように、どこにでもある海の一点をじっと見つめた。相変わらず何も見えてこなかったが、少年がこっちを見ていることだけはわかった。海の色はどこも同じ、黒に近い藍色をしていた。
 少年は不意に立ち上がって、両手を水平に伸ばした。静羽にはその後ろ姿しか見えない。
「こっから落ちたらどうなるかな」
「寒い、と思う」と、静羽は答えた。
「凍死したりすんのかな」
「さあ」
「じゃ、俺今から飛び降りるわ」
 岸壁の端っこに立った少年は静羽を向いて微笑み、それからまた眼前の海に目を注いだ。 
「どうして?」
「死にたいから」風が、静羽の耳を風呂敷のように塞ぐ。「ソクラテスっていう偉い人が言ってたんだ、『哲学者は智慧を求めるために自ら死を選ぶべきだ』って」
 静羽は少年の頭に被さったニット帽を見ていた。
「だから今ここで死ぬ、さよなら」
 少年はまだ何か言うつもりで口を柔らかく窄めた。
 言葉が漏れ切らないうちに、静羽はいつのまにか少年の身体を抱きとめていた。
「だめ」
 背中越しだけど、少年の身体に今までで一番近づいていた。
「……冗談だよ」
 それでも静羽は少年の身体から離れようとしない。少年は、ちょっと救われたような心持ちになりながら黙って海を見つめた。

      ❖

 雨が降っていることを、静羽は自分の部屋の窓から見咎めた。水浸しの窓の向こうには濁った水の群れ、静羽はその雨音を聴くともなく聴きながら、フローリングにころりと寝転がった。
 雨音が部屋ごと世界を包み込んでくれるような気がした。わたししかいないこの部屋を。
 そうやって地球の全部が単純になればいいのに、そしたら葉山くんも小説なんて書かなくてすむし、折原さんはわたしみたいなつまらない女にかかわらなくてすむし、杏里さんはわたしの知らない歌をずっと上機嫌で歌っていられるし、お母さんだって女手ひとつでわたしたちを必死に育てたりしなくてもいいし、ロッテちゃんはよくわからないけどたぶんわたしの前で泣いたりすることもなくなるだろう、
 床の冷たさがしきりに耳朶の痛覚を刺激したが、静羽は起き上がる気にもなれなかった。
 このままじっとしていられるなら、と静羽は思った。
 何かが転がる音がした。テレビのリモコンが足に当たった。髪の先に小さな埃がついている。雲が足早にもたげてたちまち夜になった。空が重ったるい藍に変わった。静羽は真っ暗な部屋の中で息を潜めた。唇が平らな床に触れた。そのまま舌先でなめてみると、ほんのりと苦い味がした。そのあと、自分にしか聞こえないほどの声でささやいた。
 ――永遠なんて、あるのかな。
 今日は漁港には行けないかもしれない。

   十二月二十四日 00:35 am
 岸壁の尖端に少年が小さく座っている。なんだ、今日は静羽さん来ないのか、ずっと待っていたが、日付が替わっても静羽がこの漁港を訪れることはなかった。
 ああ、もう、少年は言葉にならないうなり声で、死にたい、と呟くが、海のさざめきにその声すらかき消される。それが無性に腹立たしく感じ、少年はおもむろに立ち上がって地面を強く踏んだ。小雨が依然として降り続けている。少年のダウンコートが水滴を弾く、ああ、安物特有の、少年はため息をつきながら思う。
 今度こそ死のうと思い立ち、少年は身体を伸ばしたまま海の傍へにじり寄った。
 永遠なんてこの世にあるわけないじゃん、うん、絶対にない、
 この世界は俗にまみれたゴミ溜めなんだ、皆が皆ちょっとでも生き易くなりたいために進んでゴミみたいなことやってそれで金貰って人罵って教科書に書いてある通りの物理学を信じて、そんなゴミ溜めの世界に永遠なんてあるはずがない、と少年は思った。
 見つかるかなあ、死んじゃえば。
 爪くらいの大きさの円環が転がってガラスの雲が曲がりくねって暖色がめくらみたいに僕を覆ってああ、これが永遠なのかな、なんて、そうなればいいな。静羽さんにも来てもらいたかったな、あなた以外の誰もいらないからさあ、
 足先が固まった。眼前はもう死の底っぱちなのに。
 少年は狭苦しいコンクリートの地面に横になった。
「死にたい」
 誰もいない場所に少年の低い声だけが響いた。「死にてえー」
 少年は仰向けになって、夜空を見た。 
「うわ、美しい」
 握り締めていた携帯電話から声が漏れる。おーい、お兄ちゃん? こら、早く出ないと切るよ、 
「もしもし、恭子?」
「あんたがかけてきたんでしょ、かけっぱなしで返事もしないで。どうせ海に来てるのよね」
「うん。今度こそ死のうと思って。でもやっぱダメだった」 
「ふうん、馬鹿みたい」
「そんなこと言うなよぉ、ほら、お星様がきれい。静羽さんにも見せてあげたい」
「雲があるのに星なんて見えるわけないじゃん」
 そう言われて少年は初めて気がついた。雨は、既にあがっている。 
「ねえ、お兄ちゃん聞いてる?」
「ああ、何?」
「帰りがけにエクレア買ってきて、お願ぁい」
「またかよ」少年はけたけた笑う。「ストレスで俺を殺す気?」
「なあ、恭子」
「うん?」
「めっちゃ怖い、今」
「どうして?」
「わかんないけど、なんか怖い」
 まだ生き続けてればどうせもっと怖くなる、と少年は思った。どうして? 携帯電話からは砂みたいな恭子の声が聴こえる。

 誰かが少年の肩を叩いた。浅い眠りから醒めて起き上がると、夜闇の中、しゃがんで丸まった静羽が見えた。口をきっと結んで、よくわからない表情をしている。
「今何時?」
 静羽は携帯電話を開いて時刻を確認する。「am二時半、です」
「ああー、思いっきり丑の刻じゃん」
 そういえば、小さな頃は幽霊以上に怖いものがあるなんて想像もしなかったな、と少年はふと思って、それをそのまま静羽に伝えた。静羽は姿勢を変えないまま、そうだね、俯いて何か考え込んでいるような仕草をする。
 何でこんな時間に来てくれたの、少年が訊ねる。
「ロッテちゃんから電話あったの、お兄ちゃんのとこに行ってあげて、って」
「え……」ロッテって、誰だ? 少年が目を大きく開けて訝しげな様子を見せると、静羽は声をあげて、ひゃはは、やっぱ偽名だったんだ、少し恥ずかしいくらいに笑った。 
「妹さん」
「誰の」
「葉山くんの」あなたに似て変な人だったよ、続けてそう言おうとしたが寸前でためらい、言葉を飲み込む。
「会ったことあんの? 妹に」
「うん」
「ふうん、……何してんだよ、あの子は」
 あ、そうそう、静羽さん、少年の声のボリュームがほんの一段だけあがる。「はい、ここに仰向けになって」少年が目と顎でコンクリートの地面を示す。
「え?」
 え、え? 静羽は苦笑いしながら、はぐらかそうとずるずる後ずさりして少年と距離を取った。
「あ、そ」少年は紙を破くみたいに微笑む。「まあいっか、星がきれいだねって、ただ空を見て欲しかっただけなんだけどね」 
「え? ああ、あ、そうね」ごめん、取って付けたように静羽が謝ると、
「でも本当はそんなこと言いたいんじゃないんだな、って。僕らそんなモデルみたいなものはいらないなって」
 夜気が静羽の身体に触れ続けている。今日はいっそう寒い、静羽はそう思いながら自分の肌をさすった。
「静羽さん、俺ちょっと寝過ぎたみたい」
「うん」
「そこら辺散歩してくるよ。たぶん十分くらいで戻ってくるから、待ってて」
 うん、静羽は頷く。
 本当に少年はどこかへ行ってしまい、岸壁には静羽だけが残された。暗闇の中、手探りしていたら、海へ落とされるかもしれない。静羽は身を固くして遠くの街灯りを見つめた。その光しか色はないように思えた。ロッテちゃんに電話しようか、それもなぜか一瞬のうちに思い留まった。
 静羽は緩慢な動きで足を伸ばし、背中を地面へ預けて、そのまま仰向けになった。
 空を見たが、星はひとつも見えなかった。月だってない。ウソついたな、葉山くん。
 やがて、耳鳴りのような風の音も、かすかに聴こえていた自動車の走る音も、ゆれる海の音も、すべてが閉塞して何も聴こえなくなった。
 目の醒めるような黒と灰色のグラデーションを隅から隅まで広げた夜が、静羽を圧迫させた。完全な空は底の見えない暗闇のように瞳を覆う。
 その暗闇が、信じられないほど大きな口を開けて、わたしを飲み込もうとしてるみたいに。
 風だと思うけどはっきりとはわからない。包んでくれるような優しさなんかじゃない。
 肌が壊れてしまいそうなほどの冷たさと共に、ずっとわたしの身体を包んでいた殻みたいなもの、――わたしの沈んだ気持ちをいつも一生懸命になだめすかして楽にしてくれて、それでいてわたしの生き方をずっと邪魔して、思うように意思を外部へと運ばせてくれない重荷――そんな硬い殻みたいなものが、この岸壁の上で、もう要らないものみたいに簡単にはがされて、気がつくと心が全部、冷気にむしりとられていた。わたしは形を変えない空を覆う大きな闇をずっと眺めていた。そうしたら、わたしの中に一滴だけ残っていたしずくみたいな意識さえも、深い深い深いふかい夜の底に沈み込んでいった。わたしの頭の中はありえないくらいにまっさらになって、もう「永遠」のことなんて何も考えていなかったけれど、ひょっとしたら、そういうことなのかもしれない、「永遠」って、つまりはそういうことの延長線上にあるものなのかもしれない。
 自分を守っていた殻が全部はがれて裸みたいな心になって、やがてその心だって静かにはがされて消え去ってしまう。
 ほんの一瞬だけ姿を見せた「永遠」は、限りなく孤独に近かったように思う。
 
「ね、怖いでしょ」まだ仰臥して空に目を注いでいる静羽に、少年が言った。
 怖い、と、静羽は呟いた。
「怖いと思えるってことはいいことだと思う。実際、こんなとこでもし僕が死んだとしても、ひょっとするとそんなにたいしたことじゃないのかなぁ、なんて、だってこんなに広くてこんなに静かなんだよここは。
 僕らだってね、ここに今座ってる僕と静羽さんだって、夜のすべてからしてみたらただの点だよ、真っ黒い大きな空間に針でつついたみたいな白い点があっても誰も気がつかない、要するに人間なんてそんなもんだよ。点、点、点、それが僕らで。自分の存在なんてそんなもので、でも皆がそれに気づかないで、ていうかむしろ、気づかないふりして過ごしてる。世の中の馬鹿な奴がどうして馬鹿なくせにあんな傲慢なのかこれでわかったろ? 僕と静羽さんはちゃんと知ってる、こうして、自分が何もないって教えてくれる場所があるから」
 静羽は少年の話に耳を傾けることはしなかった。ただ、少年の声だけがこうして暗い淵から聴こえてくる、それだけで静羽の心は安らいだ。呼吸でも何でもよかった。
「ゼロになれんだ、ここに来ると。
 ……けど、僕はゼロのままで終わりたくない」
 少年はニット帽を片手でもぎ取って、そのまま海へ投げ捨てた。
「葉山くん」――あたしって、なんにもないの?
 少年は答えない。その顔は風のせいで霞み、見えなくなった。
 なんだ、からっぽじゃん、静羽はそう思う。

      ❖

 管理人に訊くと、杏里さんは十日ほど前に部屋を出て行ったということだった。学生さん? と温和そうな顔で管理人は言った。管理人は五十代程度に見える肉付きのいい女性だった。あの人逃げたのよ、四ヶ月も家賃滞納してよ、信じられないわよねぇこんなこと初めてよ、払います払いますって泣きながら毎回言うもんだからね今までずっと我慢してやってたのよ、管理人の話を聞いている静羽のポケットには杏里さんがくれたハンカチが入っている。杏里さんが出て行った日は、静羽が赤いハンカチを渡された日とちょうど重なっていた。静羽は管理人に一礼して、逃げるようにアパートを離れた。
 住宅地の細い路地を歩きながら静羽は杏里さんの顔を思い浮かべようとしたが、何度想起してもそれは輪郭だけののっぺらぼうになるばかりだった。目や口元など所々のパーツはわかるのだけど、肝心の全体像は全く思い描けなかった。
 人が皆、ただの点なのだとしたら、それも当たり前だろうな、と静羽は思う。
 水溜まりがくすんだ空とひび割れたコンクリート塀を映し出している。風もないのに、波紋は穏やかにゆれていた。鳥の鳴き声がした。
「静羽さんは、どんな人になりたい?」
 その日、少年は静羽に訊ねた。
 静羽は少し髪をいじくってから、何かを決意したみたいに、言った。
「たくさんの景色を知ってる人」
「うん」
「その中から、自分の一番好きな景色を選べる人になりたい」
「そっか」
「今は、まだ何にも知らないけど」
「僕もだよ、僕のほうが何にも知らない」 
 少年の声を聞くと、静羽の目は急に潤んだ。それに気がついた瞬間にもう、涙が頬へこぼれてきた。
「こんなのいらない」
 意思とは関係なしに流れ続ける涙にいらいらしながら言った。それでも止まらなかった。
 そんなことを思い出すたびに静羽の足取りは鈍って、どんなところにでも立ち止まりたくなった。
 どこかの路地裏にあったような気がする、どこかの水面に浮かんでいたような気がする、どこかの電線に引っ掛かっていたような気がする、どこかの空に飛んでいたような気がする、どこかの足元に転がっていたような気がする、どこかの料理に混ぜ合わされていたような気がする、どこかの人が見ていたような気がする。だけど、捕まえようとすればするほど、「永遠」なんてものは静羽の目から離れていった。
 皆、ただの点。――景色だって、ただの点の集まり。
 街の喧騒は、やがて静羽の瞳からゆっくりと消えていった。

 自転車に跨ったロッテが、白く透き通った手を伸ばして懸命に振っている。静羽は遠くにいるロッテをじっと見つめる。
 あの子だけはきっと、目を瞑っても思い浮かべられるようにしよう、と静羽は誓う。急に胸が締め付けられるような想いがしたから、それを振り払うように、静羽は早足でロッテのいる場所へと駆け寄った。するとロッテは微笑しながら小さい口を開けて、

 ――    。

 その時、そこにいた少女が、確かにわたしの名を呼んだ。


初出:『Zero』 2010年春頃